ナツメグ一号様


 黄瀬はモデルとしてこれ程までに緊張をしたことが無い。
 無名から有名まで様々なモデルや俳優が控え室で各々の時間を過ごす中、黄瀬は部屋から出て少し歩いた所にある窓に背中を預けて立っていた。
 都内某所にあるビルの七階だ。景色は別段良いとは言い難い。周りも背の高いビルばかりでつまらないのだ。下を見れば車や人がジオラマのようだが、それも次第に飽きが来る。
 まるで、あの日言われた自分のようだ。
 数年前のある日、黄瀬がまだバスケと出会う前のこと。あの頃はモデル業をそつなくこなしていた。カメラマンの指示通りに表情を作り、コンセプトから外れないポージングをする。特に面白味も何もない。言われたことを遂行しているだけの仕事だ。
 けれど黄瀬はとある雑誌の撮影で担当したカメラマンに言われた一言が喉に刺さった魚の小骨のように引っかかっていた。
「――君、つまらないね。今は良くても近い内に飽きが来る。こんな酷い被写体は初めてだよ」
 目を閉じなくても脳裏に当時の様子が浮かぶ。そのカメラマンは黄瀬にNGを出すこと無く、予定通りに仕事を終わらせた。その雑誌は売れ行きも上々で世間からの評価も高かった。ザマアミロ。そう内心毒吐きはしたものの、もやもやしっぱなしである。
 それから程なくして、黄瀬はバスケと出会い、海常と出会い、氷室と出会った。
「声……聞きたい」
 携帯端末の画面をタップして着信履歴を開く。一番上にある名前は寝る前に繋がっていた恋人だ。
「らしくないっスよね」
 怖いのだ。とてつもなく。
 今日、黄瀬がこのビルに来たのは他でもない。来春発行する新しい雑誌のオーディションを受ける為だ。その専属カメラマンが、黄瀬に小骨を突き刺した件のカメラマンである。
 発信ボタンを押そうか迷っていた時、手中のそれが突然震えた。画面にはさっきまで表示していた愛する人の名前が出ている。
「も、しもし?」
『やあ、リョウタ』
「辰也サン、どうしたんスか?」
『それはこっちの台詞何だけどな』
「え?」
『リョウタに、呼ばれた気がしたから』
 黄瀬の心臓が大きく跳ねた。スピーカーから聞こえる柔らかな声が直接心臓のポンプを押しているかのようだ。
「あ……え、そのっ」
『違ったかい? だったら切るけど』
「違っ、わ、ないっから!」
 切らないで。
 声になれなかった本心は胸の中で萎んで行く。もしかしたら忙しい中、掛けてくれたかも知れないのだ。我が儘は言えまい。
 けれどもそんな黄瀬の心の中を見透かしたように、氷室は言った。
『じゃあ切らない』
 その一言が、黄瀬の萎んだ気持ちに栄養を与える。大きく膨らんだそれは一気に開花まで漕ぎ着けた。
「今、大丈夫……スか?」
『勿論』
 言葉の後、氷室の声の背景がクリアになった。どうやら場所を移したようだ。微かに聞こえていたスナック菓子の袋が擦れる音から察するに、近くには紫原が居たのだろう。けれどもわざわざ黄瀬の為に席を外したのかと思うと申し訳無くなる。
『やっとリョウタの声がキレイに聞こえるよ』
 小さく笑いながら氷室が言う。
『ねぇ、リョウタ』
「なんスか?」
『何に怯えているんだ?』
 その一言が一気に気持ちをざわつかせる。凪いでいた心は途端に嵐が襲う。
 心臓が五月蝿い。胸が痛い。鼓動が激しく打ち付ける。苦しい。苦しい。
『Hey,Ryota.』
 けれど、電話の向こうから伝わる空気が色を変えた。
『Our actions are not as important as we suppose.(オレ達の行動は自分で思ってる程重要なものではないよ)』
「へ?」
『Because our successes and failures do not matter so much.(成功も失敗も大した問題じゃ無いからね)』
「あの、……え? 何?」
『Ryota,your present troubles will also fade because you have survived great troubles in the past.(リョウタ、君は大きな障害を過去に切り抜けて来たんだから、今抱えている問題だって同じ様に消えていくさ)』
「え? えっ?」
『リョウタなら大丈夫だよ』
「……うんっ」
 黄瀬は氷室の言葉を端々しか理解出来なかった。氷室もまたそれを重々承知である。けれどもそれで良いと思った。きっと伝えたかった事は伝わっているのだ。
『さて、そろそろ切ろうか』
「あー、そっスね」
 五分にも満たない会話だったけれど、黄瀬の中の小骨が喉から取れたような気がした。
『それじゃあ、リョウタ』
「うん」
『Have a nice day.』
「I'm going.」
 通話を終えた後、不思議と心は穏やかだった。先程の嵐が嘘のようだ。
 氷室の声が耳の奥で響く。
「大丈夫。大丈夫」
 通信が途切れた携帯端末を両手で握る。
「成功も、失敗も、大した問題じゃない。怖くない。大丈夫」
 また、つまらないと言われようが上等だ。黄瀬の瞳からは緊張の色が既に消えていた。
 もう、あの頃の自分ではないのだ。夢中になれる物を見つけた。敗北を知った。仲間を知った。大切な人に出会えた。それだけ、と思われるかも知れないが、黄瀬にとってはとても大きな出来事だ。つまらなかった世界を変えてくれた大事な過去である。
 首からスタッフのカードを下げた男性が番号を読み上げる声が聞こえる。その中に、黄瀬も含まれていた。
「絶対選ばれるっスよ。だから、合格したら辰也サンちゃんと見てよね!」
 控え室からぞろぞろ出て来る人集りの中に黄瀬は合流する為、窓から背中を離した。



キリ番おめでとうございます。
英文は高校で使っていたテキストを拝借してます。
リクエストありがとうございました。


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