高黄
人生でこんなにも全力疾走をしているのは初めてかもしれない。仕事に遅れた時だってそれは殆どマネージャーの車の中だ。体育の時間の持久走だって取り敢えず先頭集団に混ざっていればA評価は貰えたし。体育祭の時は赤司の笑顔が怖くて全力疾走だったが、此処まで長距離ではなかった。
まるで桐皇戦の時みたいだ。
息が切れ喉が乾いて苦しくて肺が冷たくてきっと今止まったら膝から崩れてしまうかも知れない。それくらい黄瀬は必死だった。
春に誠凛へ行った時は色々と余裕もあったが今日に限って海常の部室に置いてきてしまったのだろうか。「秀徳高等学校」と書かれたプレートには一瞥くれただけでそのまま体育館へと直行した。事前に緑間から場所を聞いていたし、前日にホームページを開いて敷地内地図も見たので迷う事はまず無い。それに海常に通う黄瀬からしてみれば、迷う内にも入らない。
そうして目的の場所の扉から光が漏れているのを確認するや否や迷わず飛び込んだ。
――ガンッ。
何かが当たる鈍い音がすると体育館内で自主練をしていた面々が怪訝な顔で出入口を見る。照明を見事に反射してキラキラさせた頭が勢い良く上がると、全員思わず息を飲んだ。
「海常の……黄瀬?」
部員の心を代弁するかのように真っ先に反応したのは大坪だった。声のした方に視線を定め、黄瀬は息を整えながら言葉を紡ぐ。出来るだけ息切れで途切れ無いように。
「あ、のっ……和、ぁ、高尾、和成君……は……?」
「高尾なら新しいシャツに着替えるって言って、ついさっき出て行ったが」
「う……そ、オレ、入れ違い……っスか?」
電池が切れたかのようにそのままズルズルとしゃがみ込む。終いにはペタンと座り込んでしまった。両腕を体の前に出して支えているが頭は垂れている。
大分息も整いつつあるがそれでも未だ肩は大きく上下に動いていた。
「キャプテン」
「……緑間」
「み、どり……ま、ち?」
黙々とシュート練習をし続けていた緑間がいつの間にか大坪の横に立っていた。声に反応したのか黄瀬の頭が上がる。それでもまだ下がっている方だが、前髪の隙間から緑間を確認出来るくらいには上がっていた。
「今日の我が儘はまだ残ってましたよね?」
「ああ」
「では、黄瀬を部室に連れて行きます」
「へぁっ?」
ザワッと館内は騒然としたがそれよりも誰よりも驚いていたのは黄瀬本人だ。思わず漏れた変な声はどうやら掻き消された。
しかし偶然近くに居た宮地と木村は聞いてしまったのか必死に噛み締めて笑いを堪えている。
「行くぞ」
「え、あ、待って緑間っち! お、お邪魔しましたっ!」
背を向けさっさと立ち去る緑間に置いて行かれぬようついて行く。勿論、体育館から離れる際はしっかりと中の人達に挨拶をしてペコリとお辞儀をするのは忘れない。
随分と前、笠松に「礼儀のなってねークソ生意気なクソガキ」と、蹴り付で教育された賜物である。
「緑間っち……っ」
「全力疾走する程なのだろう?」
「え?」
「まあいい。これがオレからの祝いにでもしてやるのだよ」
先導する緑間の背中を見つめながら頭上に疑問符ばかりを飛ばす。緑間もそんな黄瀬に気付いているだろうが、別段答えるつもりもないらしい。
そうして二人の足はとある扉の前で止まった。
「高尾、居るか」
「おー真ちゃん。何? 誰か呼んでた?」
ノックと共に声を掛ける。閉じられたままの扉から目当ての声がする。それを聞いた緑間は、漸く後ろを振り向いた。
「じゃあな。オレは練習に戻るのだよ」
「え、あ……」
扉から離れると再び背中を向けてもと来た道を歩いていく。その大きな背中に向かって黄瀬は「緑間っち」と名を呼んだ。彼は立ち止まり上体だけを捻って黄瀬の方を向く。
「ありがとうっス」
「フン。今日だけなのだよ」
それだけ言い残すと再び歩き出した。
それから程なくして、依然と閉じたままの扉の向こうからは怪訝な声音が漏れる。
「真ちゃん? どしたの? つか、入って来ねーの?」
それもそうだ。中にいることを確認しただけで一向に用件を言おうともしなければ入って来ようともしないのだから。
一度大きく深呼吸をして、ドアノブを掴むと「失礼します」と中には聞こえない程度の声量を以て言うなり黄瀬はノブを回した。
ガチャ、と扉が開く。
「何々どーしたの真ちゃ……っ、は……え? 黄瀬、涼太……だよな?」
「…………どもっス」
「あれ? 涼ちゃん? 何で? え? 声もコピー出来たの?」
「あ、や、違っ……緑間っちに案内してもらったんスよ」
後ろ手にパタンと扉を閉めたままの状態で言葉を返す。思わぬ人物の登場に高尾の目はくりっと丸くなっていた。
幾ら視野が広いとは言え、閉じられた扉の向こう側までは分からない。
「てか、涼ちゃん部活は……?」
「ずっと前から監督とセンパイに頼み込んでたんスよ。今日だけは早退させてくださいって」
高尾が驚くのも無理はない。WCまで一ヶ月と迫っている中でそう簡単にエースが切り上げられるものだろうか。先ず有り得ないだろう。理由が理由なのだ。
「大丈夫っスよ。練習三倍を一週間で手を打ってくれたんで!」
案の定、だ。
秀徳の練習もそれなりにキツいが、全国クラスの海常とてそれは同じだろう。申し訳無い気持ちになりながらも事実、心の奥底では嬉しい気持ちが隠せずにいた。
「和君、生まれてきてくれて、ありがとうっ!」
「涼ちゃん……」
「ハッピーバースデー! 和成っ」
瞬間、黄瀬の唇は塞がれていた。いつの間にか顔の両脇を腕で挟まれ身動きが取れない。本当に一瞬の出来事で目を閉じるタイミングを逃したその瞳は吊り目がちな鋭い眼光を湛えた瞳とぶつかった。
徐々に深くなっていく。重なった唇も、目の前の瞳の色も。そして黄瀬が高尾に嵌る深さも。
一三センチ下にある筈がこうして眼前にあるのは何も不思議な事ではなかった。秀徳の部室は、扉から三〇センチ程離れた所に段差があるのだ。言わばその三〇センチのスペースが小さな玄関の役目をしている。脇には靴箱が取り付けてあるので靴が溢れて扉が閉まらないと言う事態にはならないらしい。
「すっげえ。最高の誕生日だわ」
唇が離れてもまだ至近距離のまま、高尾は笑った。照れ臭そうな、けれども嬉しさを隠しきれない笑顔だ。
(緑間にも礼言っとかなきゃなー)
再び唇を貪る。今度はタイミングを逃さなかったようだ。
高尾はそっと腕を伸ばし、静かに扉の鍵をゆっくりと回す。お陰でカチリと鍵が掛かる音は最小限に抑えられたようだ。そもそもキスに夢中の黄瀬には聞こえていなかっただろうが。
この日この時間は、誰にも邪魔はさせない。そう、強く胸の内で主張しながら甘い贈り物を貪ることに集中した。