降黄


 何がどうしてそうなったのか。オレは良く分からない。分かっていない。けど、やけに良い匂いのするリビングだとかスッキリと整理整頓された部屋だとか視界の端っこにチラつくキラキラした彼がそれを現実のものだと語り掛けてくる。
 オレ、降旗光樹は今、若い女子に人気のモデルこと黄瀬涼太の家にお呼ばれしていた。
 神奈川に行ったのは入部して間もない頃、黄瀬が所属する海常バスケ部と練習試合をした時。黄瀬が誠凛に来た時も黒子にしか興味を示さなくて(一応火神は意識されてたみたいだ)、オレは眼中にも無いって感じで。コンタクトだってそんなに無かったのにいつの間にかメル友になっていた。火神も(アドレスは黒子伝で向こうに渡ったらしい)気付けばメル友と呼べるくらいにはメールの遣り取りをしているらしい。
 それがどうだろう。オレは今、人生で一番緊張している。
 通された部屋は1LDKのマンションで、セキュリティーもしっかりしていた。交通の便も良くしかも角部屋ときた。お値段もなかなかの物かも知れない。
 玄関が開いた時から鼻腔を擽るこの匂いは何だろう。そう思っていたが答えは直ぐに見付かった。

「お待たせっスー」

 ふわっと匂いか強くなったかと思えば、その匂いを纏う黄瀬が直ぐ隣に来ていたのだ。そしてそれに負けじと香りを主張するのはテーブルに並べられた手料理の数々だった。

「すっげ……」
「へへーっ、オレ超頑張ったんスよー?」

 ドヤッ! と擬音が付きそうなドヤ顔で言われても何故か腹は立たない。それよりも腹が空いていたからだろうか。

「召し上がれ」
「い、いただきます!」

 招待メールが来た時、『お昼ご飯は食べずに18時に来て欲しいっス! あ、でもでもおやつも食べちゃダメっスよ!』と賑やかにデコレーションされたメールが届いたのは昨日の夜だ。その前から今日は黄瀬の家に行くと言う約束をしていたので最終確認みたいなものだろう。
 オレは今、漸くそのメールの意味が分かった。

「……っ、美味しい!」

 それを聞いた黄瀬の表情は本当に心の底から安心したようなもので、ああ、黄瀬も緊張してたんだなと思うと何だか無性に愛おしく感じた。それから段々ふにゃぁ〜、と嬉しそうに笑うとぽわぽわ周りに小花が飛んでいるような錯覚に陥る。何だこの生物。

「良かったっス。オレ、ぶっちゃけ料理って上手くなくて……。我が儘言って火神っちに先生頼んだんスよ」
「火神……?」
「あんまり仲良しな女の子って居ないし、桃っちはちょっと頼めないしどうしようって黒子っちに相談したら『火神君と水戸部先輩ならご期待に添えるかと』って教えてくれたんス。でも流石に他校のセンパイにお世話になるわけにはいかないんで……。それに火神っちなら……」

 火神の名前が出た途端、一気に味が消えた。グルメレポーターのあの人ならば「味のミスディレクションや〜」くらいは言いそうだ。胸の内側にぐるぐると渦を巻く得体の知れない何かが原因なのだろう。
 そんなオレに気付いた黄瀬は「どうしたんスか?」と不安げに下から覗き込んで来た。オレより身長が高いのに上目遣いが出来る彼の何とあざといことか。座高があまり無いから出来る技なのかも知れない。

「やっぱり美味しく無かったっスか?」

 今にも泣きそうだ。直感的にそう思った。けれどオレの口は動いてくれなくて、喉の奥が塞がったみたいに息苦しさを感じる。
 ああそうだよ。味がしない。美味しくない。不味い。口を開けばそう言いそうになる。けれどもどこかで矢張り美味しいと感じるオレがいるのだ。こんなに味がしないのに。

「火神っちなら、降旗くんの好きな食べ物知ってるかなって思ったんス。けど知らねーってバッサリ。本人に聞けよって言うけど聞ける訳ないじゃないスか、流石に。サプライズにする意味無くなっちゃうし」

 オレが何も言わない間、黄瀬は俯きがちに視線を落としながら言葉を紡ぐ。いつも元気な声は、今は萎んでいる。

「そしたら、『だったら全部に愛情込めりゃいいじゃねーか』って。それならオレにも出来るし。寧ろオレにしか出来ないしって言ってくれたんスけど、やっぱりそんな精神論みたいなので味がどうこうなるわけ無いっスよ……ね」

 ああ。美味しかったのは愛情だったのか。そう思うと一生懸命オレの為に作ってくれたのがひしひしと伝わって来て、オレの味覚が復活する。ん? ちょっと待て。

「愛情……?」

 って言ったか? え?
 黄瀬はカアア、と耳まで真っ赤にして小さく頷いた。そしてぼそぼそと言葉を紡ぎ始める。

「誠凛のカントクさんは料理下手くそだけど愛情がいっぱい籠もってたから木吉さんが全部食べられたんだって火神っちが教えてくれたっス」

 その話は知っている。あれは合宿が始まる前の事だ。主将が男前を発揮するも戦線離脱、水戸部先輩は気を失うし木吉先輩も変な汗の量が半端じゃ無かった。しかしそれで火神が料理上手と言う事実とカントクが何故かサプリメントをトッピングすると言う事実が発覚した。
 そんな事件(と呼んで良いのかは分からないがそれくらい衝撃的だったことをどうか理解して欲しい)を引っ張り出す程に黄瀬は自信が無かったのか。だから出来る精一杯の事だけをやった。
 しかし、

