緑黄


 お腹が痛い。その瞬間、只の腹痛でないことは解っていた。これは市販薬で治るものではないと言うことを。
 けれども黄瀬は隣で眠る緑間を一瞥しただけでベッドの中で蹲った。緑間に言われた事を脳内で反芻させながら呼吸をする。

(ゆっくり……ゆっくり……)

 例え辛くとも呼吸だけはゆっくりするように心掛けた。速くなればなる程苦しくなるからだ。
 以前も同じ症状に見舞われた。その時はすっかり過呼吸――過換気症候群になってしまったが緑間の対処法は黄瀬が知る紙袋再呼吸法ではなかった。只傍に居て、「ゆっくり呼吸をしろ」と何度も繰り返して言われただけだ。しかしそれで手足の痺れも緩和してきたのだから矢張り彼はいつだって頼りになると再認識させられた。

「……やっぱ、ヤバい……かも」

 横になる体勢を変えた所で痛みが緩和されることは無かった。寧ろ時間が経てば経つ程激痛へと変わる。もう無理だ。そう思った時にはトイレへと籠もっていた。
 まだ太陽が望めない暁だが後一時間は籠もっていれば良い。空っぽの胃の中を吐き出しながらどこか冷静に考えていた。緑間が一度も欠かさずに見ているおは朝を視聴するためだ。
 中指と人差し指を喉の奥まで入れる。それでも出て来る物は通常よりも多量に分泌される唾液と、胃液と思われる黄色っぽい液体だけだった。

「……何故起こさない」
「かはっ、う、ェッ……ハァ、はぁ……」

 緑間っち? そう紡ぎたかった言葉は嘔吐によって遮られてしまった。
 吐き気は波がある。周期は短いがそれでも数一〇秒から数分は腹痛だけだ。それを見越しての言葉なのだろう。「うがいをしたら来い」
 有無を言わさぬ物言いで緑間はその場を去った。
『来い』とはつまり黄瀬らが住んでいる家に併設された緑間が個人経営しているクリニックの事だ。一階を病院、二階を生活のスペースとして使っている。
 男二人が一軒家に住むなどおかしな話かも知れない。しかもルームシェア等ではなく、二人で出し合って購入した家なのだ。
 緑間は医者であるし黄瀬はモデルも俳優もこなすマルチタレントとして有名と言うのも相俟って近所でも何かと話題に上っていた。しかし人の噂も何とやらだ。黄瀬の人柄もあってか直ぐに打ち解けられるようになった。人付き合いの苦手な緑間も、診察室のデスクに毎度置かれるラッキーアイテムが何かと話題を呼び、協力してくれるなど良好な関係を築いている。
 そんな診察室のベッドの上に緑間の手を借りながら仰向けになると直ぐに問診と触診が始まる。その間に体温計を挟まれたが平熱よりも低かった。

「いつからだ」
「寝る……前、から」

 正直答える程の余裕は無いのだが問診も大事な事なので息も絶え絶えに必死に言葉を繋ぐ。
 しかしそれは緑間とて気付いていた。眉を顰めているのだから当然と言えば当然である。

「ん、ソコ……っ、ハァ、ァ、ッんン」

 扇情的な何かがあるがその様な無粋な考えは、今は奥に閉まって於くべきだ。
 胃の辺りから腸の辺りまでを隈無く触れる。最後に聴診器で腹部の音を聴いて緑間は席を立つ。
 言い付け通り黄瀬がうがいを済ませて診察室に現れるまでの間に準備していた点滴の針を右腕に刺した。痛み止めと吐き気止めが滴となり落ちて行く。
 毛布と布団を掛ける。これも事前に準備しておいたものである。毎回黄瀬は寒さを訴えるのだ。
 点滴で曲げられない右手を優しく握る。凡そ二時間程で終わるように落としている。

「今回は、オレの所為……だな」
「そ、な、こと……」
「恐らくストレスから来るものなのだよ。お前はここの所暫くは殺人的スケジュールも苦手な共演者との絡みも無かっただろう」
「……知ってたんスか」
「オレを誰だと思っている」

