握られた手が熱くて、どうしようもなくドキドキした。
39.アイボリー
相も変わらず賑やかなグランドからの歓声をバックに俺たちはただひたすらに無言で廊下を歩く。正直なんていうか、どうしようもなく気まずいよね。繋がれた手を見て、伝わる温もりに不覚にもドギマギする。最早どうしていいのかわからなくなった今の俺は、恐らくひどく挙動不審に違いない。
だって、手なんて繋いだのいつぶりだよ。小さいときはよく千秋に手をひかれて公園とか、一緒に遊びに連れて行ってもらったっけ。
保健室の扉を開いて、中に入る千秋の後ろに続く。落ち着いて考えてみればいい年した男2人が手繋いでるとか相当寒くないか…。誰かに見られたくなくて、思わず手を引いたけれど千秋は離してくれなかった。
「失礼します」
絶対に誰かいるだろうと思われた保健室の中は、意外にも空っぽでほっと息を吐く。そういえば、さっきの騒ぎのせいで生徒会や風紀の人員が割かれてしまったはずだ。育ち盛りの男子生徒ばかりが盛り上がるグランド、救護係やほかの担当の委員たちは大丈夫だろうか。
「そこ、座って。」
「…うん」
とりあえず促されるままに空いてるベットに着席、そうしてやっと離される手。千秋はそのまま俺に背を向けて、保健室の棚を開けている。その間の俺はといえば…
「(うわあー…、どうしよう)」
まさにパニック状態。だってここ誰もいないし、なんか千秋も雰囲気違うし、数カ月のブランクがあるし。あああああ。
そわそわと落ち着かなくて、視線を彷徨わせるけれど、目に入るのはやはり千秋の後姿。そういえば千秋、背伸びたなぁ。中学までは俺と同じくらいだったのに、今じゃ雲泥の差だよ。一緒に暮らしてた頃は俺と生活リズムだってそんなに違わなかったはずなのに…俺も180はほしかった。
そこまで考えて、やっぱり何となくだけれど、俺たちは兄弟じゃないんだなぁと妙に納得してしまった。この間まで、ぜんぜん受け入れられていなかったくせ、なぜか今ならすんなり認められるような気がするのは、俺がちょっとでも成長できたからだろうか。
そうこうしているうちに千秋が戻ってきて俺の前にしゃがみこむ。その手には消毒液と、絆創膏。
「足出して」
「俺、怪我してないよ?」
「…ここ、擦りむいてるよ」
「へっ?あっ、ほんとだ、でも痛くないし…」
「動かないで」
「…ごめんなさい」
言われて初めて気づいた膝の小さな擦り傷。別にこのくらい痛くもないし、消毒だなんて大げさな、とやんわり断ればまるで子供のように注意されて、思わずシュンとした声が出る。駄目だ、千秋を前にするとどうしても自分の粗が目立つというか…。
あ、傷口に吹きかけられる消毒液が意外に浸みて痛い。結構痛い。
「どうしたの、もしかして痛い?」
「あ――…ううん」
ここで頷くのは癪なので、とりあえず否定しておく。体操服から覗く膝に貼られた絆創膏を見て、小さくありがとうと呟いた。そういえばこんなしょうもない怪我をしたのも久しぶり。部活をしてればたまに怪我もするけど。
そうして保健室内になんとも言えない沈黙が立ち込める。何か話そうと思うのだけれど、どういうわけか言葉が出てこない。
とりあえず何でもいいから話さなきゃ。でも、何を?
千秋に避けられて寂しかったとか、生徒会の仕事のせいで部活行けなかったとか、新聞の記事のせいでひどい目にあったとか…。
あー…ダメだ。愚痴しか思い浮かばない。
前まで、俺はどうやって千秋に接してたんだろう。何年もずっと一緒に過ごしてきたはずなのに、たった数ヶ月、喋らなかっただけでそれすら忘れてしまったような気がした。
「隣、いい?」
「――えっ?あ、はい」
そんな中で最初に口を開いたのは意外にも千秋だった。わざわざ声をかけてから俺の隣に腰かける千秋。その何とも言えない微妙な距離感に、今度こそ完全にかける言葉を失う。
俺も千秋もなんか、変だ。
「…あいつらに、何かされた?」
「あ、いや、大丈夫、だった。なんとか」
恐らく先ほどの強姦未遂の件だろう。危うく食われるところだったけれど、反射的にそう答える。実際そんなに大丈夫じゃなかったけど。
そんな俺の心中を察したのか千秋はあまり納得していないようで、少し眉を寄せて俺から視線を外す。
「――ごめん、」
静かに、でもはっきりとした声でそう告げて千秋は顔を歪める。数秒の後、言われた言葉の意味を理解しかねて、思わず俺も顔を顰める。
彼は、何を謝っているんだろう。
「それは、何に対しての謝罪?」
「――全部、かな。」
そういって小さく苦笑を零す千
秋に首を傾げる。全部って、何?
