火黄


 ザァザァとバケツと言わず浴槽をひっくり返したような雨が容赦なく打ち付ける。傘を差しても差さなくても正直変わらない。顔が濡れるか否かの違いだ。
 だから俺は傘を閉じた。

「何してんだよ」
「あ、火神っち」

 公園の中。ブランコの周りを囲っている少し背の低い柵に腰掛けてたら不意に声を掛けられた。
 視線の先には先っぽが雨を弾いている靴とびしょ濡れと直ぐにわかる黒い裾が見える。
 声である程度人物を特定出来たけれど、雨足が強くて正直煩い。だから、もしかしたら違うかも知れないと言う気にさせるのだ。
 つまりそれ故に俺は下に向けていた顔を上げた。

「風邪引くぞ」
「かもしれないっスね」
「バカか」

 あからさまに呆れの色を帯びた溜め息を吐く。何となく、そう返ってくるんじゃないかなと思っていた。

「何で此処に?」
「今日は実家なんス」
「ふーん」
「まあ、これだけ濡れてたら先ずすんなり入れて貰えないんスけどね」

 経験上恐らく玄関で下着姿に剥かれるだろうと話せば向こうは苦笑した。

「お前、傘は?」
「駅で置いてきたっス」
「はぁ? こんなに土砂降りなのにか?」

 その顔は意味が分からないとでも言いたそうだ。しかし事実である。
 黄瀬が乗った電車は帰宅ラッシュも相俟って非常に混んでいた。雨風凌げる筈の場所でも衣類は新たなシミを作っていく。運の悪いことに、黄瀬の前に立つサラリーマンが傘を畳まずに乗り込んでいたのだ。お陰でまだ濡れていない箇所が一つ減った。
 そんな時、黄瀬の左隣に居た親子から「あっ」と言う声が聞こえてきた。その声が余りにも幼いものだから直ぐに子どもの方だと気付く。

「おかーさん、かさ」
「え?」
「あっちにいっちゃった」

 あっち、と言って指を差したのは今まさに閉まらんとしている乗降口。それを見て、ああ、人の流れに持って行かれたんだなと想像する。
 どんな傘かは知らないが、お気に入りだったら可哀想だ。

「もう、ちゃんと持っておかないからでしょ? だからカッパさんにしなさいって言ったじゃない」
「だってカッパさんはずかしいもん! りんちゃんはおねーさんだからもうカッパさんはきないもん!」

 カッパさん。所謂レインコートの事だろうとその会話を何となく聞きながら頭の隅で考える。小学校中学年くらいだろうか。少し背伸びをしたいお年頃なのだろう。
 そう言えばあまり大人で着てる人はいないなぁ、なんて。でも時折自転車や原付に乗っている人は着ているなぁとも思う。
 かく言う俺もいつからか着なくなった。あれはいつだったか。
 そんな事を考えていたら降りる駅に着く。偶然、その親子も同じ駅で降りるらしい。
 何となく後ろを歩いて改札を抜ける。外は街中の喧騒よりも雨音が勝っていた。

「もう、そこのコンビニでビニール傘でも買うしか」
「えーっ! やだぁ」
「仕方ないでしょ?」
「だってカワイくないもん!」
「じゃあびしょ濡れになる?」
「やだぁ!」

 段々母親がイラついているのが分かる。女の子も泣きそうだ。何と散々な親子なのだろうと他人事のように思っていた俺は、自然と声を掛けていた。

「あの、もし良かったらこの傘使ってください。俺、迎えが来てくれるので」

 何で声を掛けたのかは分からない。でも、どうせ濡れるんだからと思ったらどうでもよかった。親切心は無かったと思う。
 そうして親子の姿が見えなくなってから俺は駅を後にした。

「お前それ」
「だから言ったっしょ? 駅で、って」

 助詞の違いが帰国子女には分かんなかったっスかね〜、なんてちょっとおどけてみたら火神は案の定眉間に皺を寄せる。本当に分かり易い。

「火神っちは何でここに?」
「帰り道だよ。公園の前通ったら何か見知ったヒヨコ頭が見えたから気になっただけだ」
「ちょっ! ヒヨコって失礼っスね!」
「そーだな。ヒヨコに失礼だな」

 わざわざ助詞を強調して言う火神は良く分からないけど《火神っちらしいな》と思った。だから笑った。
 そしたらいつの間にか火神が至近距離に居て、俺の頭上に庇が出来る。俺が女の子にあげたビニール傘とは違う、ワンコインで買えるノーブランドの無色透明。

「風邪引くぞ」
「そっスね」

 身長は変わらない。だけど今は俺が座っているから見上げる事になる。
 透明の膜が雨を遮る。
 真っ黒な背景に真っ黒な衣服に身を包んだ真っ赤な人。何でだろう。目が惹き付けられる。

「だから、家に来い」

 もしかしたら俺の方が分かり易いのだろうか。
 無理矢理立たされる要因となった俺の右腕を掴む火神の左腕。俺のそれよりもしっかりとした、それ。
 元々至近距離に居たからか立ち上がった時にはもう捕まっていた。冷えた唇から伝わる温もりが心地良くて、直ぐに力が抜ける。
 きっと、お見通しなんだ。俺が降りた駅は本来俺が降りるべき駅では無いと言う事も、元々開く予定も無かった傘の事も、俺がここで火神を待っていた事も。きっと、全部。この透明のビニール傘のように火神には透けていたんだろう。

「火神っち」
「ん?」
「お帰りなさい」
「ただいま」
「待ってた」
「知ってる」

 俺は何度アンタの優しさに顔を濡らすのだろう。
 閉じていても開いていても濡れるのならば、閉じていよう。閉じて、この与えられる温もりだけを今は感じていたい。



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