火黄


 目が覚めた時は頭がボーっとして、自分が今何処に居るのかも今何をしているのかも全く思い出せなかった。
 それが、二日前。

「あっ! 火神っち!」
「病院では静かにしろって教わらなかったのかよ」
「ここ個室だしっ!」
「関係ねーよ。っつかお前はまだ安静の身だろーが」

 病室の真っ白な扉が静かにスライドすると、その向こうからは紺色の繋ぎ姿である火神が現れた。上半身の部分は脱いでおり、袖を腰の辺りで軽く結んでいる。結び目が普通と違うのは直ぐに解けるようにしている為だ。
 彼は呆れた様子でベッド横にあるパイプ椅子に座った。
 そんな火神を今か今かと心待ちにしていたのはこの個室の病室で入院中の少年――黄瀬である。

「オレが来る度にはしゃぐんならもう二度と来ねー」
「えっ! ヤダヤダっ! 大人しくするっ、良い子にするっス!」

――だから、時間に余裕が出来たらまた来て?

 八割冗談のつもりで言ったのだが、ベッドの上で足は布団の中に入れたまま上体だけを起こして座る黄瀬は眉尻を下げる。懇願するような顔は宛ら捨てられた犬のようである。しかし火神は小型だろうと拒絶反応を起こす程の大の犬嫌いなので実際に犬が捨てられていても自分は引き取らないだろう。

「分かった分かった。また来てやっから。だから大人しく寝とけ」
「ほんと?」
「ああ」
「じゃあ約束っス!」

 火神が窓から差し込む太陽光に反射してキラキラと輝く黄瀬の頭を撫でていると、彼はスッと左手の小指を出した。
 それが指切りを指している事など一目瞭然である。
 細く形の良い黄瀬の白い指にそれとは対照的な節榑立った見るからに男性的な指が絡まった。直後、軽く上下に揺らしながら「指切り拳万」と明るい調子で歌う。

「あ、約束ついでにもう一個約束取り付けちゃってもいいっスか?」
「何だよ」

 歌いきると思い出したように言う。
 指を絡めたまま遠慮がちに訊いてはいるがしかし図々しい事に変わりは無い。
 けれども火神は眉根を寄せて怪訝な顔をしながらも小指を離そうとはしなかった。寧ろ先を促している。

「じゃあ……ゆーびきーりげーんまーん」

 そしてもう一度、先程と同じようにしながら歌い始める。
 勿論、拳万の内容だけは変えている。

「オレが退院したら火神っちはオフの日に時々オレをワンオンワンに誘う」
「は?」
「ゆーびーきった!」

 やった者勝ちとでも言うように、歌い終わりと同時に勢いをつけてパッと指を離す。にこりとご機嫌な笑顔を見せる黄瀬に、火神は呆れた様な溜め息を吐いた。

「オレは別に構わねーけどよ。部活の方はまあ部活終わりにでも付き合ってやれっから別にいいけど……退院したらモデルの仕事再開させんだろ?」
「どうっスかねー……」

 歯切れの悪い黄瀬に首を傾げる。
 彼の表情は笑みを作っているものの何処か曇っていた。そもそも笑みを《作って》いる時点で様子がおかしいと気付ける。

「腕の方はまあごまかせるかもっスけど、最終的には顔の包帯が取れてみないと分かんないっス」

 何がとは言わなくても分かる。モデルを辞めるか事務所の方から解雇されるか。何れにせよ華やかな世界から身を退く事に違いはない。
 ずっと布団に隠れていた右手がそっと顔の右半分を覆う包帯に触れる。その指先の白さはどこか儚げで包帯の白さに溶けてしまいそうだ。

「聞いた話だと、手術に皮膚科医の他に形成外科医も居たらしいんで傷口が盛り上がる事もないし。恐らくファンデとかで隠せるくらいにはなると思うんで大丈夫だとは思うんスけどね」
「悪い」
「えっ、ちょ、何で火神っちが謝るんスか?」
「オレがもっと早くにお前を見付けてたら黄瀬にこんな面させずに済んだのに……」

 露わになっている左頬をそっと優しく手の平で包み込む。
 流石モデルをしているだけあって、触れた箇所は滑らかで癖になりそうな手触りだ。手の平に吸い付くように瑞々しい。
 美容には全く以て疎いながらもこう言うのを美肌と呼ぶのだろうと思った。
 更に驚く程小さい輪郭は友人が働いているあいだ幼稚園の園長――女性ではあるが職員に対して笑顔で相当鬼畜な事を言うらしく、その度に全職員は満身創痍になると言う――と同等か若しくは彼女よりも小さいかも知れない。

