緑黄


 さらさらとペンが走る音が部屋に響く。時折ペラ、と紙が捲れる音もするが頻度は少ない。
 さらさらと走るペンは、稀にキュッと短い音を出す。その時は決まってその部分だけが異様に濃くなっていたりするのだ。
 部屋の壁に掛かっている時計は秒針が一秒毎にわざわざ止まらない為、秒針の音は聞こえない。最新式の電波時計は所謂電池交換不要の優れた代物である。
 そんなお財布に優しくない時計を壁に掛けている部屋の住人――緑間は勉強机に向かって座って居るのではなく、寧ろ背を向けて座って居た。
 そんな彼の視線の先にいるのはベッドに背を向けて正座しながらローテーブルを凝視する黄瀬である。先程から出しているペンの音は専ら彼だ。

「緑間先生ぇ」
「情けない声を出すな」
「うぅ……っ。ココ、全然解んないっス」

 問題集のとあるページを指差す。正座の黄瀬と椅子に座る緑間では互いの頭の位置に差があり、必然的に上目遣いになる。更に今の黄瀬は崖っぷちの状況下にありそれを打破する為の方法で躓いているのだから涙目であった。
 あざといと言われても仕方のない事だが、黄瀬本人からしてみればただ必死になっているだけだ。

「全く……。だからお前はダメなのだよ」

 呆れたように溜息を吐くが別に不機嫌な訳ではない。その証拠に椅子から立ち上がり、隣に腰を下ろしている。

「いいか。関係副詞は《前置詞+which》の形を前提にする場合のみ用いられるのだよ」
「うー……」
「お前が今解いている問題を先ず先行詞を二度使って二文を考えろ」
「センコーシって何スか?」
「…………」
「スマセッ……スマセンっ! 何って言うか、どれっスか?」
「where の前にある単語だ」

 美人が怒ると怖いと言うが、それは緑間も例外ではない。
 眉間の皺が深く刻まれ無言で睨んでくるのだ。下睫毛効果なのかは分からないが眼力もなかなかである。

「えーっと……。We stay at the hotel.」
「どうして過去形の問題を現在形にするのだよ」
「あ、そっか。じゃあ、We stayed at the hotel.だ。それともう一つは、この、ホテルが超快適だったのよってやつを英訳すればいいんスよね?」
「勝手に問題を言い換えるな」

 緑間の言う通り、問題文に『超快適』と書かれているわけではない。

「ってことはホテルが主語だからー……、The hotel is」
「過去形」
「……was very」
「どうした?」

 ベリィ、ベリィ……と同じ単語を何度も繰り返しながらその先へなかなか進まない。不思議に思った緑間が声を掛けると困ったように柳眉を下げた黄瀬と目が合った。

「快適って何て言うんスか?」
「……comfortableなのだよ」
「ありがとうっス! じゃあ、very comfortableっスね! 出来た!」

 言われた二文が出来上がった事に両手を挙げて喜ぶ。しかし彼はこれがまだ解説の途中段階であることを忘れているようだ。

「それではその二文を『at which』を使って一文にしてみろ」
「無理っス」
「ならば補習でも何でも受ければ良いのだよ」
「うわああああんっ! ごめんなさいごめんなさあああい!」

 冷たく突き放しまた勉強机へと戻ろうと立ち上がる緑間の左手を握り締めそれを阻む。握る際に負荷を掛け過ぎないようにしているのは殆ど無意識だった。
 目だけで「ならば解け」と語りながら再び腰を下ろす。
 黄瀬もまた問題集へと向き直った。ぐす、と鼻を啜る音が小さいながらも聞こえる辺りなかなか本気で泣いていたらしい。

「英語は主語の後に述語だから、私たちが……快適だった? あれ? 何か変だ」

 一人格闘しながら懸命に解く姿をまじまじと見詰める。
 相変わらず整った容姿だと思った。正面からだろうが横からだろうが崩れない。例え泣き腫らしたとしても可愛く思えるのだからつくづく綺麗な顔だと思う。しかしそう思うのは恋人の欲目かもしれない。
 黄瀬が泣きながら電話を掛けて来たのは二日前の部活が始まろうと言う時だった。
 偶々マナーモードにするのを忘れていた携帯は大坪の号令が体育館内に轟く前に鳴り響いた。そして携帯に近付いたのは持ち主ではなくその相棒こと高尾である。
 彼はディスプレイに表示された名前を見て「お、黄瀬君じゃん」と楽しげに言うなり携帯を操作して緑間に向かって投げた。
 着信音を発しなくなったそれはてっきり切った物だとばかり思っていた。黄瀬の泣き声が響き渡るまでは。
 あろう事か高尾は電話を繋げただけでなくスピーカーに切り替えていたようだ。

「たすっ……助けて緑間っちぃぃいっ! オレ、このままだと死んじゃうっ」

 必死に自らの危機を知らせる声に緊張が走る。
 スピーカーから通常に戻し耳に当てるなり一先ず落ち着かせる事を優先させた。今何処に居るのかから始まり、緑間は質問を繰り返し、相槌を打つ度に眉間に皺が寄っていく。それをチームメイトは深刻な物だとばかり思い固唾を飲んで通話が終わるのを待っていた。
 しかし緑間から忌々しげに吐き出された言葉は「来週頭から始まる実力テストで黄瀬のクラスは担任の思い付きで平均以下ならば補習をする事になったから助けて欲しいそうです」だ。これにはあの木村や宮地でさえも言葉を失っていた。唯一人、高尾だけは腹を抱えて大爆笑していたが。

「出来た!」

 黄瀬の明るい声にハッと思考の淵から浮上する。
 横を見れば嬉しそうに笑うお騒がせの人が居た。まさかチームメイトらが揃って心配していただなんて彼は微塵も思っていないだろう。
 答え合わせを求める眼差しから目を逸らし、ノートへと移した。

「正解だ。だが何故お前は現在形にするのだよ」
「あ、やっちゃった」

 緑間側にあるノートの文字を消すべく黄瀬の体が右に寄る。必然的に体は密着しているのだが、黄瀬は消すことに夢中になっている。
 緑間が短く息を飲んだ事すら気付いていないだろう。

「ならばこの『at which』を一語で表現すれば関係副詞whereとなるのだよ」
「つまり、『The hotel where we stayed was very comfortable.』になるんスね!」
「同様に、先行詞が場所を表す語ならば“where”、時を表すならば“when”、理由を表す語ならば“why”を入れれば良いのだよ」
「なるほど! 流石緑間っち!」
「無理では無かっただろう?」

 したり顔で言えば黄瀬は一瞬だけキョトンとするも少し前の会話の事だと分かると顔に熱が集中し始めた。

「だ……って、だって……それはっ」
「オレが隣に居るのだから無理な事など無いのだよ」

――お前が素直にオレを頼るのならばの話だが。

「……っ!」

 髪を耳に掛けて露わにするとそっと唇を寄せて囁く。
 更に赤味を増した頬はまるで一足先にやってきた秋の知らせのようである。
 耳が弱いと知っていて尚やるのだから質が悪い。それでも喜んでしまうのは黄瀬も相当緑間に御執心なのだろう。
 残暑の続く日々が秋を連れてくるのはまだまだ先になりそうだ。



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