いつもフラフラと何処かへ姿を消す。周りの人間にはヘラヘラと笑う。ヒラヒラと風に靡くシャツはいつも第二釦と第三釦しか留まっていない。時折ハラハラさせる言動ははっきり言って考え無しと言える。
 それが黄瀬涼太の日常である。
 ガラス窓の向こうには、今日も専属の家庭教師から逃げて来たのだろう、黄瀬が桜の木に登って敷地の外へと出て行く姿を望む事が出来た。外との気温差があるのだろう。緑間が溜息を吐けば息の掛かった部分が白く曇った。
「またか」
 顰めっ面は普段からそうだが、しかし矢張りこの時ばかりは眉間の皺の深さや表情の険しさが三割増になる。勿論それは緑間家に仕える執事やメイドによる目測の結果であるが。
 暗くなる頃、黄瀬は館への道を歩いていく。行きは高い塀を越えて行くが帰りは裏庭と繋がっている森の方向から帰って来る。それに緑間が気付いたのは、つい最近だ。
 黄瀬家とは血縁関係が一切無いが、御先祖同士が信頼度し合える戦友だったとかで同じ敷地内にそれぞれの館が建っている。その為、互いの家の窓からは外の景色が良く見えた。
「真太郎。明日は遅れるなよ」
「分かっております。お父様」
 厳しい声音に緑間が頷く。明日は政界で名を馳せている大物や世界各国のセレブが集う食事会がある。有名な一流ホテルを貸切で行うのだ。
 しかし次の言葉に緑間の片眉がぴくりと動いた。
「お前は黄瀬家の嫡男と共に午後六時に来い」
「……本気で申されていらっしゃるのですか?」
「勿論だが」
「お言葉ですが、黄瀬……いえ、涼太の日頃の態度をお父様もご存知無い訳ではありませんよね」
 神妙な面持ちの緑間に当主は「勿論だ」と首肯した。ならば何故。そう出掛かった言葉は当主の声に掻き消されてしまう。
「だから言っているんだ。この意味が解るな?」
「…………はい」
 つまり、一言で言えば面倒事を押し付けられたのだ。幾ら先祖代々良い関係を築いて来たとは言え、それが現在もそうであるとは言い難い。現に、緑間は黄瀬を良く思っていなかった。黄瀬もまた、緑間に苦手意識を持っている。
 しかしそうも言っていられない。
 此処で約束が交わされた以上、緑間は遂行する義務が生じた。勿論破れば緑間家の顔にも泥を塗ることになる。それだけは何としてでも避けたかった。
 そうして迎えた翌日――。
 例に漏れず黄瀬は塀を飛び越えた。空気を含んだシャツが大きくはためく。今日は彼の金色の髪を良く照らす快晴だ。黄瀬が着地の姿勢から立ち上がると一瞬動きが止まった。
「あ、え……と。おはよー?」
「お早う。黄瀬。お前、今日が何の日か知らない訳ではあるまいな」
 例え気に入らずとも挨拶はきちんと返す辺りなかなか緑間も律儀な男である。黄瀬はと言えば思わぬ人物の登場にきょとんとしていたが、彼の言葉で一気に不機嫌な顔になった。
「食事会っスよね。知ってるっス。けど、オレは行かない」
「お前の意思はオレの知ったことでは無いのだよ。だが、オレにはお前を連れて行く義務がある」
「ハァ? 何言ってんスか」
「昨日、父が黄瀬家現当主直々に頼まれたのだよ」
「っのクソ親父ッ」
「言葉を慎め」
 路上で睨み合う二人を見掛けた者は誰も居ない。それは偏に緑間家と黄瀬家のあるこの場所に近付く物好きなど居ないからだ。
「兎に角、オレは行かないっスよ。それに、今から行くとこあるんで」
「そうはさせん。大人しく自宅で待機するか、若しくはオレも同行する」
「ハァッ?」