「まあ、最悪美容整形にでも行けばケロイドとかも何とかなるし。薬に頼るよりそっちの方が手っ取り早いし」

 それはつまり、その端正な顔にメスを入れると言うことだ。
 頬を包む火神の手に黄瀬の左手が重なる。指切りをした手だ。
 先程とは打って変わって表情に明るさを取り入れて笑う。けれども半分しか見えていないからかその笑顔は痛々しく感じた。

「それに火神っちは猛火の中からオレを探し出してくれて命を救ってくれた恩人スよ」

 包帯やこの病室の色を吸い取ってしまったかのような白い指先が火神の左頬に触れる。
 伸ばされた右手は、肌の色とは異なる白に染まっていた。入院着の七分袖から覗く腕を覆い肘近くまで隠している。

「火神っちの仕事は人命救助っスよ。無傷で助ける事じゃない。履き違えちゃダメっスよ? オレは火神っちに助けられて、今、こうして火神っちの前に居る。火神っちと喋ってる。火神っちに触れてる。もし来てくれたのが火神っちの居る消防隊じゃ無かったら、もし到着が後一歩遅かったら、もし見付けてもらえてなかったら、オレは今此処に居ないんス。オレが生きていられるのは全部火神っちのお陰なんスよ」

 はらり。はらり。
 涙点から溢れ出した粒が瞳から零れ落ち、火神の手を濡らす。

「だから、そんな顔しないで……っ」

 そんな、と言われても火神自身には分からない。自分が今どういう表情をしているのかまるで分からない。
 只一つ、分かると言えるのは、自分が今している表情は眼前の綺麗な少年に涙を流させてしまう程に酷いと言うことだ。

「悪い」
「だから、謝んないでってば」
「……悪い」
「もー」
「すま、あ、そうじゃなくて今のは謝った事に対してのもので別に」
「知ってるっスよ」

 頬を擦り寄せて眦を下げる。
 知ってるっス。
 もう一度、同じ言葉を口にする。

「あーあっ」

 二人を包む空気が甘さを含み始めた時、それを壊すようにややなげやり気味に嘆いたのは黄瀬だ。

「家は燃やされちゃったし。全焼してくれちゃったお陰で持ち物全部燃え滓になっちゃったし。オレ、退院したら高校生ホームレスっスよー」

 今まで住んでいたマンションは事務所側が用意したものだ。しかし今回、黄瀬を疎ましく思う輩の仕業により放火の被害に遭ってしまった。用意されていた部屋が三階の角部屋だった事も原因の一つだ。
 本来ならば事務所やマネージャーが手配してくれる筈である。しかしメディア各位への対応に追われる事務所内や黄瀬が被害に遭った事で空いてしまった穴埋めや保険云々に追われるマネージャーを思うと、どうしても頼りっきりになれない。
 生憎両親は海外と関西に単身赴任中である。実家に住まわずわざわざ借家に住んでいるのは単に利便性の問題だ。
 仕事は東京でも学校は神奈川にある。それらの往復には実家では睡眠時間を犠牲にしなければならない。更に言えば一軒家に一人で住むのは案外寂しがり屋の性格上不向きだった。

「こんな時期に都合の良い物件とかあるんスかねー? ってか未成年だから手続きかなり面倒臭そう……」

 擦り寄るものからまるで弾力を楽しむようにぐにぐにと火神の手の平に頬を押し付ける。
 不細工になってんぞ、と冗談半分で笑って言えないのはその柔らかい頬の気持ち良さに意識を奪われてしまっていたからに他ならない。

「まあコレばっかりは退院してからでないと何も出来ないし。物件決まるまではホテル暮らしかなぁ……。経費として出るかな? それとも給料から引かれちゃうかな? 引かれんのヤダなぁ……。仕送りは要らないって言ってるからそうなるとマジで生活費困るし」

 唇を尖らせてぶつぶつと言う姿を不覚にも可愛いと思ってしまったとか、折角助けた命を再び危険に曝すのは気が引けるとか、そんな気持ちが浮かびはしたもののそれに自分は全く気付いていなかった。気付けば口が勝手に動いていたのだ。

「じゃあ、オレんとこ来るか?」
「え……?」
「っと、悪い。もう昼休み終わっから戻るわ」
「ちょっ」
「ちゃんと大人しくしてろよ? また来てやっから」
「え、あのっ」
「じゃあな」

 先程の言葉の真意を聞きたかったのに。
 火神はそんな黄瀬の心情など知る由もなく、時間に終われるようにして真っ白な部屋から姿を消した。
 最後の言葉と共に撫でられた頭部に何とはなしに触れてみると、何故だかそこから熱が発生しているかのように熱く感じる。実際その様な事は当然無い。しかし頻りに熱いと主張するのは左半分だけが覗くその顔だった。

「……バッカじゃないの」

 恩人に殺される。将にそんな気分だ。
 速度を上げていく心拍数を持て余しながら、新しい点滴を交換しに来た看護士にいつ退院出来るのかと仕切りに訊くようになったのはこの頃からだった。



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