黄黄
季節は八月に入ったばかり。高校生のバスケットマンにとっては、インターハイの決勝が終わった頃と言う感覚だ。そんな折、黄瀬は海常バスケ部が先程まで使用していた体育館で一人、自主練習を行っていた。
綺麗な弧を描いてリングを潜るボールが床の上を跳ねるより先に、黄瀬の背後からキュッとバッシュの底と床が擦れる音がする。それは同時に来訪者を知らせる音でもあった。
「お帰りなさいっ! 早かったっスね、セ、ン……え?」
犬であったならばピンと耳を立ててブンブン尻尾を左右に振っていただろう。しかし残念ながら彼は人間である。
その代わりと言っては何だがぱぁっと花が咲き誇る笑顔で勢い良く振り向けば、髪の毛を濡らしていた汗の粒が幾つか散った。
「あのー、スンマセン。ここ、どこっスか? っかしーなぁ。水道で顔洗って体育館に戻って来たらみんなが居ないし代わりに知らない人が居るし、って言うかこの体育館さっきまで居た所と違うし、え? ここもしかして第三っスか? ここ三軍用? オレ迷った?」
「えーっと……取り敢えず、キミ、オレっスよ……ね?」
「は? アンタ何言って……あれぇ?」
来訪者は上下左右にキョロキョロと辺りを見回していた。だから録に黄瀬を見ていなかったのだろう。漸く視線が合ったと思えば黄瀬と全く同じ表情で相手も固まった。
どちらともなく距離を詰める。一メートルも無いくらいの所で漸く止まった。
まるで鏡のようだと言ったのはどちらの黄瀬だっただろうか。
「え、アンタ誰っスか?」
「オレはアンタの事見たことあるって言うか知ってるんで、オレの方が年上っスよ」
「オレは知らない。って言うか、え? もしかして生き別れのオニーサンっスか!?」
ぱぁっと、先程黄瀬が見せた笑顔と全く同じ期待に満ちた表情を浮かべるもう一人の黄瀬に苦笑した。
「残念ながら違うっス。オレは、黄瀬涼太」
「同姓同名っスか?」
「オレだって信じられないんスけど、多分、アンタが此処ではイレギュラーっスよ」
「どう言う意味っスか?」
「アンタはオレにとっては過去のオレ。オレはアンタにとって未来のアンタって事っスよ」
本当に不思議だと思う。夏が見せる幻なのだろうか。ミラージュとはこうも目の前で突発的に起こるものなのか。
身長も低い。更にバッシュを履いている所を見ると、パチパチと長い睫毛を揺らしながら瞬きをする彼は、中学時代の自分であると推測できた。
「じゃあアンタは未来のオレっスか?」
「そー言うことっスね」
「信じらんねー。いやでも思ったんスよ。オレと同じくらいのイケメンはそうそう居ないよなーって」
ニコッと笑う黄瀬を見ても軽い調子でそっスね、としか返せなかった。ここに笠松センパイが居たら問答無用でシバかれてただろうな、とその様子が脳裏を過ぎる事など容易い。
この中学時代の自分は海常バスケ部を受け入れるのだろうか。そんな一抹の不安さえ感じた。
「ねっね! 他の人たちは?」
「今日はもう部活終了っス」
「えーっ! あ、そう言えばさっき振り返った時、オレを誰だと思ったんスか?」
「え?」
「言ってたじゃないスか。『お帰りなさい』って。ねっね! 誰っ? 青峰っち? 黒子っち?」
黄瀬はこの無邪気さで確信した。目の前の自分は、まだバスケを始めたばかりの一番楽しい時期を謳歌しているのだと。
まだ、彼はこれから沢山の事を経験し歪んでしまうのだと。
「教えなーい」
「えーっ、何でっスかぁ! 未来のオレはケチっスね! サービス精神とか皆無じゃないスか! あ、もしかしてバスケ一本にしてモデル辞めた?」
「モデルは続けてるっスよ」
眼下で騒ぐ中学生にはまだ教えられない。自分が待っていたのは濃紺の憧れでも、薄黒い尊敬でもない。ましてや真紅の勝利でも紫紺の才能でも深緑の努力でもないのだから。
彼が脳内に描く人物は誰一人として当てはまらないと共に、ここには存在し得ない。
「ねぇ」
「何スか?」
「バスケ、楽しいっスか?」
黄瀬の質問に暫しキョトンとしていたが、直ぐに人懐っこい笑顔の花を咲かせた。
「めちゃくちゃ楽しいっス! 青峰っちにまだ勝てないのは悔しいけどでもすっげー楽しくて、嬉しくて、ドキドキするんスよ! こんなの初めてっス!」
やや興奮気味に話す彼は自分では気付いていないのかも知れない。頬をほんのりと色づかせていることに。
