はぐみ様


 四分の二のシンコペーションで緩やかに始まる曲は大変有名な部分でクラシックに通じていない黄瀬でも知っている。この有名な旋律を耳にしながら、黄瀬は斜め前で滑らかな指の動きを見せる緑間を見つめた。
 グランドピアノのハンマーが弦を叩く。黄瀬の眼下ではその様子がはっきりと見えた。
 中学の頃、一度だけピアノを弾いてもらった事がある。校内合唱コンクール練習中の時だ。クラスは違ったがその時初めて緑間がピアノを弾けると知った。指も長くてキレイだからピアノを弾いたら様になるんだろうなと考えていた黄瀬であったからそれを聞いた時は瞳が輝いたと言う。
 無理を言って放課後の音楽室で弾いて貰った。その時はショパンの『子犬のワルツ』だったのを今でも覚えている。
「お前にピッタリだろう?」
 その時は明るくてテンポも良いリズミカルな曲だと思った。後に音楽の先生に授業後それとなく訊いてみたら、
「小犬が自分の尻尾を追い掛け回している情景にヒントを得たものなのよ」
 と教えてくれた。
――どう言う事っスか!
 関係を知らない先生に文句など到底言えるはずもなく、お礼だけ言って緑間のクラスに直行したものだ。
 中盤の高く短い音は小犬がつけた鈴の音と言われているらしいが生憎鈴など付けていない。
 複合三部形式であるとか晩年の作品であるとか伯爵夫人に捧げられたとかそんな情報は別段どうでも良かった。それでも覚えているのは他でもない、緑間が弾いた曲だからだ。
 そしてあれから二年経った今、久々に彼の奏でる旋律を耳朶に触れている。
 彼が演奏しているのはまた別の曲である。ホ長調の曲は中間部がト長調の簡明な展開になるが直ぐにホ長調主題が再現する。終結はコーダで多少高揚がある。とても優美な曲想だ。
「オレこれ好きっス!」
「そうか。黄瀬とは正反対の曲想だがな」
「子犬のワルツがお似合いっスか?」
 少し意地悪く言ってやれば眼鏡の奥にある瞳が一瞬開かれた。しかさ直ぐに柔らかく細められる。
「覚えていたのか」
「当然っスよ」
 忘れる訳もない。お前にピッタリだと言われた曲は初めて彼が自分の為に弾いてくれたものなのだから。
「この曲は黄瀬に捧げるにはピッタリだろう?」
「って言われても、聴いたことはあるんスけどどんな曲かなんて知らないっスよ」
「だろうな」
「ム、バカにしてる!」
 フ、と勝ち誇った笑みを浮かべた緑間は、ピアノにカバーを掛ける。そして「お茶にしよう」と言って部屋を出た。
 黄瀬もそれについて行く。
 そこでフト気になりポケットに突っ込んでいたスマホを取り出すなり検索を掛ける。最近のアプリは色々と便利だ。縁のない物と思い込んでいたものがまさか役に立つとは思わなかった。
 曲名も作曲者も分からない。けれども旋律はつい先ほど聴いたばかりなので鮮明に覚えている。スマホを近付け、曲の一部を小さく口ずさんだ。すると直ぐに検索結果を導いてくれる。何とも便利なアプリだ。
「エドワード・エルガー、愛の挨拶?」
 そこからまたサーフィンしていく。記事を読むなり黄瀬の足はリビングに繋がる扉の前で思わず止まってしまった。
 扉に填められた硝子はモザイクのようなデザインになっていて中の様子をクリアに覗く事は出来ない。しかし陶器の音が聞こえてくる辺り緑間がそこに居ることは明らかだった。
 両親はクラシックコンサートに出掛けており不在だと言う。だからこの家には緑間と黄瀬しか居ない。
「黄瀬? いつまで其処に居るつもりだ」
 言葉と共に扉が開くと、緑間は瞠目した。
 目の前に立つ黄瀬の顔は赤く染まっているのだ。
「黄瀬?」
「“Love's Greeting”」
「調べたのか」
 手中のスマホに目を向ける。
「当初のタイトルはドイツ語で“Liebesgruss”しかし出版の際、フランス語に変更を求められ“Salut d'amour”となった」
「緑間っちって、作曲の経緯とかも覚えてんスか」
「当然だろう。それらの背景を理解してこそ演奏出来るのだよ。相手を知らずして何が出来る」
「あんた、この曲のことも知ってて、言ったんスか」
 黄瀬の脳裏に未だに焼き付いている緑間の言葉がリフレインする。
――“この曲は黄瀬に捧げるにはピッタリだろう?”
 この曲はエルガーが愛する妻に対しての愛と感謝の気持ちを込め、贈られた物である。キャロライン・アリス・ロバーツはエルガーの生徒であった。八歳年長であり宗教や身分の差からキャロラインの親族は二人の仲を認め無かったのだ。しかし二人は反対を押し切り結婚した。
 どことなく、自分達と似通っているような気がする。同性同士で認められ無い事の方が大きい自分達と。
「愛する人への贈り物。それがこの曲だ」
 普段はツンの比率が多いツンデレのくせに。そんな悪態も今は浮かんでは胸の中で溶けて消える。
 いつだって、彼の指先は正直だと知っているからだ。指先が奏でる旋律も触れた指先から伝わる熱も、全て想いが乗せてある。
「緑間っちって、時々気障っスよね」
「そんな事は断じて無いのだよ」
「オレを喜ばせるの得意っスよね」
「それは否定しない」
 そっと抱き締められて背中に添えられた右手、梳くように優しく撫でる左手。その指先から伝わるのは、いつだって甘美な愛だった。
 黄瀬だけに伝わる、緑間の愛情表現だ。 




【ピアノ弾く緑間】
緑間ならば幻想即興曲かと思ったのですが、今回は技術より中身で決めました。
真っ先に浮かんだのは矢張り『子犬のワルツ』です。曲も何だか黄瀬っぽいですよね。わんおんわん!な感じがします。
『愛の挨拶』も有名なので大丈夫かなと思ったのですが存じ上げない方がいらっしゃいましたら検索してみてください。冒頭で「ああ!」と思われるかと思います。
『愛の挨拶』は1888年に婚約記念としてプレゼントされたとか。ですが、1900年長女が産まれた頃に制作されたと言うお話もあるのでどちらなのでしょう?
アップライトではなくグランドにしたのも、アップライトの方が弾きにくいからです。人事を尽くした結果そうなったのではないでしょうか。鍵盤の長さなど色々と違うのですがグランドの方が緑間らしいとも思ったのでこちらにしました。
緑間のお陰で黄瀬のiPodはクラシックばかりになっているといいです。緑間色に染まってしまえ!
リクエストありがとうございました。




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