青黄
桐皇の体育館にスキール音が響く。複数の音に混じってボールがバウンドする重低音やリングに当たる鈍い音も聞こえる。
中にいる人間はボールを追い掛ける事に夢中なのか外の様子に気付く者は誰一人として居ない。しかしとある来訪者により体育館から一歩外に出れば、空は分厚い雲に覆われ水滴が大量に降って来ているのだと嫌でも知ることが出来た。
「青峰ーっち!」
良く通る声は館内に響き渡り、瞬時に中に居る人間の視線を浴びる。けれども人に見られる事は慣れているのか全く意に介する様子は無い。
「あれ? すいませーん。青峰っち居ないんスか?」
「海常の黄瀬君やんなぁ? 青峰なら今日はまだ来てへんで?」
「マジっスか!? おっかしーなぁ。こっち来る前に青峰っちに連絡入れたんスけど……」
「返信来たんか?」
「来たっス。学こ……っくしゅ!」
ふるりと震えた体に合わせて束になった金糸が揺れる。普段ならばその一本一本の動きが視認出来る筈だ。けれどもそうならなかったのは彼の髪がしとどに濡れていたからだ。
しかしそれは髪だけではない。制服のシャツはぴったりと肌に張り付き、肌の色が透けている。開襟部分から覗く白い肌と陰影を作る鎖骨が、シャツから透けるそれをより一層扇情的に演出していた。スラックスは色を濃くし、裾の部分からは吸収出来なかった水分が雫となって現れている。
「桃っちも居ないんスか?」
「桃井なぁ、今、監督の車で買い出しに行っててん」
「えぇーっ! もう、オレじゃあ何のために来たんスかぁ」
それは此方の台詞だ。と言えなかったのは、しゅんと肩を落とししおらしくなった黄瀬が居たからだ。雨に濡れた髪から滴る水滴は顔を濡らす。頬を伝うその一筋がまるで涙のようにも思えた。
けれども実際に彼は泣いていない。ただ、泣きそうではあるが。
まるで雨の中捨てられた犬のような黄瀬に今吉も思わず腕が伸びる。疚しい気持ちが無いわけでは無かったが、それでもただその頭を撫でてやろうと言う気持ちはあった。
だが伸ばしかけた腕が中途半端な所で止まってしまったのは、黄瀬の今にも泣きそうな情け無い声の直後のことだ。
「あおみねっちぃ……」
「何だよ」
ずぶ濡れの黄瀬の背後から気怠そうにして青峰が立っていた。
「青峰っぷ!」
いつもの『青峰っち』が言えなかったのは、黄瀬の顔面にある物を青峰が投げつけたからだ。
鼻が高いのもあってか、自然とそれが落ちることも無い。仕方なく手に持って確認する。
「……これ」
「屋上で寝てたら急に雨降ってくっしよぉ。中に入る時、黄瀬が走ってるのが見えたからな。こっち来るついでに部室に寄ってたんだよ」
青峰の言葉を聞きながらも黄瀬は自分の手元ばかりを見ている。彼の手に握られているのは、黒と赤を基調とした紛れもない桐皇のジャージだった。
そこで黄瀬は納得する。青峰に投げつけられた時、鼻腔を擽ったのは青峰の匂いだったのだ。だから別段慌てる事も文句を言うこともしなかった。
「それ着てろ」
「いいんスか?」
「腹黒眼鏡に今のお前の格好見られるよかマシだろ」
「ヒドッ! ワシは別にセクハラとか視姦とかしてへんで?」
「関係ねーよ」
そうやって青峰が今吉に噛み付いている間にも黄瀬は豪快にシャツを脱ぎ捨て、素肌のままジャージを着込んだ。脱いだ時は体育館から一瞬ザワッと反応があったものの直ぐにそれが隠れてしまうと落胆の溜め息が多発していた。それを敏く気付いた青峰は睨みを利かせて黙らせる。
「青峰っちの匂いがするっスー」
「そーかよ」
すんすん、と襟を立てて嗅覚を働かせれば、途端にふにゃりと破顔する。
「で、黄瀬君は青峰に何の用があったん?」
「あ! そうそうそれっス!」
「あ?」
「ああーっ!」
「あぁ?」
今吉の問いに反応した黄瀬は床に置いたスクールバッグを開ける。その瞬間、体育館の中を黄瀬の声が大きく反響した。
突然の大声に青峰の眉間に皺が刻まれる。
「あ、青峰っちぃ」
「んだよ」
今にも泣き出してもおかしくない顔で、黄瀬はしゃがんだまま青峰を見上げた。その瞳には溢れ出ないのが不思議なくらい分厚い水の膜が張られている。
「スンマセン……。誕生日プレゼント、雨に濡れちゃってぐしゅぐしゅになっちゃったっス……」
震える声は明らかに涙声で、言葉を紡ぐ間に一つ、また一つと涙が零れ落ちた。
鞄の中を見やればプレゼントと思しきキレイにラッピングされた物がチラリと見える。
「別にいーだろ。んなもん」
「でもっ、でもぉっ」
「んじゃ今日一日のお前の時間を寄越せ」
「へ? えっ!?」
言葉の後に軽く唇を奪われたかと思えば青峰の手は黄瀬の二の腕を掴み勢い良く引っ張り上げる。バランスを崩した黄瀬はそのまま青峰の胸へとダイブした。
未だに現場の把握と青峰の言葉の理解が出来ていないのか酷く大人しい。
「行くぞ」
そう聞こえた時には既に腕を引かれていて、体育館から出ていた。
「え、えっ!? あの、青峰っち?」
「日付が変わったら解放してやる」
惚れた弱みとでも言おうか。ニヤリと妖しい笑みを浮かべる姿に不覚にも黄瀬の胸は高鳴った。
伊達に青峰にくっついてはいない。過ごした時間は短くとも、それすらカバー出来る程濃密な時間を過ごしてきたのだ。だから次に青峰が取ろうとしている行動も分かってしまう。
部室でケーキの代わりに食べられた後はそのままテイクアウトされるだろう。けれども好きな人の誕生日にずっと彼を独占出来るのは非常に嬉しい出来事なのだ。
誕生日なのだから頑張ろうと意気込むのも無理はない。
「あ、でも明日始業式っスよ? お手柔らかに」
「あ? んなもん知るかよ。今日はまだ終わっちゃいねーぞ」
「え、うそっ! 青峰っち? ねぇっ、ちょ、待って」
「待たねー」
「んッ……ぁッ、あ、お……み、ふ……ぅん」
誕生日なのだから今日くらい何でも言うことを聞いてやろうと思っていた黄瀬であった。しかし気持ちが完全に流されてしまう前にあることに気付いた。
(誕生日だろーとなかろーと、この人いつだってこうじゃんっ!)
固より俺様な青峰に《誕生日だから》と言う気遣いは一切不要だったと改めて思うのだった。
しかし恐らく来年のこの日も、同じ事を思うのだろうと早くも予感がしている。何故なら、去年も一昨年も、全く同じ事を考えていたのだから。
(青峰っちが幸せな誕生日を過ごせるのなら仰せのままに……)
深く深く繋がった唇から伝わったのは、愛情かそれとも――。