笠黄


 期末テストも終わり、後は終業式を待つのみとなった海常高校は本日は午前中のみの授業であった。理由はただ一つ。午後を使って夏休み前に、全校生徒で校内清掃と言う名の大掃除をする為だ。
 本来、クラス単位で行われる筈だが今回は違っていた。
 部室も掃除区域に含まれている為、教室や下駄箱、共有スペースは各クラスの帰宅部と部のマネージャーが務めることになっている。
 そして今、バスケ部も例外なく掃除をしている真っ最中だ。

「笠松センパーイ、部室掃除終わったっス!」
「嘘だろ!? まだ一時間ちょっとしか経ってねーのに」
「帝光のと比べたらかなり遣り易かったっスわ〜」

 ニコッと形の良い唇が弧を描く。体育館を掃除している笠松はモップを握ったまま言った。
 笠松が振り当てたのは、三年が玄関やギャラリー、トイレを含む体育館、二年は倉庫、一年は玄関ポーチや草むしり等体育館周辺の外だ。当時、部室は後に回す予定だったのだが、黄瀬が自ら立候補したのである。それも瞳を輝かせて。
 部室は勿論、選手控え室もそこには含まれている。それを告げても「知ってるっス!」だった。仕方無く黄瀬に一任したは良いのだが、思っていた以上に早い。昨年はもう少し掛かった気がする。

「お前本当に掃除したんだろうな?」
「疑うんなら見に行って欲しいっス!」

 疑惑の目で見られた事が不服だったのか、黄瀬は唇を尖らせて拗ねるように言った。図体だけはデカいがその姿は幼子である。《見た目は大人、中身は子供》と言うどこかの漫画から借りてきたような言葉が笠松の中に浮かんだが、口に出すことは無かった。

「次はどうしたらイイっスか?」
「あーじゃあ外手伝え」
「了解っス! ならジャージに着替えないと……」
「あ? 別にそのままでいいじゃねーか」

 部室に戻ろうとする黄瀬を引き止める。再び笠松と目が合うと、それが細められた。しかし表情は苦笑に近い。

「俺、直ぐ赤くなっちゃうんスよ。それに日焼けしたら怒られちゃうし……」
「モデルも面倒くせーな」
「まあ今は休止に近いんである程度なら大丈夫なんスけど……万が一って事もあるんで」

 誠凛との練習試合以降、黄瀬の笑顔の種類が増えたように思える。それこそ根付いてしまった笑顔――所謂営業スマイルが多かった。寧ろ殆どがそれだ。
 けれども最近はこうやって困ったように笑ったり楽しそうに笑ったり嬉しそうに笑ったりと様々な表情を見せるようになった。それからは部の雰囲気も良い方向に変わっていったと笠松は感じている。

「あーじゃあ、お前ココか倉庫を――」
「あれ、黄瀬戻ってきたの? ちょ、こっち来いよ! 珍しいもん見つけた!」

 笠松の声を遮るように言葉が被さる。声がした方を見れば直接外へと繋がる裏口から一年が顔を覗かせ、手で招いている。
 珍しい、と言われて気にならない程黄瀬もドライではない。
 誘われるままに扉まで近付けば、手招きしている手と反対側の手に何かが握られていた。そこに《珍しいもの》が入っているのだろうと安易に想像できる。

「見ろっ」
「なんス……ッ!」

 突き出された腕に黄瀬の視線は釘付けになる。そして、ゆっくりと開かれた手の平に言葉を失った。

「ここら辺じゃ珍しいだろ? ミ」
「ぎゃあああああああああっ!」
「え?」

 館内に響き渡る黄瀬の叫声に一同は何事かと思わず作業を中断する。そんな黄瀬は一目散に笠松の元へと駆け――ダッシュや試合でも見たことがない程の速さだ――その胸へとダイブした。
 しかしただでさえ自分よりも大きい上に速度という勢いがついているのだ。受け止められる筈もなく、そのまま押し倒されてしまった。

「イッテ! おいコラ黄瀬っ! 危ねぇだ……ろ……」

 怒鳴って引き剥がそうとしたがしかしそれは未遂に終わる。
 巨体を小さくして自分の胸にしがみつきながら顔を埋める姿が視界に入ったのだ。しかも震えている。これでは流石に怒鳴れない。

「黄瀬、どうした?」

 落ち着かせるように頭を撫でてやる。けれどもシャツを握る手に力が入るだけで一向に和らぐ兆しは無い。
 全く以て不可解である。
 嗚咽が漏れ聞こえていると言うことは確実に泣いている。

「黄瀬?」

 頭を撫でながら優しく問い掛けた。

「うっ……お、れ……無理ぃ……」
「はぁ? 何が」
「む、り……ヤダッ……や、だぁ……」
「どうした?」

 足の間で更に体が縮こまる。
 一体一年の手の平に何を見たと言うのか。何かグロテスクな幼虫でも見たのだろうかと思考を張り巡らす。
 しかし、考えた所で分かるわけもなく、動けない笠松は声を少し張り上げた。

「お前、黄瀬に何見せたんだよ!」
「え、何ってミ」
「わあああああああっ!」

 答えは黄瀬の声に掻き消された。早川以上にウルサい。

「お前少し黙ってろ」
「んっ!」

 顔を上げないよう頭を自分の胸に押し付ける。幾分か苦しそうだが仕方がない。

「で? 何だって?」
「あ、はい。ミミズです!」
「は?」
「ミミズ!」
「ミミズ?」
「ミミズです!」

 その名詞を出す度に、黄瀬がビクッと震えて反応する。嗜虐心が擽られないこともないが流石にこれ以上は可哀想だ。
 黄瀬を見れば震えが治まる所か酷くなったように思える。

「え、何、お前……ダメなの?」

 口答では無かったが僅かに頷く。《何が》と敢えて言わなかったのはせめてもの配慮だ。

「何で?」

 別に噛まねーじゃん。
 そう付け足せば、「そう言う問題じゃない」と瞳で訴えられた。

「だ、……て、きもっ、きもち……わる……」

 長い睫毛を濡らし、伏し目がちな瞳は涙で潤い、いつもより小さく見える体にしがみつく白い腕。頬は紅潮し、か細い声に震える体も相俟って淑やかに見える後輩。さらさらとした手触りの良い髪が涙で顔に貼り付き色気が増す。
 その場にいる全員が息を飲むのが聞こえた。
 そして笠松自身も危険を察知する。これ以上はヤバい、と。

「……せん、ぱい」
「……あ? な、何だ?」

 見とれていたからかつい反応がワンテンポ遅れてしまった。

「暫く、一緒に登下校しちゃダメっスか?」

 その状態で上目遣いとは狙っているとしか思えない。しかし今の黄瀬の状態を考えてもまず有り得ないだろう。
 無自覚無意識と言うのがこんなにも厄介だとは思いもしない。

「し、しょうがねーな……」
「センパイ大好きっス!」
「あっ、あんまり引っ付くな!」

 目尻に涙の粒を残したままぎゅうっと抱き付く後輩を必死に剥がそうとするも簡単には行かない。
 この後、部室に立ち寄った森山に「部室が見違える程キレイになってるんだけど」と言われた時は頭の中で「こいつは嫁として最高だな」と無意識に考えていた。



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