紫黄
――昼休み。いつの間にかみんなが集まるようになっていた屋上に今日も変わりなく足を踏み入れる。少し、いつもと違っていたのは、黄瀬ちんが居ない事だった。
「今日の紫原は随分と機嫌悪ぃじゃねぇか」
「荒々しいのだよ。あんなにお菓子を馬鹿食いするのは珍しいのだよ」
「二人とも気付かないんですか?」
黒子の視線は呆れたと言わんばかりに冷めている。それでも尚も首を傾げる二人にあからさまな溜め息を吐いた。それに青峰と緑間が苛々を感じた時だ。
鉄の扉が開く音と赤司の「来たぞ」と言う声が重なった。昼休みも残り一五分を切った所だ。
「ああ、黄瀬か」
「そう言えばやけに静かだったのだよ」
合点がいった二人の視線は今し方姿を現した女子生徒に向けられていた。
しかしその女子生徒は普段ならば太陽を飼っているような笑顔で始終楽しそうにする。けれども今は分厚い雲に覆い隠されているかのように俯き、その顔容には明るい髪の毛にも不釣り合いな程の暗い影を落としていた。
「黄瀬ちん? どうしたの?」
そしてここにもいつもと違う行動をする一人が居た。紫原は膝上に乗せていた大量のお菓子が落ちる事すら目もくれず、扉を後ろ手に閉めたまま直立不動を決め込む黄瀬の傍へと駆け寄った。
「黄瀬ちん?」
「むらさ、きっ……ちぃ」
ぎゅうっ、と鳩尾辺りに額を押し付けしっかりと腰に回された腕に狼狽する。縋るように背中のシャツを掴む黄瀬の指は細く、陽の光に晒されて透明感を増す白い肌は彼女の努力の賜物だった。
「黄瀬ちん? 黄瀬ちん、大丈夫?」
ここまで乱れ、狼狽える紫原も珍しいと少し離れた場所で四人は傍観していた。その理由を知る者は内二名である。
「っ、涼……は、涼の、言葉はぁ……っく、しんッ信じてっ、もらえ……ないっス……」
嗚咽混じりに懸命に紡がれる言葉に一同は首を傾げた。
そこでふと、赤司が何かに思い至った顔をする。
「今日は身形検査の再検査の日だな。女子の」
取り敢えず紫原は黄瀬を宥めながら先居た場所へと戻り、腰を下ろした。その間も、彼の表情から狼狽と困惑の色が消えることは無い。
「涼、化粧、して、ないっス。睫毛エクステも、ビューラーも、してないっス。でも、クレンジングで、洗えって……」
「洗ったんですか?」
こくん。無言で頷く。
体育座りで紫原の隣に腰を下ろしていた黄瀬は、そのまま膝を抱えて顔を伏せてしまった。
「でも、まだ落ちない……て、言わ、れたっス」
「素顔で落ちるも何も無いのだよ」
「そしたら、今度、シートでも拭かれたっス」
「シート?」
「化粧を落とす為のシートだよ。手頃で簡単さが売りだけどクレンジング程落ちないから頼り過ぎは良くない」
何故知っているのだよとジト目で見られた赤司は全く意に介していない。寧ろ構わず続けてと先を促していた。
「後、スカート、短いって。丈を切って改造してるって」
《スカート》と言われて五人の視線は自ずと黄瀬の下半身へと向けられる。
しかし現在膝を抱えて座っているために、目に入るのはすらりと伸びたしなやかな白皙の四肢だ。更に普段はあまり拝むことの出来ない内腿や裏腿が惜しげ無く晒されていた。露出感を出さない為にもオーバーニーソを着用しているがしかし今はただの美白の腿を際立たせる為の演出にすら思える。
特に丁度真向かいに座る青峰からは絶景である。
「涼は、……っデカい、から」
弱々しくなった声音に一同苦悶の表情を浮かべる。如何せん黄瀬は一七七センチの長身がコンプレックスなのだ。
学業の傍らモデルをしていることもあってかプロポーションは同世代のそれと比べても抜群に抜きん出ている。しかしその一方で平均よりも二〇センチ程高い彼女は散々心無い言葉を投げられたりと嫌な思いをしてきたようだった。
そんな彼女だからこそ、何もしなくても膝上になってしまうのだ。元々帝光中のスカート丈は膝上にくるようになっているのだが。
しかし自身のウエストが締まっている為、スカートの丈はLでもウエストサイズが合わない。かと言ってベルトで固定や折り曲げたりすればプリーツが歪な形になってしまう。ウエスト的にはSサイズで充分だが丈が短い。故にMを着用し、極力腰履きをしていた。しかしそれでも目を付けられたのだ。
「も……いやっス……。涼、小さくなりたい……っス。普通の、女の子が、いいっス」
黒子や赤司にとっては羨ましい身長だ。また、青峰、緑間、紫原に至っては彼女の身長はさして問題ではない。どちらかと言えば《丁度良い》のだ。
それを、彼は彼女に伝えようとしていた。普段の黄瀬からは考えられない程弱っている姿に動揺し狼狽えるクラスメート、紫原は伝えようとしたのだ。
「黄瀬ちん」
「……ぐすっ、なん……スか」
チラリと顔を左に向けて紫原を見る。
「黄瀬ちんは、女の子だし! ちゃんと女の子だしっ」
しっかりと顔を上げて黄瀬は涙を瞳に湛えたまま彼を見た。
何となく。只、何となくだが黒子と赤司は紫原が言わんとしている言葉の一部が欠けた状態で紡がれるだろうと思っていた。
「さっきも抱き付いて来た時とか丁度良かったしっ! 黄瀬ちんは、黄瀬ちんはっ」
その一生懸命さが微笑ましい。彼の気持ちを知る者として、黒子も赤司も無表情を貫いてはいるが内心穏やかではない。
行け。もう一押しだ。頑張れ。そんな気持ちが占めていた。
何も気付いていない二つの巨体は《あの》紫原が酷く一生懸命になっている姿が物珍しく、興味を惹かれているらしい。
「黄瀬ちんは、俺の奥さんにピッタリだよね!」
ぶはっ。予想だにしていなかったのか赤司が吹き出した。
黒子は「随分と段階を飛び越えましたね」と冷静さを装ってはいるものの内心は赤司の反応と同じだ。
緑間に至っては、紫原の気持ちにも気付いていない程だったので今現在目の前で起こっていることの把握に苦労している。
青峰は漸く紫原が抱く恋慕に気が付いたらしいく、「へー、あの紫原が。あーだから今日おかしかったのか」と呑気に昼休み中の彼を思い返していた。
恐らく、今一番冷静さを保っているのは青峰だけだろう。
「お、く……さん」
だから、気付いたのも一部始終見ていたのも青峰だけだった。
黄瀬の美顔が徐々に朱に染まり、小さく呟き、直ぐに顔を伏せてしまったけれどその直前にほんの一瞬、嬉しそうにはにかんだのを、脚の隙間から覗く紫色のパンツと共にその双眸にしかと焼き付けたのは、唯一絶景を楽しめる場所に居た青峰だけである。
現在鳴っているチャイムは、終了を知らせるものだったか開始を知らせるものだったか。どちらにせよ真面目でない青峰には関係の無い音なのかもしれない。