紫黄


 ずっと好きだった人が居る。居た、と言えないのは矢っ張りまだその人の事を考えてしまうから。
 だけど好きを過去形にしたのは諦めなければならないから――。
 中学を卒業して以来会わなかった意中の人は東北へ進学した。オレは関東に残ったけれど、その人と沢山の思い出がある東京からは離れた。
 けれども一年と経たずにオレは再会を余儀無くされたのだ。会うつもりなど無かったのに。それでもそれはオレが勝手に思っていることだ。バスケを続けていたら何れは会うだろうなとは思っていた。それが思っていたよりも早かっただけ。
 再会を果たした時、オレは好きな人の隣りではなく憧れの人の傍に居た。あの人は相変わらずお菓子を片手に立っている。階段の上に居るオレの方が今は目の高さが上かも知れない。そう思ったら少し新鮮で胸が久し振りにドキドキ言っていた。
 だけど結局彼とは言葉を交わさずにその場は解散となる。話したくなかったと言えば嘘になる。しかし話さなくて良かったとは思っていた。
 それなのに。

「――よろしくっス」

 それなのに、声を掛けてしまった。試合中だったのにも拘わらず。
 火神っちのせいだ。なんて責任転嫁はいくらでも出来るけれど、彼にしたら身に覚えのない八つ当たりをされているだけだろう。だってこれはオレだけの問題だから。
 火神っちのせいじゃない。根元を辿れば試合の予定を変更する方が悪いのだ。予定通り行われればオレは誠凛対陽泉の試合を観戦する事なんか無かったのに。あんなに間近で彼を――紫原っちを見てしまった。
 彼には負けて欲しく無かった。けれどもオレは自分が傷付かない為に――勿論、リベンジも果たしたいと言う気持ちだって強かったけれど――誠凛を、利用したんだ。
 しかし、どうやら神様と言う存在は残酷な事が大好きのようです。

「あ、えと……」

 そりゃあ同じ会場でやっているのだから会う事はおかしくない。さっきだって彼らの試合を観戦したばかりだ。そして、負けた。
 今、眼前に壁のように立つ紫原っちにオレは息を呑んだ。漸く息が出来たと言ってもいい。彼を見た時はまるで呼吸のやり方を忘れたかのようにヒュッと喉の奥に何かが絡まった感覚に陥ったのだ。

「残念っスね! オレ、紫原っちと戦れんの楽しみにしてたんスよー?」
「嘘吐き」
「嘘なんかじゃ……」

 ドキッとした。同時にズキッとした。
 嘘を見破られた事。オレの言葉を信じてもらえなかった事。どちらも自分勝手な理由だけど胸の奥が痛んだ。
 廊下の端っこ。左手側には壁がある。トイレが近いからか人の往来が激しい。

「黄瀬ちんさぁ、随分気に入ってんだねー。黒ちんの新しい相棒」
「火神っちっスか?」
「ふーん。やっぱねー。黄瀬ちんアイツのこと認めてんだ」

 それはオレが火神を《火神っち》と呼ぶからだろう。しかしそれはもう半年以上も前からだけど。彼にとってはそうではないらしい。

「そう言えば、紫原っちのとこの……えーと、ヒムロさん? さっき向こうで会ったっスよ」

 氷室、と名を出せば僅かに彼の表情が変わった。そこでまたズキッと痛む。

「火神っちと金髪美女と一緒に居たっス! 結構親しいみたいで、オレ、邪魔しちゃったかなーなんて」

 先程起こった出来事を色々と端折って話す。自分でもこれは上手く笑えたと自負できる笑顔だ。
 まあ、紫原っちにはどうでもいいようで素っ気ない反応が返ってきた。どちらに対してなのかどちらに対してもなのかは分からない。

「ヒムロさん、すっごいイケメンっスね! 結構モテるんじゃないスか? っつーかイケメンのオレが言うんだから絶対そうっスよね? 逃した魚は大きいとも言うし、絶対離しちゃダメっスよ!」

 言葉を口にしながら不思議な感覚だった。
 自分の言葉に傷付きながらも自然と笑顔が作れてしまう。痛いのに、痛くなればなる程オレの表情は笑えてくる。そんな自分に嗤えてくる。

「あんな美人さん滅多に居ないんスから。しかも紫原っちのペースにちゃんと合わせてくれてるんしょ? あの人は貴重っスよ。ちゃんと大事にするんスよ! ちゃんとその手で、しっかり握って」
「黄瀬ちん」
「……っ」