 緑間の発言が上手く咀嚼出来ずにいるのか黄瀬の瞳が丸くなる。社交界でも有名なくらい彼の顔は整っているが、こんな間抜け面でもそう見えるのだからつくづく得する顔だと緑間は内心で毒づいた。
「いや、アンタ何言ってんスか……」
「オレが居ては不都合か」
「そうじゃないっスけど」
「ならば構わんだろう。オレはお前を時間通りに連れて行かなければならんからな」
 鋭い眼光を以て上から睨み付ければ、黄瀬も負けじと下から睨み返す。美人が怒ると怖い、とは良く言ったものだ。今此処に第三者が居たら恐怖におののいていただろう。
 しかし根負けしたのは黄瀬の方だった。
 溜息混じりに言い放った言葉は未だ何処か納得がいっていないようである。
「監視付とか一番最悪何スけど……」
「お前の日頃の行いのせいなのだよ。自業自得だ」
「……じゃあ、オレが何をしようと絶対に口出しし無いで欲しいっス。約束してくれたら、食事会に行ってやるっスよ」
「だからお前はダメなのだよ。食事会に行くのはお前の義務でもあるのだよ。履き違えるな。だが、良いだろう。但し、食事会では黄瀬家次期当主としての振る舞いを求める」
「…………オオセノママニ」
 大きく息を吐くとまるでそれが交渉成立の合図であるかのように、会話は打ち切られた。そして黄瀬は足早に歩くと館のある丘と下町の中腹にある古びた小屋の中へと入って行く。
 同行すると言った手前、緑間も入らない訳にもいかない。しかし小汚い場所に足を踏み入れるのは躊躇われた。
「別に其処で待っててくれていいっスよ。準備に一分も掛かんないんで」
 姿は見えないが黄瀬の声が漏れる。同時に衣擦れの音やベルトのバックルが鳴る音も混じっていた。それらの事から「準備」が「着替え」と結び付けられるが、緑間には黄瀬の行動理由がさっぱり解らない。
 来る時何も持っていなかったのだから「準備」する為の道具はこの小屋に元からあったと言うことになる。
「じゃあ行くっスよ」
「っ、何なのだよ! お前のその格好は!」
 今にも取れそうな建て付けの悪い音を奏でながら開いた扉の向こうから姿を現した黄瀬の格好に、緑間は瞠目する。彼らのように社交界で名を馳せる程の位を持つ家柄の人間がするような服装ではないからだ。
 染みや汚れが目立つシャツに膝部分が擦れて生地が薄くなっているパンツだ。しかも腰穿きしているのか足首辺りに裾が折り重なっている。靴も底の薄い平べったい物だ。加えて黄瀬は素足な上、踵を踏んでいる。
「さっきのとか緑間っちの格好じゃ目立っちゃうんスよ」
 歩きながら自らの髪の毛をぐしゃぐしゃに掻き乱す。その後手櫛で形を整えれば寝癖のような跳ねが良い感じに出来上がった。
 しかし幼い頃から共に居る緑間は知っている。黄瀬の髪は寝癖など付かない程に指通りが良い事を。柔らかな風が吹けば遊ぶように流れるのだ。それは今も昔も変わらない筈である。それなのに癖を付けると言うことは、無臭のワックスを付けたのだろう。
「緑間っちとか親父達からしてみればオレって世間知らずで我が儘で手に負えない不良息子、みたいなイメージっしょ?」
「そこに『出来の悪い』も加えておけ」
 互いに前方を向いていて顔を見ていないけれど、緑間には黄瀬が笑ったのが分かった。
「けどさ、オレからして見れば、親父達の方が世間知らずなんスよ。社交界って言う金持ちの世界しか知らない、興味が無い。オレはそれが嫌なんスよ」
「オレ達が居るべき世界はそこなのだから当然だろう。それはお前の我が儘なのだよ。オレ達の様になりたくてもなれない奴などごまんと居るのだから」
「それが分かってるなら、緑間っちはちょっと見込みあるかもっ」
