杏里様


 最近、箱の中を確認するのが嫌で仕方がなかった。箱と言っても段ボールや新しく購入したバッシュが入っているような物ではない。例えば、家のポストであったり学校の靴箱であったり教室の机だったり部室のロッカーだったりと日常生活に於いて必ず触れるそれらのことだ。
 そしてそれを避けることは出来ない。それ程黄瀬の日常に深く関わっていたからだ。
 今日も例外なく黄瀬は神妙な面持ちで上履きに履き替える為、自分の靴箱を開ける。
「……ッ」
 思わず閉めてしまった。目の奥がじわりと熱くなる。しかし放っておくわけにもいかず、黄瀬は濁った白に上塗りされた上履きを掴んで近くの男子トイレのゴミ箱へと捨てた。その後念入りに手を洗う事は忘れない。
 仕方がないので来賓用のスリッパを拝借して一日をやり過ごす事にした。この時ばかりは朝から仕事で良かったと心底思う。
「いつもは手紙なのに……流石にコレはキツー」
「何がだ?」
「うわっ!」
 濡れたビーカーやフラスコが入った籠を所定の場所に奥と背後から聞き慣れた声がした。しかし黄瀬にとっては予期せぬ出来事で大袈裟に肩が跳ねる。
「か、笠松センパイ? 何で……」
「あ? 俺ら次の時間ここ使うんだよっつーか……」
 そう言うや否や笠松の視線は黄瀬の足元に移る。
「何でスリッパ?」
「あ、えと……」
 言えるわけが無かった。《他人の精液が付着していたから》など。だから得意の笑顔を作る。キラキラと窓から差し込む光を目一杯反射させる。
「じゃあ、ナイショってことで」
「じゃあってなんだよ。……まあ、別に良いけど」
 笠松は深く入り込もうとはしない。相手が話し出すのを待つような人だ。それはバスケ部に入部してから初めて敗北を経験した日の二日後に知った情報である。
 心中で安堵の息を漏らす。頭上にある壁に備えつけられたスピーカーから予鈴が鳴った。
「うわっ、俺次体育だった! あーでも先生に片付けの報告行かないと……うーでもでもっ」
 時計と入り口と準備室への入り口をランダムに見ながらそわそわと落ち着き無く動く。そんな黄瀬に呆れの溜め息を零すと拳で軽く肩パンを食らわせた。
「化学の‘カガク’だろ? 言っといてやるからさっさと行け」
「センパ〜イ……ありがとっス!」
 上体を前方に倒してぎゅうっと抱きつく黄瀬にポンポンと軽く頭を撫でるように叩く。するといつの間に入って来たのか――しかし予鈴が鳴ったのだから寧ろ居ないと考える方が難しい――クラスメート達の黄色い声や歓声が上がる。
 そんな事も全く意に介さず、黄瀬はもう一度お礼を言うと教室を出て行った。
 ケガするなよ、と言う笠松の忠告に元気な返事だけが廊下に響いた。
 いつも通りの黄瀬涼太を振る舞い続け一日の予定は全て終わりを迎える。部室で各々着替える中で黄瀬は小さく震える手で自分のロッカーを開けた。握り締めた手の平の間にタオルがあるお陰で爪痕が残る事はないようだ。
「……ッ!」
 勢い良く扉を閉めた黄瀬にその場に居た一同が目を見張る。そんな怪訝な視線に気付いたのか俯き加減な顔を上げてにこっと眉を情けなく下げて笑った。
「何か忘れ物しちゃったみたいなんで取りに行って」
「黄瀬」
 入り口に手を掛けたまま動きを止める。振り向かずに返事を返せば真剣な声音で笠松が言葉を続けた。
「流石にもう見て見ぬ振りは限界だ」
「な……にを、言っ」
「ロッカー。何かあんのか」
 箱の名前が出た瞬間ビクッと肩を揺らす。自白しているようなものである。
「黄瀬が自分から言い出すまで待とうって言ってたんだ。でも、今の反応を見るともう放っては置けないな」
「俺(れ)達じゃあ頼(り)ないってか?」
 森山と早川が続くとドアノブから黄瀬の手が離れた。振り向いた彼の表情は道化師の仮面が剥がれ落ちたかのように本心が現れている。明らかに泣いていると分かるのに、その瞳からは涙が一滴も零れていない。
「セ……パ、イ」
 震える声はそれ以上言わないが目が語っていた。確かに助けを求めていた。
「こっちに来い、黄瀬」
 手招きしながら小堀が優しく言うと黄瀬はゆっくりと近付いた。促されベンチに座ると淡々と話し始めた。
 毎朝靴箱と教室の机の中に明朝体で印刷された手紙が入っている事。数週間前から自宅のポストにも投函されている事。愛の言葉や卑猥な言葉が書き連ねてあったが最近は加えて脅迫じみたものへとなりつつある事。帰りはいつもつけられている事。昨日は腕を掴まれたが振り切って逃げた事。
 そして何より驚いたのは入学式の日からそれが始まっていた事だった。
「今日、スリッパだったのは……」
 それきり口を閉ざしてしまう。これだけの内容を聞けばもう充分だ。それを告げれば黄瀬はフルフルと頭を振って拒否した。
 全部話すと震える声で、しかし確かな声音で言う。