 名前を呼ばれ遮られた。けれどそれが原因で言葉が続かなかった訳ではない。
 頬に――オレの両頬を包む大きな掌に言葉を吸い取られたのだ。
 固より自分でも何を言っているのか分からなかった言葉だった。だから予想外の事が起こって続かなかったのだろう。しかしオレにとって心にもない言葉を口にするのは雑作もない事だ。それなのに二の句を紡げ無かったのは偏に触れたのが彼の掌で、伝わってきた温もりが彼の体温だったからに他ならない。

「黄瀬ちんは、今、幸せ?」

 目を逸らせなかったのは真っ直ぐに見つめられていたからだ。

「あの人達と一緒にバスケして、一日を過ごして、幸せ?」
「幸せ、っスよ……。すっごく」
「そ」

 返答すれば温もりは簡単に失われた。
 じゃあね、と告げられた気がする。
 我に返ればもう、壁は無くなっていた。遠ざかる大きな背中は少し離れたくらいじゃ大きいままだ。しかしそれが小さくなるのと角を曲がって消えるのは恐らく同時だろう。
 気付けば駆け出していた。腕を伸ばしていた。伸ばして、掴んでいた。

「まっ、待って!」

 くん、とジャージを後ろから引かれ彼は足を止めた。くるりと顔だけを捻って此方を見る紫原っちは不機嫌そうだ。
 それもそうだろう。
 試合には負け、大事な人の傍に金髪美女が居たことを告げられ、更に負かされた相手のエースも居たと知り、ウザいオレに出会い、自分勝手に足留めされてしまったのだから。
 それからもう一つ。
 オレの訳の分からない行動もきっとそうだ。
 振り向かせる事なくオレは彼の背中にしがみついた。額を押し付け勝手に泣く。中学時代、散々ウザがられていたけれどきっと今のオレはそれ以上に違いない。

「おね、が……行か、ない、で」
「黄瀬ちん?」

 喉に嗚咽が絡みついて喋りにくい。平静を装う事はもう難しいだろう。

「幸せ、でもっ、オレっ、足り……な、い。寂、しい」

 ずっとずっとどこか――心のどこかにぽっかりと穴が空いていた。どんなに必死に埋めようとしても埋まらなくて、必死に穴を隠そうとした。
 理由は分かっていたけれど、違う違うと頭を振り続けた。諦めた筈なのに、本当は全然諦めきれていなかった。
 赤司っちに招集をかけられて穴は深く、大きく広がった。
 だって、目の前に居るんだもん。
 そして今は、こうして手の届くところに居る。

「オレっ、ずっとずっと、……ヒムロさんが紫原っちに会うよりもずっと前から、紫原っちが……好き」

 最後の告白は消え入りそうな声で、ちゃんと届いたから分からない。それでも良かった。自己満足だけど、本人を前に言えて良かった。きっともう穴の修復作業に移れる筈だ。
 そう思っていた矢先、紫原っちは無理矢理振り向いてジャージからオレの手を解いた。そして行き場を失った手首を掴まれ非常口のランプがやけに目立つ横道へと連れて行かれる。
 段々人の声も遠ざかり、気付けば奥まで来ていたようだ。高めの位置に設置された緑色の光がオレ達を上から照らす。

「黄瀬ちんさぁ」

 その低い声に肩が跳ねた。
 それだけで分かる。オレは紫原っちを怒らせた。

「どーしてそー言うこと言っちゃうかなー? マジ意味分かんないし」
「ご……め、でも、オレっ」
「言い訳とかどーでもいーし」

 ぐっと言葉に詰まる。
 彼から発せられる声も、口調も、視線も、手首を掴む手も何もかも全てが冷たく突き刺さった。

「オレの気持ち知ってて言ってんの?」

 体が畏縮してしまい無言で小さく頷く事しか出来ない。
 瞬間、鈍い音と共に肩や背中に痛みが走った。特に痛覚を刺激したのは肩だ。いつの間にか手首は解放されていたけれど、彼の両手はオレの両肩を掴み壁に押し付けている。

「……っ!」
「マジムカつく。何なわけ? オレはずっと我慢して来たのがバカみたいじゃん。こんなんなるならさっさと無理矢理にでもすれば良かった」
「な、に……」
「ってか黄瀬ちん浮気過ぎだし」
「は?」