「何を言って――!」
「この先は人が多いからはぐれないようにっ」
 長い坂を下れば見えてきたのは下町の中でも商店で賑わう通りだ。まだ日が昇って二時間程しか経っていないが既に通路も店前も人で賑わっていた。黄瀬は今から其処に入ろうとしているのだ。
 突然指を絡めて握られた手に心臓が跳ねる。黄瀬と手を握ったのは幼少期に二、三度あったくらいだ。緑間の左手の指は日々の仕事でペン胼胝が出来ている。けれども黄瀬の手は、昔と変わらず滑らかで肌触りの良いものだった。
 人の波に揉まれながら漸く辿り着いた一軒の店で黄瀬は立ち止まる。そして元気良く店主に声を掛けた。
「っちわーっス! おっちゃん来たっスよー」
「涼太! 待ってたぜ。ん? そちらさんは……? 見た所こんな所に来るような御方には見えねぇな」
「何を言っているのだよ。それならば黄」
「彼は緑間家次期当主の真太郎様っス。下町の調査に来たらしいんスけど、人混みに慣れていらっしゃらないみたいなんで此処で休ませても良いっスか?」
「そりゃあ構わねーけどよぉ。緑間家の方が下町に来るなんざ何十年振りだ? オレの曾祖父の代以来じゃねーの?」
「真太郎様は今までの当主とは違うんスよ。だからおっちゃんも目の敵にしないで欲しいっス」
 緑間に口を開かせる隙を与えない。最後に見せた黄瀬の悲しげな表情に、緑間は内心驚いていた。店主も何だか焦り始めている。
「そうだよな、幾ら親子とは言え違う人間だもんなっ! 涼太がんな顔するこたぁねぇよ、オレが悪かった」
「じゃあ、今日の報酬はちょっと上乗せして貰ってもいっスか?」
「っかァー、ちゃっかりしてんなぁ」
 下がった柳眉は一変して、人好きする愛らしい笑顔になった。表情筋が柔らかいのだろうか。そう思ってしまう程、黄瀬の表情のレパートリーは多かった。
「では、真太郎様は此方にお座りください。――約束は守って貰うっスよ」
 半ば強引に背中を押されて店の奥にあるスツールに座らされる。その際、耳元で囁かれたのは交換条件に出された「約束事」だ。無言で小さく首肯すると、真面目な表情から直ぐに笑顔へと変わる。
「そこ、なかなか良い景色が見られる特等席なんスよ!」
 弾んだ声で言えば黄瀬は店先で客の相手をする店主の隣に立った。そして新たな客の相手をし始めたのだ。笑っている顔はこれまで敷地内で見せてきた顔とは全く違うように思える。
 甘い桃の香りが風に乗ってやってきた。

 お昼を過ぎた辺りで客足も漸く落ち着いて来たようだ。それを皮切りに黄瀬は店を上がる。
「報酬がそれか?」
 怪訝な顔で黄瀬の腕に抱えられている茶色の紙袋を見る。その中には店で感じていた匂いの正体――新鮮な果物が入っていた。
「そうっスよ。しかも今日は緑間っちのお陰でメロン入りっス!」
「高がメロン如きで何をそんなに喜ぶのかオレには理解出来ん」
「緑間っちには、理解して欲しいんスけどね……」
「何か言ったか?」
「何もないっスよ! ちょっと他の店も寄ろっ」
 結局あれから精肉店や八百屋、花屋にパン屋と回って最後にスイーツを買った。それも黄瀬は荷物を持っているからと言う理由で緑間に買わせた物が殆どだ。
「こんなに買って何を……」
 緑間は黄瀬の行動に疑問を募らせていた。いつも窓から見えていた黄瀬は手ぶらなのだ。それなのに今は大荷物を抱えている。「いつもなのか」と問えば、あっけらかんと「そっスよ」と答えた。だから一層不審に思うのだ。
 自宅で食べるのならばわざわざ下町に黄瀬自ら出向かなくとも良い。
「着いたっス」
「此処は……」
