黒黄
「黒子っち!」
本屋での用事を済ませた後、駅ビルから出て来た所で女性に名前を呼ばれた。勿論声には覚えがある。だから振り向いたのだが明らかに黒子の視界に映った人物は思い描いていた人物ではなかった。
否、同一人物ではある。しかし厳密に言えば、普段見慣れている彼女では無かったのだ。
「黄、瀬……さん?」
「他に誰が居るんスか? もしかして黒子っち、誠凛でも女子の誰かに『黒子っち』って呼ばせてるんスか……っ!?」
「いえ、それはありません。有り得ません」
こんなふざけた呼び方は君だけで充分です。とは思っても言わなかった。目の前で勝手な勘違いから泣きそうになっている黄瀬にわざわざトドメを刺すような言葉を言ってやることも無い。寧ろ言ってしまえば余計に面倒臭いことになるだろう。これまでの経験を踏まえて呑み込む次第となった。
「今日は、何だかいつもと雰囲気が違いますね」
「あ、分かるっスか?」
元々人目を惹く容姿ではあるものの、今日は特に凄い。それは恐らく――。
「今仕事帰りなんスよ。服だけ着替えてそのまま帰って来ちゃったんス。やっぱり変……スか?」
春に練習試合で再会した時も中学と変わらずのポニーテールだった髪はハーフアップで女性らしい可愛いバレッタで留めてある。サラサラのストレートだった毛先は緩やかなウェーブが掛かっている。前髪の分け目も変わり随分と印象が変わった。
加えて軽めではあるがしかし写真用とあってかアイメイクはしっかりしている。瑞々しい唇は今は桜色のグロスが塗られぷるりとしていた。
「撮影の衣装に合わせたメイクとヘアメなんで、私服じゃあやっぱり浮いちゃうんスよねっ」
眉尻を下げて笑顔を作る。それだけでも画になると言うのはそれだけ彼女の容姿を誉める言葉が沢山あると言うことだ。
「びっくりしました」
「え?」
先程の表情から一転して、今はきょとんとしている。加えてこてんと首を傾げるのだから堪ったものではない。もし、目の前に居るのが黒子ではなく不貞な輩だったらどうするつもりなのかと勢いに任せて責め立ててしまいたいくらいだ。
「黄瀬さんに名前を呼ばれたと思って振り向いたら、知らない女性が此方に駆け寄って来るものですから」
「知らないって……ヒドイッ」
「それくらい、キレイなんですよ。今の黄瀬さんは」
「あ、え……え?」
ヒドイ、と言って頬を膨らませたかと思えばどうやら今は照れているらしい。頬が紅潮し、瞳がうるりと薄い膜を張ったようだ。
そんな彼女も愛おしく、周りからの視線は絶えない。
「普段はとても可愛い人なので、……何だか、数年後の黄瀬さんをフライングで見た感じがします。得した気分ですね」
「あ、ああう……ぅ、あ、あぁ」
薄紅色に染まったまま口をはくはくと言葉にはなり得ない声を出している。その顔の赤さは艶やかなグロスよりも色濃く現れた。黄瀬が身に纏うスモーキーピンクのシフォンワンピースにも負けていないと言えよう。
彼女が此処まで人前で表情を崩すのは後にも先にも黒子の前だけだ。
「黄瀬さん。これから少しお時間はありますか?」
優しく問えば、折角セットした髪型が崩れてしまうのではないかと思う程に頭を縦に振った。「はい」の二文字を口にすれば良いだけの話だが、今の彼女にそんな余裕は微塵も無いようだ。
「それでは今からボクとデートしていただけますか?」
「……っ!」
黒子が目を細めて笑う。普段あまり表情に変化の無い彼がここまで顕著に微笑むのもなかなか稀である。
思わぬ申し出に黄瀬の鼓動は一層高鳴る。ドクン、と大きく脈を打つと暫くは収まらないだろう。
言葉通り、胸がいっぱいで返事すら喉に詰まる。けれども早く返事をしたくて、再び首を振って答えるけれども今回はそれで満足しては貰えなかった。
「ちゃんと、黄瀬さんの言葉で返事をお聞きしたいです」
「……っぅ、ぁ、……の、……よ、宜しく、お願い……します」
最後の方は消えかかっていた。けれどそれでもこの人々がごった返す喧騒の中でしっかりと聞き取ったらしい黒子は、将に愛の力と揶揄されてもおかしくはないだろう。仮にそう言われたとしても、今の黒子ならば、
「彼氏として当然です」
と、平然と言ってのけそうだ。
黄瀬の返事に満足したのか徐に彼女の右手を自らの左手で拘束する。人混みに負けぬように、決してその熱を失わぬように、指を絡めてしっかりと握った。
二人で過ごせる時間としてはあまり残されていないけれど、それでも、彼は彼なりにお互い会えない時間を埋めようとしているのだろう。
鼓動が伝わっても構わない。だから黄瀬も離れぬよう、離さぬよう、一回り程大きいその手を握り返した。
これには言葉は無くとも黒子に満足していただけたようだ。