桃黄


「きーちゃん」
「……桃っち」

 桃井は汗だくで床に寝そべる黄瀬の顔を覗き込みながら隣に座った。体育館の床に綺麗な金糸が散らばる。
 指に引っ掛けた髪ゴムを指先で弄りながら首をころんと傾けて桃井を見る。その際に顔に掛かった髪を桃井が優しい手付きでそっと掻き分けた。お陰で視界はクリアだ。

「毎日大ちゃんと続くね」
「でもやっぱ勝てないっス」
「けど良い線いってるよ?」
「全然ダメっス!」

 あれから桃井の手は離れることなく、ずっと黄瀬の頭を撫でていた。けれどもその動きは彼女が見せた表情でピタリと止まってしまう。
 眉根を寄せて辛そうな表情に思わずドキリとした。

「きーちゃん?」
「全然、ダメなんスよぉ」

 ポロポロとその大きな瞳から雫が零れ落ちる。それは目尻を伝い、散らばる髪を濡らして行った。

「分かってるっス。青峰っちが全然本気出してない事くらい。男と女の差とかきっと考えて私のレベルに合わせてくれてるって。でも、それが悔しいんス! 手加減されてても全然勝てない自分が情け無いっス……」

 悔しい思いを乗せた涙は止まることを知らない。しゃくりあげ、声を喉に詰まらせる。
 桃井はそんな黄瀬を見ながらただただ頭を撫でる事しか出来なかった。桃井の胸の奥がズキンと痛む。

「きーちゃんはさ」

 静かに呟いた――漏れたと言った方がニュアンス的には近いかもしれない――言葉に、黄瀬は話の続きを聞こうと懸命に咽ぶのを我慢する。「桃っち?」と、掠れた声が彼を呼ぶ。

「きーちゃんはさ、凄いよ」

 そっと黄瀬の頭を撫でる桃井の手付きは優しいものだった。しかしそんな彼の表情は悲愴な色が滲んでいる。
 黄瀬は戸惑った。何故こんなにも泣きそうな顔をするのだろう、と。

「力の差を知りながら毎日向かって行って、手加減をしてくれる青峰に申し訳無さを感じて、こうして泣いてる」
「桃っち……?」
「オレは、ずっと近くで彼を見て来た。ずっと近くで力の差を見せ付けられてた。だから一度だって勝負を挑んだ事なんて無い。負けると分かっているから、負けるのが怖いから。負けて、また差を見せ付けられるのが嫌だから。……だがら、今のきーちゃんを見てると自分の情けなさが露呈して凄く惨めな気持ちになる」

 床を見詰めたまま、黄瀬は桃井の手首を掴むと起き上がった。そのまま勢いをつけて桃井の肩に両手を置くと体重を掛ける。体格差はあれど、今までの体勢や不意打ちだった為に桃井の身体は簡単に仰向けになった。
 高いドーム型の天井を背景にした黄瀬が見下ろす。

「狡いっス!」
「き、きーちゃん?」
「桃っちは狡いっス!!」

 悲痛な叫びが体育館に谺する。
 止まった筈の涙は再び溢れ、桃井の頬を一つ二つと雫が濡らした。

「桃っちは、私と違って可能性が有るんスよ!? 私と違ってずっと前からずっと近くでずっと見て来たんすよ!? 私よりも戦う資格が充分にあるじゃないスか! 青峰っちが手加減無しで相手してくれるじゃないスか!! なんでっ……なんで、自分を認めてあげないんスか……」

 熱り立った様子で声を荒げるも最後は涙で邪魔されたのか切なげに萎んだ。
 桃井はただただ黙って彼女を見上げる。

「桃っちは毎日毎日頑張ってるっス。技術は青峰っちが上でも一杯頑張れば近付く事は出来るんスよ? それに、青峰っちには絶対に出来ない武器が桃っちにはあるじゃないスか」
「……武器?」
「桃っちには誰よりも青峰っちの情報をもってるじゃないスか。プレーだけじゃない。日常生活に於ける分も桃っちは知ってる」

 パタパタと局地的に降る雨は酷く優しく、温かかった。

「私はどう頑張っても男女の差は埋められないから勝つのはほぼ無理っス。けど私は絶対に諦めない。何度だって青峰っちに挑むっスよ」
「きーちゃん」
「でも、桃っちの事も応援するっス!」
「え?」
「桃っちが青峰っちに勝つように協力もする。桃っちは絶対に勝つ可能性が有るんスから」
「あの、きーちゃん?」
「だから……」

 黄瀬の瞳から最後の雫が落ちる。
 彼女の眼は真っ直ぐに桃井を見詰め、また桃井も彼女の眼を見詰めた。まるで吸い込まれそうな程に綺麗な蜂蜜色は、今は逆光で翳り向日葵色のように濃くなっている。

「だから、もう怖がらないで。自分を信じてあげて」
「……」
「例え桃っちが自分を信じてあげられなくてもいい。でも私は、桃っちを信じてるっス」

 そう言って黄瀬はふわりと笑った。
 天井に吊されたワット数の大きい照明で金色の髪も白妙の肌も目映い程に明るく縁取られている。まるで其処に居るのは天使のようだと桃井は漠然と脳裏に浮かんだ。

「そうだね。頑張ってみようかな」
「桃っち!」

 クス、と笑うと黄瀬も嬉しそうに笑う。徐に桃井は片手を伸ばし、彼女の頬を包み込んだ。親指で優しく目尻に残る涙を拭う。もう片方は腰へと回る。
 そのまましっかりと支えながら腹筋を使って起き上がった。突然起き上がるものだから黄瀬も上体を引く。すると、桃井の膝の上に向かい合って座る形になってしまった。

「ありがとう、きーちゃん」

 校内の女子が囃し立てる所謂《王子スマイル》を眼前――しかも至近距離で見せられ黄瀬の身体は一瞬で緊張で強張る。更に良い匂いが鼻腔を掠めたと思った矢先のことだ。口角と頬の境辺りに桃井の柔らかい唇が触れた。
 一瞬の出来事で一体何が起こったのかさっぱり理解出来ない黄瀬であったが、ゆっくりと思考回路が動き出すと理解し始めるのに比例して段々顔が赤く染まっていく。

「こっちの方も、頑張るつもりだから覚悟してて?」

 爽やかなウィンクに黄瀬の顔は耳や首までぶわっと一気に染まった。



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