 自身がいつも座る椅子ではなく、患者用のスツールに腰を下ろしている緑間にふと疑問を抱く。だがしかし然程気にする事でもないように思えて黄瀬は瞼を閉じた。よくよく考えて見れば前回もその前も彼はその椅子に座っていたのだ。
 点滴が効いているのだろうがどうにも黄瀬には緑間の声が、繋がれた手が安定剤のように思えてならない。

「何に……不安を覚える?」

 心なしか緑間の声が震えていた。彼は恐れているのだ。黄瀬が、いつかこの手を振り解いてしまうのではないかと。しかしそれは黄瀬もまた同じであった。

「オレはいつだって、不安っスよ」

 忙しいのは理解している。だからこそ自分の一言が負担になっていないか、我が儘ではないか不安なのだ。と、黄瀬は静かに言った。

「受付のお姉さんや看護師さんを全員緑間っちより年下にしてもらったのも、連休を働かせて何でも無い平日にその分の休みを設けて貰ってるのも、疲れてるのに体を重ねてくれるのも、今日みたいに突然体調を悪くして看病させてるのも、全部オレの勝手な都合に振り回してるから……」

 言葉尻が窄む。同時に柳眉が情けなく下がった。
 そんな黄瀬を座ったまま見詰めながらその目を細める。

「だからお前はダメなのだよ」

 体温を失ったかのような彼の手に触れたまま緑間は腰を上げる。そのままベッドを軋ませながらも黄瀬が横たわるそれに腰を下ろした。
 空いている手で自重を支え、ぐっと顔を近付ける。一昔前、MK5エムケーファイブ、と言う言葉が流行ったが二人の距離は将に、〈マジでキスする五秒前〉であった。

「オレがそれくらいでお前を手放すとでも思ったか? お前のそれを我が儘だと、身勝手な都合だとなじるとでも?」
「だって……」
「お前と共に暮らし初めて六年になるが、そんなにオレはまだ信用出来ないのか?」

 言葉が詰まった。緑間の瞳があまりにも泣きそうだと感じられたからだ。
 胸が絞られる思いだった。彼にこんな顔をさせたかった訳ではないと言うのに、どうしてこうも上手くは行かないのだろうか。人生以上に恋愛は難しい。
 黄瀬はゆっくり首を左右に振ることしか出来なかった。

「黄瀬と共に居られるのならば、オレは人事を尽くすだけなのだよ」
「緑間っち……」

 蕩けそうな心地で、降ってくるであろう温もりを待ったが、しかし緑間のその言葉にハッとする。後少し、と言う所で黄瀬は自由に動く左手を二人の唇の間に差し入れた。
 直後、人差し指から薬指までの三本に柔らかい温もりが触れる。

「……」
「み、緑間っち!」

 緑間の無言で恨めしそうに睨む、射るような視線に一瞬たじろぐが、黄瀬も男だ。負けじと下から彼を見上げた。

「リビングに行かなくて良いんスか? おは朝、もう始まってるじゃないスかっ」
「だから何なのだよ」
「いや、だから、占い……」
「黄瀬を一人置いて占いに興じろと? 占いと黄瀬を天秤に掛ければどちらに傾くのか一目瞭然なのだよ」

 不機嫌さを露わにした表情は声音にも影響を及ぼしているらしい。これ以上何かを言えば確実に眉間の皺が増えるだろうが、黄瀬の口は「でも」と紡ぎ出していた。

「オレは人事を尽くしているだけなのだよ。いい加減もう黙っていろ」
「みどっ、ン……」

 二人を隔てていた手を強引に剥ぎ取られると、直ぐに唇を塞がれた。繋がれた右手とベッドに縫い付けられた左手のこの温度差は何だろうかと思ったが、優しく指を絡められた事で差は無くなってしまったようだ。
 欠かさず視聴する緑間の習慣に穴を空けてしまった。どうやらこれは一生を以て彼に償う他無いのだろう。何よりそれを望まれていると知ってしまったのだから、責任は取ろうと思った。



35歳くらい。
20代最後の年に緑間から「一緒に暮らそう」と言われてたり。実は緑間なりのプロポーズ的な言葉だったり。でも黄瀬に伝わって無かったり。
だからもう一度改めて契りを交わせば良いと思いました。



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