それを見て黄瀬は、ああ、そう言えばそんな感情もあったかなと遠い遠い過去のように思った。
本当は火種は残り、煙だけを上げている。しかしその意味に気付いたのは卒業してからだ。発火する前に進学し、そこで新しい火種が作られた。それは瞬く間に猛火となり日毎に身を焦がす。
けれども無邪気に笑う自分は知らない。まだ、知らなくていい。
「ワン・オン・ワンしないっスか?」
沈みかけた気持ちを一気に持ち上げる。
別に感傷に浸る事など無いのだ。今の黄瀬には彼がいる。燻る期間を与えず瞬時に発火させた原因が。
「やるっス!」
今の黄瀬ならば急いでボールを取りに走っていった過去の自分を満足させられる。確実に強くなっているのは勿論だが、それより何より、未熟な彼が憧れている人を再現出来るからだ。きっと、酷く驚くに違いない。
けれども黄瀬はやらなかった。やりたくなかった。
やってしまえば、きっと彼は傷付くと知っていたからだ。憧れを喪うのはまだ早い。
キュッキュッとスキール音を二人分響かせながらゴール前での攻防が行われていた。
「あっ!」
「そんなんじゃ青峰っちは抜けないっスよ!」
二年間で培った技術を以てすればあっと言う間に抜ける。過去の自分をその場に置き去りにして、黄瀬はその先へと進む。
「もっかい! もっかいっス!」
「じゃあ、次はそっちが先攻で」
再戦を強請る相手が違うだろう。
そんな言葉が思わず喉を上がってきたがすんでのところで飲み込む。それは、過去の自分に対しての言葉なのか。それとも――
「うあっ! スマッセン! 取ってくるっス」
黄瀬の手から投げられたボールはキャッチされるはずの手に弾かれ、開けっ放しの扉から外界へと出て行ってしまった。
わたわたと追い掛ける様を見て、あの人もこんな気持ちだったのだろうかとつい考えてしまった。もう、憧れではなくなってしまったけれど。
とは言えこうして滅多に見られない自分の後ろ姿を見ると色々と気付かされる。
暫くは段を入れてカットするのは止めようかなとか、もうちょっと肩幅が欲しいなとか、何となく犬扱いされるのが分かったような気さえする。
「みんながオレのことウザイって言ってたの、冗談じゃなかったんスねー……」
今でも言われるからきっとそれに関しては成長していないのだろう。
「それにしても遅くね?」
「悪かったな」
ボールを追い掛けて行った自分の帰りを待っていたら、扉の向こうから現れたのはずっとずっと帰りを待っていた人だった。
「か、笠松センパイっ! お、おかっ、お帰りなさいっス!」
「おー。レジが混んでてな。序でにお前の分も買ってきた」
「えええっ!? うわ、スマッセン!」
「っつーわけで休憩しようぜ」
そう言いながらコンビニの袋を提げる左手とは逆の右手からポンと何かを放られた。すっぽりと黄瀬の両手に収まるそれは、先程取りに行った筈のバスケットボールだった。
「え、笠松センパイ、ここに来る途中誰かに会いました?」
「は? 会ってねーよ。誰か来てたのか?」
「あ、いえ。でも何でセンパイが……?」
「お前な。ボール外に出したんなら拾えよこのバカ! 紛失したらテメェの自腹で新しいの買わせるからなっ!」
「イテッ、イッテ、スンマッセン!」
容赦なく右足で蹴られる背中は、ついさっき見た背中ではきっと受け止められないだろう。まだ、楽しさしか知らない彼では、笠松の蹴りはただの痛みでしかない。
「センパイ」
「あ?」
「休憩終わったら、ワン・オン・ワンして、その後デートしないっスか? 折角午後練無いんスから」
「……ばーか」
きっと今頃昔の自分はペナルティーを課せられたに違いない。
全中を目の前に控えているのにサボるとは良い度胸だ、と。
随分と余裕ですね、と。
だからお前はダメなのだよ、と。
今日のは辛いかもよー、と。
そんなんじゃいつまで経ってもオレとは張り合えねーな、と。
だから必死に言い訳をしているに違いない。さっきまで起こった出来事を。だけどきっと誰も信じてくれない筈だ。
だってオレは彼のチームメイトに関して一切何の情報も与えていないのだから。
「あ、そうそう聞いてよセンパイ。オレね、さっきね――」
オレの隣りに居てくれる人は、信じてくれるだろうか。
オレの話を。
オレを。