赤黄
(コレの続き)
赤司が先立ち、三回忌を終えたのは三日前のことだ。
今でも黄瀬は、目を閉じなくとも思い出す最期の日から一歩も進んではいない。ただ時間は過ぎて行くばかりで彼の中の時計はあの日のままだった。
最愛の人を失って初めての季節はどれもモノクロでまるでバスケ部に入る前のようだと他人事のように思う。けれどもまだその頃の方が良かっただろう。今は完全に二階調だ。
折角咲いた真っ青な紫陽花も記憶に残るのはガウスの掛かった青い何か。七夕で見上げた夜空は何も見えなくて、一人分の短冊はインクが滲んでしまっていた。一人で住むには大き過ぎる家はそこへ帰る度に胸を締め付けた。
いつだって暗く寒い家はもう彼が居ないことを顕著に語っている。
「今日から二学期っスねー」
机上に置いてある卓上カレンダーをペラリと捲る。子犬の写真が載っているそれは季節感など一切感じさせないシンプルなものだ。今月はゴールデンレトリバーの子犬である。
――涼太は宛らゴールデンと言った所か?
赤司の声がリフレインする。
あれは確か二人で動物番組を見ていた時に黄瀬が「赤司っちはロシアンブルーっぽいっスね」と言った事が始まりだ。スマートな身のこなしと気品に溢れているその様がそっくりだと思った。
それに対して赤司は黄瀬を犬に喩えたのだ。大きく成長してもその愛くるしさは健在で人懐っこく優しい性格のそれと似ている。そう言って笑った。
「……っ」
ジワリと目の奥が熱くなる。縁がぼやけて来た所で慌てて点眼薬を落とした。
泣くと目を擦ってしまうからと、生前、赤司が提案した方法をずっと続けている。メンソール系の点眼薬は思考も視界もクリアにしてくれ、大変重宝していた。赤司が死んでからは特にそうだ。
「そう言えば応接室で転入生が待ってるんだっけ」
今日は始業式だけで授業は無い。けれども始業式後のホームルームは少し長く取られている。
それは夏期休暇中の課題を提出させる事と、転入生を紹介し早々に打ち解けられるようにするのが目的だった。
私立校に転入して来るのは珍しいが、黄瀬の勤める帝光中学は特に人気校であり年に一度は必ず編入して来る。ただ、今年は例年よりも少ないらしい。
今回は黄瀬のクラスに入るらしいが、どうやらその子だけのようだ。
「挨拶は副担に任せちゃったからなぁ」
丁度三日前の法事と転入生と保護者の挨拶日が重なってしまったのだ。だから実質的に今日が顔合わせも初めてである。
新しい名前の加わった名簿と式後にあった職員会議で貰ったプリントを片手に応接室へと急いだ。
そして黄瀬は扉を開けた時、何故、事前に名簿を見て今から会う人物の情報を得なかったのだろうかと後悔するのであった。
「……っ、あ……」
扉を開けたまま硬直する黄瀬はまるで其処だけの時間が止まってしまったかのようだ。しかし黄瀬からしてみれば、時間は止まったのではなく《戻った》ように感じた。
応接室の革張りのソファーには荷物だけを置き、先客は腰を掛ける事もなく正面の窓枠に背を預けて立っていた。
ブラインドは全て上げられ直接窓から入る陽射しは後光の役割を果たしているかのようだ。実際にはそれ程強い光ではないのだが逆光の効果を出すには充分である。
光に縁取られた頭は赤く、手にしている書物は上級者向けの詰め将棋。ただ其処に佇んでいるだけだと言うのに画になる。十数年前は自分も着ていた制服はきちんと着こなしネクタイも締めてあった。釦を留めているのも記憶の中の彼そっくりだ。
ただそっくりなのではない。そこに居るのは、黄瀬の目の前に立って居るのは紛れも無く彼――失った筈の赤司征十郎だった。
「あ、えと……」
黄瀬は今、自分でも分かる程に激しく動揺していた。心臓が五月蝿い。これは警鐘か否かの区別も付かないくらいに思考回路は遮断されている。
絞り出した声は掠れそれでいて小さかった。それでも彼は静かに本を閉じ、そして、顔を上げた。
「初めまして、『涼太』」
その声で、その顔で。
「な……ん、で」
喋らないで。笑わないで。
「赤司征十郎だ」
違う。
違う。
違う。違う。違う。違う。違う。
「な、んでっ」
違う。違うのだ。彼は決して黄瀬が求めていた《彼》ではない。
けれどもどんなに否定しても胸の奥がきゅうきゅうと鳴いた。
いつの間にか赤司が背後に立ち、開けっ放しの扉を閉める。そしてそのまま後ろから手を伸ばし何も持たない方の手にそっと触れた。
瞬間、ビクッと黄瀬の肩が大きく跳ねる。
知っている。覚えている、と言った方が正しいかもしれない。
触れた手から伝わる温度もそれを感じてリズムを変える己の心臓も全て覚えている。例えどんなに時間が経っていようとも、忘れる事など出来ないのだ。
「すまない。涼太の事は、涼太との事は何一つ覚えていないんだ。ただ、涼太の事を知っている。涼太の声も笑顔も泣き顔も全部」
触れている手に力が籠もる。
「知っているから、此処へ来た。それが僕の……《赤司征十郎》の義務だ」
そのはっきりとした物言いが記憶の中の彼とリンクする。リンクして、共鳴する。
「…………っ」
ぐるりと勢いをつけて振り返れば、驚いた顔の赤司が居た。けれどもそれも長くは続かない。
最早堪えきれそうに無い涙の粒は程無くして落涙した。
それからはもう点眼薬では誤魔化しきれないくらいに泣き崩れた。
赤司の腰に抱き付きお腹に額を押し付ける。そうすれば必ず赤司は頭を撫でるのだ。そうしてただひたすらに甘やかしてくれる。
「おかえりっ! おかえりなさいっ、赤司っち!」
「ただいま。涼太」
ずっと待っていた。彼の居ない季節を一人で跨いできた。色の無い世界を一人で歩いてきた。それは人からしてみればたったの二年かもしれない。しかし黄瀬にとってその時間は久遠にすら匹敵するのだ。
こうしている間にも、時間は止まることなく流れて行く。三〇余名が今か今かと二人が現れるのを待っていることにこの時はまだ気付いてはいなかった。
彼に告げられた一言で最早それ所では無くなってしまい、黄瀬のクラスのみスーパーロングホームルームへと変わったのは言うまでもない。
「また、最期の一回だけにしか名前を呼ばないつもりか?」
「…………え……っ!?」