「何で?」
「へ?」
「何でそこまでしてくれんのかなーって」

 素直な疑問をぶつければ、黄瀬は弾けるように顔を上げた。しかしそこは益々真っ赤に染まっている。「あ」だの「う」だの歯切れの悪い母音ばかりの羅列にオレは益々脳内を疑問符で埋め尽くした。

「黄瀬?」
「だ、て」
「うん?」

 ぱくぱくと金魚のように開閉していた口から漸く絞り出すような声が聞こえてきた。だからオレは焦らずに続きを促す。

「だ、って……き、今日……た、誕生日じゃ、ない、スか……」

 文末に近付くにつれ声は小さくなっていったが確かに耳の奥まで届いた「誕生日」の言葉にオレの顔は熱くなった。

「……え? ぇえっ!?」
「〜〜っ」

 まさか。脳裏を過ぎった言葉はそれだ。
 まさかあのモデルが、まさかあのキセキの世代の一人が、こんなオレ個人の為に苦手な料理を習ってこうして振る舞ってくれるだなんて誰が思うだろうか。しかも火神に習っていたと言うことはもっと前から今日の計画を立てていたことになる。更に部活で疲れているところをわざわざ東京まで出向いてきたと言うのか。

「何で……そこまで」

 信じられない。此処までされて自惚れない人などいるのだろうか。否居る。オレだ。
 だって目の前にいるのは〈あの〉黄瀬涼太なのだから。
 けれどもそうは言ってもオレの心臓は破裂しそうなくらい痛い。カントクが組んだ部活の鬼メニューより心臓が騒ぎ立てる。

「あの、さ」
「……はいっス」
「誕生日プレゼントって……これだけ?」
「え?」

 キョトンとした目で見られているがオレ自身自分の発言にびっくりだ。何をそんなに欲張るのか。
 けれども一度出た言葉は引っ込められない。だから此処はもう腹を括るしかないのだ。

「黄瀬から……欲しいのあるんだけど」
「え、な、何スか?」
「キス、してよ」

 自分が自分じゃないみたい。将に今のオレにぴったり当てはまる言葉だ。
 こんなに心臓がバクバクなのにどう言うわけかポーカーフェイスを取り繕っていて、心の一部に余裕が出来ている。何なんだ。
 大きく見開かれた瞳は潤み、その中にオレが映っている。キレーだなーなんて思っていたら、あの匂いが嗅覚を刺激した。ふに、と柔らかくて温かいものが唇に触れた瞬間、オレの思考は現実へと引き戻される。
 唇が離れても匂いが間近にある。眼前には嫌味なくらい整った顔。けれども涙目だし顔は真っ赤だしとてもじゃないが雑誌に載る人物と同一だとは思い難い。恥ずかしげに震える睫毛は改めて見ると同じ男とは思えないくらい長い。
 恥ずかしさに堪え兼ねたのかそっと顔が離れていこうとするので、オレは透かさず腕を掴み首に腕を回し逃げ場を無くした。そんな行動に出るとは思わなかったのか黄瀬が分かり易くビクッと跳ねる。

「あ、……のっ」
「まだ欲しいのがあるんだけど、いい?」
「へ、え? 何?」
「先ず、黄瀬が欲しい」
「っ!」
「それから、黄瀬からの言葉が欲しい」

 真っ直ぐ目を見つめて言う。瞬きの音すら聞こえてきそうだ。
 再度、金魚の真似をした黄瀬は観念したように小さく息を吐く。そして意を決した瞳を以てオレを見た。まだ恥ずかしさが残っていたけれど。

「好き」
「うん」
「ずっと、好きっス」
「うん。オレも好き」
「ライクじゃないっスよ? オレのはラブの方っスよ!?」
「知ってるよ。でなきゃ『キスして』なんて言わないって」
「うぅ〜……」
「それから?」
「え?」
「オレ、まだ黄瀬の口から聞いてないんだけど」

 赤く染めたりキョトンとしたり短い間にころころ変わる表情は見ていて飽きない。
 可愛い。
 ストンとオレの胸に落ちてきた言葉だ。

「あ……の」
「何?」
「お、お誕生日、おめでとうっス! ンっ……!?」

 一生懸命な黄瀬があまりにも可愛くて、オレは半ば無意識に黄瀬の唇を奪っていた。
 今夜は、泊まっても良いのだろうか?
 しかし今日からスタートするのにハードルが高すぎる。でもこんな黄瀬を目の前にして我慢だなんて生殺しだ。
 オレの誕生日は将に天国と地獄の追い掛けっこだった。



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