今回の強姦未遂のこと?
冷たく突き放したこと?
今までのそっけない態度?
それとも、
兄弟じゃないと、告げたこと?
「全部って…、でもさっきのは別に千秋のせいじゃないじゃん」
「いや、元を辿れば俺のせいだよ」
俺が返した返事をすぐに切り捨てる千秋に思わず眉を寄せる。なんか、やっぱ今日の千秋は変だ。
「…新聞の記事を書いたのが誰なのか、ほんとは何となく気づいてたんだ。そもそも俺が碧に兄弟じゃないってことを伝えれば、いつか絶対にこの情報は学園にも知られる。あの時は、その方がいいと思ってた。そうすれば周りに気にせず行動できるだろうってさ。勿論警戒はしていたけど、結局あの記事が出て、そうして今回のことがあって。俺は何も行動に移さなかった。碧のことをもっと気にかけていれば、こんなこと、起きなかったんだよ。」
「――」
「だから…、ごめんね。この何か月か、俺はお前に酷いことをした」
そこで一旦言葉を区切った彼は、すっと立ち上がって俺の向かいのベットに腰かけた。絡まる視線に、思わず目を逸らす。真っ直ぐ彼を見ることが、今の俺には出来ない。
「ほんとは、…兄弟じゃないって言うのも、すごく、悩んだんだ。」
「……」
「実際兄弟じゃないっていうのは本当だけど、でも、血の繋がりなんて関係ない。だって今更、そんなもので切り離される俺たちじゃないだろ?」
そう言われて、思わずはっとした。そうだよ、俺は何をあんなに悩んでいたんだろう。血が繋がってなくとも、今まで一緒に暮らしてきた事実が消えるわけじゃないのに。しかし次に告げられた言葉に、今度は一気に脳内が冷えていく感覚に襲われる。
「…でも、少なくとも俺は嬉しかったんだ。お前と兄弟じゃないって知って」
「え、」
「碧が嫌いなわけじゃないよ。でも、やっぱりこのまま兄弟でいれば、きっといつか後悔する日が来るだろうとわかってたから。だから、どんな結果になっても、後悔だけはしないように、あの日、碧に本当のことを言ったんだ。」
言われていることをただただ呆然と聞く。聞いてはいるけれど、俺の小さい脳内ではまだ理解できていないようで、話が入ってこない。千秋は、何の話をしてるんだ――?後悔?結果?
見えない話を聞いているのに、次第に心臓のあたりが早鐘のように脈を打つ。
「あのままいつも通りに接すれば、きっと碧は俺を今まで通り“兄”としてしか見てくれないと思ったから、突き放した。酷いこともいっぱいした。」
「なに、言ってるの――?」
「お前の“兄”としてじゃなくて、“千秋”として、碧が俺を見てくれるように。学園にいる時は生徒会長として…、星山千秋として、碧に接することにしようって、」
「千秋、」
「でもその結果がこれだ。大輔にも怒られたよ、俺の気持ち一つ伝えるがためだけに、こんなことになるならやっぱりやめておくべきだった。」
切なげに笑う千秋に、俺はぐるぐると回る思考を必死に手繰り寄せて、考える。正直、ほんとは頭の片隅で千秋の言いたいことがわかってるような気もする。だって俺、そんなに鈍くない。
だけど、それを聞いてしまえば、もう完全に今の関係は崩れさってしまう。
「俺のただの我儘に、付き合わせて本当にごめんね。もう、これで終わりにするから」
「っ千秋、」
「お願いだから、聞いて。もう、これ以上この気持ちを持て余すのはごめんなんだ。」
遮ろうとする俺の言葉を、千秋が制する。きっと、俺は今、すごく情けない顔をしているんだろう。聞きたくない、だって――
そんな俺を見て眉を下げた千秋は、それでも少し笑ってから口を開いた。
「碧が、好きだよ。兄弟としてじゃなく、1人の人間として」
告げられた言葉に、めまいがした。