 さっきからズキンズキンと痛む。けれども患部がどこか特定が出来なかった。
 肩も痛い背中も痛い手首も痛い。けれども一番痛いところはもっともっと深い所だ。
 そんな中、紫原っちが何とも聞き捨てならないことを言った。意味が分からない。だってオレは中学の頃からずっと……ずっと――。

「峰ちんがダメだったから、峰ちんに似てる割れ眉毛に変えたの?」
「え、何……どういう」
「見ず知らずの奴に盗られるくらいならあの時奪ってれば良かったし……ってか別に今でもいっか。でも今の黄瀬ちんムカつくし」
「意味が分かんな……」

 いよいよ分からなくなった。
 昔から少し掴めない所は感じていたが、こうも話が噛み合わない事など無かったのだから。

「とぼけんの? さっきの試合でもアイツに声掛けてさ、奮起させちゃって。彼氏が負ける所は見たくないって?」
「ちょっ、ちょ、ちょっと待って! 彼氏? 誰が?」
「はぁ? さっきの割れ眉毛に決まってんじゃん」

 割れ眉毛。そう言われて浮かぶのは只一人。火神っちしか居ない。
 しかし何故。

「試合中に声掛けるし、馴れ馴れしく火神っちとか呼ぶし、オレには適当によろしくっスとか言った癖に」
「いやだって火神っちは春に練習試合した時オレを初めて負かした相手なんスよ! その時に色々と気付かされたし! ホントそんだけで、って言うかその時の火神っちが本当の火神っちな気がして、だから……全力出せるくせに紫原っちを相手にそれを出してないのがムカついて声掛けただけっスよ! っつーかそれを言うなら紫原っちだって……ッ」
「俺が何したの?」
「紫原っちだってヒムロさんとすっげー仲良さそうじゃないスか! 紫原っちだってヒムロさんを室ちんって呼んでるじゃないスか! 紫原っちだってオレが声掛けた時よかヒムロさんと一緒にいたり喋ったりしてる方が楽しそうじゃないっスか! オレの方がヒムロさんよか紫原っちと先に出会ったのに! オレの方が紫原っちのこと大好きなのに! ずっとずっと、三年経った今もずっと紫原っちに片想いしてるのに!」

 気付けば言いたいこと、溜まってた事を全部吐き出していた。こんな惨めになるつもりなど毛頭無かったのに。
 だけど止まらなかった。
 三年間の想いと最近抱き始めた想いを晒してしまうと、それにつられるようにしてオレの頬を大粒の涙が滑り落ちて行く。止め処ない、ってこういうのを指すのかとどこかでぼんやりと考えていた気もするけれど大半は頭に血が上っていた。
 言い終わった所で後悔しても後の祭だ。

「……っも、離して。オレ、次だから」

 居たたまれなくなってオレは紫原っちから目を背けた。
 言うつもりなど無かった。こんな、何も残らない気持ちになると知っていたなら尚更だ。

「黄瀬ちん」
「……」
「黄瀬ちん」
「……」
「オレ、今後悔してる」
「……」
「そんで、オレ、今超幸せ」

 最後の言葉は耳元で聞こえた。その原因を知るのに随分と時間を要した気がする。
 掴まれていた肩はいつの間に引き寄せられていたのだろう。
 掴んでいた手はいつの間に背中に回っていたのだろう。
 きつく。強く。

「ずっと片想いだった筈なのに、本当はずっと両想いだったんだねー」
「……へ?」
「オレ、ずっと黄瀬ちんが好き。でも黄瀬ちんは峰ちんしかみてなくて峰ちんが黄瀬ちんのトクベツなんだって思ってた」

 確かに青峰っちはオレにとって特別だ。バスケを始める切欠をくれた人であり、オレの憧れだった人だから。
 でも、ずっとバスケ以外の特別は後にも先にも紫原っちだけだった。

「随分、遠回りしちゃったねー」
「紫原っち」
「んー?」

 体温が上昇していく。紫原っちがぎゅっと抱き締めてくれることで熱が余計に籠もってしまう。それなのに不快感が無いのは、矢張りオレも今、超幸せだからだ。

「好き、です」

 もぞもぞと身じろいで何とか顔を上げる。先程とは違って暖かい眼差しを此方に向ける瞳と視線が絡んだ。
 そして言った。改めて、好きだと。
 すると途端にその目は細められ、一層優しさを含む。

「オレも好き。黄瀬ちんが、大好き」

 再び背中が壁についた時は、全く痛みなど無かった。
 上から降ってくる口付けに酔い痴れていたからだけじゃないのはもう分かっている。
 修復作業は完了した。



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