「今日は……手紙じゃ、無かったんス」
 次に紡がれた言葉で全員絶句した。同時に腹の底から沸々と怒りがこみ上げてくる。
「いっぱい……精液が、付いてたんスよ。俺の上履き」
 そんなの履けるわけ無いじゃないスか。と困ったように笑う黄瀬に胸が締め付けられる。
「ロッカーは……言うより見た方が良いかも知れないっス」
「開けるぞ?」
「ドーゾ」
 森山が扉を開ければ不快と怪訝が混じったような表情になる。他の部員も覗くも皆同じ様な顔をしていた。
 以前雑誌に掲載されていた水着姿の黄瀬が引き伸ばしされた物に髪や口周りを重点的に乾いた白濁が付着している。それが正面に貼られていた。扉裏には明朝体で《涼太の先輩は悪い人だから罰を与えようね》《どうして何も言わずに出て行くの? イケナイ涼太にはお仕置きが必要だね》《折角私の愛を注いだのに。涼太は恥ずかしがり屋さんなんだね――》
「――でもちゃんと明日はそれを履くんだよ……ストーカーも行き過ぎりゃ只の変態だな」
 笠松がロッカーに入っている上履きを見るなり眉を顰める。確かに捨てる他無い。
「ずっと一人称が《私》で……女性のストーカーだって思ってたんスよ。モデルの先輩も昔は良く遭ったって言ってたし。でも、それ見て……俺、……も、怖くて……」
 大分参っているのか黄瀬が浅く短い呼吸を繰り返す。それにいち早く気付いた笠松が正面からぎゅっと抱き締めた。宥めるように背中を撫で後頭部に回した手は動かないよう固定する。
 そして落ち着いたトーンで何度も何度も「大丈夫だ」と繰り返した。
「ありがとな。もう大丈夫だから。もう、泣いていいんだ、黄瀬」
 自分の肩口に押し付けるようにして抱き締めれば黄瀬の腕が笠松の背中に回る。シャツを握る手は、まるで縋りつくようだった。
 黄瀬のことだから警察沙汰にだけはしたくないのだろう。そうでなければ早々に被害届を出していた筈だ。
「さて、どうする笠松」
「それなんだけどさ――」
 斯くして相談して以来ストーカー被害はぱったりと消えたわけだが、しかし黄瀬には嬉しい反面腑に落ちない所がある。
「何でっスか」
「何が」
「被害が無くなったんスけど」
「良かったじゃねーか」
 素知らぬ顔で柔軟をする笠松に問い詰めてみても話してくれない日が続いていた。勿論、森山や小堀等様々な部員に尋ねてみたものの反応は似たようなものだ。
「何で当事者の俺が何も知らないんスか! みんな知ってるのに俺だけ何も知らないとか何かハブられた感じがするっス!」
 ぴーぴーと鳴く雛鳥宜しく黄色い頭が喚き立てる。鬱陶しそうに溜め息を吐くと、笠松は一発、煩いと文句を添えて肩パンを食らわせた。
「んなもん中学生でも考えられることだろ。被害が入学式から始まって校内であるなら関係者疑うだろうが。そんで黄瀬と化学室で会った日にちょっと違和感感じたからカマかけたらアッサリ白状しやがっただけだよ」
「違和感?」
「ロッカーに貼ってた紙。お前が何も言わずに出て行って先輩関係してたのってあの日しかねーだろ。事実、俺が黄瀬が体育だからもう出てったって言ったら凄い形相で睨まれたしな」
「ちょちょちょちょ」
 柔軟を終えた笠松は話は終わりと言わんばかりに立ち上がり歩きながら練習メニューの指示を出していく。ひょこひょことその後ろを着いていく黄瀬の姿は親鳥の後ろを行くヒヨコを彷彿とさせた。
「えっ、それじゃあまるで……え?」
「何だよ」
「マナブ先生が、まるで……」
「そう言ってんだろ」
 言ってない!
 そう口を開いたもののしかし実際はパクパクと何も言わずに開閉するだけであった。まさかそんなに近くに居ただなんて。
 しかしだから突然辞職したのだと言うのも頷ける。
「つーかお前カガクの事名前で呼んでんのかよ」
 クリップボードを片手に眉間に皺を寄せる。そんな笠松の足元に黄瀬はちょこんと寄り添うようにしゃがんでいた。
 それを見た森山は近くに居た早川に「見ろ。現代版西郷隆盛とツンだ」と言えば盛大に吹き出したのだが彼らがそれを知る由も無い。
「だってそう呼べって……」
「律儀だねー。お前くらいじゃね? カガクの事ちゃんと呼ぶの」
 ペラリと紙を捲る。視線はボードに向いたままではあるが耳は黄瀬の声を拾っている。
「そもそも何でセンパイ達はみんなカガクって呼ぶんスか? 確かに化学の先生っスけど」
「んなもん苗字が‘シナ’で名前が“マナブ”だからだろ。お前もいつまで其処に居るんだよ。ダッシュ始めんぞ」
「あ、待って! センパイっ」
 ラインに並ぶ部員の元へ駆けていく黄瀬の表情は、久し振りに見せた穏やかなものであった。
 その笑顔を守る為なら――。




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