 黄瀬が足を止めたのは、先程居た場所から更に奥へ歩いた所にある教会だった。周りは海に囲まれ景色も絶景だろう。
 しかし、聳え立つ建物は随分昔に建てられたのか、お世辞にも美しいとは言い難い。
「シスター・エリザベート?」
 教会の扉を素通りして、奥まった所にある宿舎のような建物へと向かう。そしてその入口の扉をノックすると古さを物語る音を立てながら開いた。その音には緑間も聞き覚えがある。黄瀬が見窄らしい格好で出て来たあの小屋と似た音であった。
「まぁ涼太、今日も来てくれたのね」
 初老のシスターは優しい声音で黄瀬を出迎えた。
「直ぐみんなを連れて来るから、談話室へ行っててちょうだい」
「はいっス」
 緑間の存在に気付いたシスターは目尻の皺を深くしながら微笑んだ。緑間も会釈をする。
 黄瀬の後ろをついて行けば、こぢんまりとした部屋に着いた。彼らの家と違って豪華な調度品は無いが、落ち着いた気品は感じられる。
 ローテーブルに荷物を乗せた所で背後の扉が開いた。
「涼太だぁ!」
「りょーたっ!」
「涼太さんがいらしているとシスターにお聞きして飛んで来てしまいましたわ」
「まぁっ! 涼太さんの前だからってしおらしくしちゃって。いつものお転婆はどこに行ったのかしら?」
「ひ、ひどいわっ!」
 急に賑わいを見せる室内はあっと言う間に人で溢れてしまった。人数的には商店街の比ではないが、子どもが居るためか賑やかさは同等以上だ。
 だが黄瀬は動じることなく一人一人の名を呼んで挨拶を交わしている。ヒロ、ユウ、タケト。それから修道女にも。
「あら、そちらの御仁は?」
「彼は緑間家次期当主の真太郎様です」
 朝、店主にした時と同じ紹介を彼女らにもする。反応は矢張り驚愕が一番しっくりくるだろう。口元を手で覆い、双眸を大きく見開く。
 息を呑む音が聞こえても、その先声を発する者は居なかった。責任者である初老のシスターでさえも。
「それと、オレからはいつもの果物っスけど、それ以外は全部真太郎様からです」
「お前は何を言って」
「嘘だと思うなら商店街の人に訊くといいっスよ! 後、真太郎様のお陰で今日はメロンもあるんスよー」
「……っ」
 黄瀬の一言で周りが騒然とする。子ども達は大喜びでテーブルの周りに集まり、志願生やシスターは感無量と言った所だろうか。瞳に涙を浮かべながら深くお辞儀をしていた。
 再び緑間の声は遮られたが、一瞬、緑間に目を向けた黄瀬のそれがあまりにも真剣そのものであったが為に、彼はそれ以上何も言わなかった。脳裏に焼き付く、何かを懇願するような瞳であった。
 それから暫く黄瀬は子ども達と外の広場で遊んだ。緑間はその様子を室内の薄汚れた窓から眺めるだけだった。
「シスター・エリザベート。これを」
「……まぁ! こんなっ」
「お気になさる事はない。只の寄付金です」
 去り際、緑間は自らの懐から紙幣の束を差し出した。
「こんなに陽当たりも見晴らしも良い場所であるのに、建物がこれでは景観が損なわれる」
 突き放すような言い草だが、黄瀬の口元には上弦の月が顔を覗かせている。
「彼、素直じゃ無いだけなんで」
 大金を大事そうに抱えるシスターにこっそり耳打ちするも、目敏く緑間に見付かってしまった。無言で睨まれれば益々黄瀬は笑う。
 元気良く見送る子ども達に手を振りながら黄瀬は先を歩く緑間の背を追った。
 西に傾く太陽が二人の影を長く伸ばしている。

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