紫黄


――ガシャンッ!

 部屋に響く不穏な音は先程ので最後だった。照明器具に照らされた髪が俯いた顔にサラリと落ちる。出来た影は今の彼の気持ちを代弁するかのようだ。
「……っ」
 床に散乱する文房具や割れた食器に硝子の破片等気にも留めずにその場に膝から崩れた。パタ、と落ちた透明の液体は嘗てティーカップであった陶器の欠片に落ちる。もう一つそこに落ちれば重なった雫がツー、と緩やかなカーブに沿って流れた。
 此処は大学病院で勤務する若き医者――黄瀬涼太の自室である。忙しい身とは言え常日頃から清潔感を保ち整理整頓されていた。その部屋が今ではたったの五分程度で見事に空き巣に入られたような見るも無惨な有り様である。それは同時に、彼の心の荒れ具合を具現化したようにも感じた。

 数時間前、夜勤だった黄瀬は一人の担当患者を看取ったばかりであった。
 その患者の名は、紫原敦。黄瀬もそれなりの高身長であるが彼はそれ以上だった。お菓子が何よりも好きで若い割に動作も緩慢――見方を変えれば怠慢とも言える――な紫原は中庭に出れば子ども達の人気者だ。「メンドイ」と言いながらも何だかんだで面倒を見るのだから看護士や保護者からも人気が出るのも当然である。
 そんな彼は、黄瀬がもう何百と診てきた患者の中で唯一特別な存在になった人だ。それはまだ一年にも満たなかったとは言え、その短い時間の中で気持ちを育む濃度さは一入濃密である。
 発見が遅かった病気は既に進行していた。所謂末期の状態だ。若さ故に病魔の手が伸びるのも速く、薬で進行を遅らせる事しか出来ない。悪性の腫瘍を取り除けども深く根を下ろす病魔は着実に紫原の体を蝕んだ。

「調子はどうっスか?」
「あららー? アンタがオレの担当なの?」
「アンタって……。まあ、そうっスね。黄瀬っス。宜しく」
「ふーん。黄瀬ちんて医者なの? 見えないね」
「ちょ! 失礼っスね!! これでもそれなりの数を診てきたっスよ」
「ふーん。ねぇ、点滴邪魔なんだけど。外していい?」
「ダメに決まってるじゃないスか。紫原っちは日本人の平均以上なんスから我慢っス」
「ってか何その呼び方」
「それをアンタが言うんスか」
 救急患者として運ばれて来た紫原は意識が無かった。だから目を覚ました時、自分がどこに居るのかも分からなかったらしい。そんな時、点滴の様子を見に来た看護士が気付き、後に黄瀬が現れた。
 きっともう既にこの時、二人は惹かれ合っていたのかもしれない。

「黄瀬ちん……」
「なんスか?」
「医者と患者って、何かAVとかエロマンガのベタな設定だよね」
「ぶはっ!! ちょ、何言い出すんスか!」
「黄瀬ちん顔真っ赤〜」
「う、ううううるさいっ!」
「っつーかわざわざ水買うなし」
「良いじゃないスかぁ。美味しいんスよコレ」
「ただの水じゃん。って言うか黄瀬ちん休憩時間終わるんじゃない?」
「あ!」
 恋仲になってからは黄瀬が休憩時間になると必ず病室を訪れては中庭へと誘っていた。二人で備え付けのベンチに座り、黄瀬は昼食を、紫原はお菓子を食べる。勿論医者として量には目を光らせていたが。

「もう後は死ぬの待つだけなんだからさ、そんなに頑張んなくてもいいよ?」
「ふざけんな!! アンタが諦めてどうするんスか! オレは絶対助ける! どんなに時間が掛かったって諦めないっスよ!」
「でも完治しねーし」
「何で、んなこと言うんスか……」
「黄瀬ちん?」
「オレはっ、紫原っちと一緒に居たいんスよ! 紫原っちともっと一緒に生きたいんス!!」
 黄瀬が抱える患者は紫原一人ではない。それが分かっているから少しでも負担を減らしてあげたかった。自分一人が居なくなったとしても、きっとまた新たな別の患者が出て来るのだろう。それでも、一時的でもいいから彼の重荷を下ろしてあげたかったのだ。
 けれども黄瀬は共に生きることを切に望んだ。それは物臭な紫原に自分も頑張るしかないと思わせるには充分であった。
 更に「紫原っちを助けられなかったらオレも直ぐに後を追うっス」と本気の瞳で語られてしまっては死を選ぶ事など即行選択肢から抹消するしかない。
 其処で漸く紫原は黄瀬の気持ちに触れたのだ。好きな人に生きていて欲しいと。
 けれども終焉は一歩ずつ近付いていた。
 体を重ねることも、ましてや唇を重ねることすらしなかったのはある種の願掛けでもある。元気になったら、無事退院したら。そんな淡い期待を抱いて理由が不純であるにしろ生きる意義を見出すことが何よりも大事だった。
 それでも、それは呆気なく終わりを告げる。
「ごめん……なさい、ごめ、……なさ……っ」
 パタ、パタ。涙は次から次へと陶器の上に落ちる。
 割れる物は全て割ったと言わんばかりに散らばる破片はパートナーを失い本の形が分からない。けれども唯一形を保ったまま棚に鎮座していたのは硝子のフレームである写真立てだった。たった一枚だけのツーショット。
「む、ぁさ、き……ばら、ち」
 どんなに想ったってどんなに泣いたってどんなに名前を呼んだって、還っては来ない。
 黄瀬は例え恋仲にあろうとも通夜にも葬儀にも参列する事は出来ない身だ。助けられ無かった者はそれすら許されない、と自らの戒めと考えてしまうのも無理はない。けれども実際は医者と言う立場上、患者一人一人に対しその様に構っていられる時間は無いのだ。
 写真の中の紫原は笑っている。黄瀬の記憶にも鮮明に残っているそれは彼が永遠の眠りにつく直前に見せた笑顔に酷似していた。



【病院患者紫×担当医黄 死ネタ】
年齢どうしようかと考えて、結局有耶無耶にしました。取り敢えず書く上で使用した裏設定では紫原が21歳くらいの大学生で黄瀬は卒業して3年経った27歳くらいの若先生とイメージしながら書きましたが別に三十路過ぎてようとタメだろうと支障はない、はず。
医学に関しての知識は皆無ですので病名だとか病状だとか専門的な事には突っ込まないでください。架空のお話は架空の病気があると言う考え方でお願いします。
紫原は点滴も採血もスムーズに行えそうな血管の持ち主だと思います。

>後悔してたりするのは黄瀬では無く私の方かも知れません。こんにちは。
この度は企画へご参加くださいましてありがとうございます。
当サイト内の作品を楽しみにして頂けているようで大変恐縮です。
お心遣いありがとうございます。あげもの様もご自愛ください。
リクエストありがとうございました。


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