青黄


 一度だけ。たった一度だけ、馬鹿をやった。
 もう随分と昔のことだけど。

「ん……ッ、は、ぁ」
「黄瀬……」
「も、イ……から、は、やくっ」

 四つん這いになり頭を低く尻を高く上げて強請る。何度も体を重ねて来たけれどその殆どが後ろからだ。そしてもう一つ、俺が絶対に譲らない事がある。
 例えそれが大好きな人から指摘されても頑なに拒み続けた。勿論、日常生活に置いても誰にも気付かれないように細心の注意を払っている。
 部活や体育での着替えの時は当然ながら、こうして体を重ねる時は必ずYシャツを一枚着る。下から数えて三つ目と四つ目の釦以外は開けて。
 なのに。それなのに。

「――青峰っちのばかッ! なんでっ、なんでっスか! 嫌だって言った……嫌だ、って……」

 ボロボロと落ちる涙の粒は止まることを知らない。止めようと今の俺は思う余裕が無かった。
 涙の理由は何だ。見られた事への羞恥、過去の自分への後悔、警戒を怠った自分への自責、暗黙の了解だと思っていたのに裏切られた事への絶望、知られた事への恐怖。
 それらを全てぶつけるように俺は青峰を責め立てた。お門違いも甚だしい。単なる八つ当たりなのも承知している。けれどもそうせずにはいられなかった。
 ベッドの上で喚く俺の口は乱暴に塞がれた。声も言葉も勢いも息も何もかも青峰の口に吸い込まれる。

「んッ、は……ぁっ」
「そんなに嫌かよ。傷痕を見られんの」
「……っ!」

 そう、俺には腹部に大きな傷痕がある。
 初めこそ外科で手術したから傷口が盛り上がって見るに耐えない状態だったが、モデルとして波に乗り始めてからは形成外科で目立たなくしてもらった。
 水着の撮影時だけはどうしても露出しなければならないのでメイクとCG修正でなくして貰っていた。だから止むを得ない場合のみ傷の存在を教えていたのだ。
 けれども今回は止むを得ない場合でも事故でもない。青峰が意図的に見たのだ。
 情事後、途切れていた意識が浮上すると先に目を覚ましていた青峰が俺の体に好き勝手に舌を這わせていた。それも、閉じていた筈の釦を開けて。

「嫌だから見せないようにしてたんっスよ! なのにっ」
「傷が何だっつーんだよ」
「だって……だって!」

 俺は女の子じゃないからせめて肌だけは青峰が夢中になるくらいにしようと思った。だからその為の努力は怠らなかったし現在進行形で続けている。しかし綺麗に磨けば磨く程、醜い傷痕が目立っていく。整形なんて人工的な施しはしたくなくて、結果として見せないように隠した。
 そう胸の内を打ち明ければ唇が塞がれる。今度は、凄く優しかった。

「バカなことしたな」
「ホント、馬鹿っスね」

 過去の自分が瞳に映る。
 まだ体も発展途上で心も幼かった頃。見たものをそのまま出来てしまう自分が厭で嫌いで怖かった頃。
 本当の自分が分からなくなってそもそも俺はちゃんと俺なのかも分からなくて、唯一思い付いた確かめられる方法が《痛み》を感じる事だった。痛覚は自分だけのものでオリジナルだから。
 だから、刺した。
 だけどその時は痛みがなくてやっぱり俺自身何かのコピーなのかなと思った。感じられたのは手の平いっぱいに染まった赤と傷口からじわりと広がる熱、全身から力が抜けていくような不思議な感覚だけだったのだ。
 今思えば、本当に馬鹿な事をしたと思う。

「そんなこと言ってんじゃねーよ、俺は」
「は?」
「傷があろうが無かろうが俺には関係ねぇよ」「ふ、……ンんっ」

 貪るキスに酔いしれる。少し体が反応したのは、青峰の手が傷痕をなぞるように触れているからだ。
 縫合の痕で周りと違う色をした肌。麻酔はとうの昔に切れているのにそこから感じる感覚は酷く曖昧なもので、周りの肌とは違うのだと謳う。

「お前ごと食っちまうんだから、今更だろ」

 青峰が触れている箇所を始点に疼きが感染していく。とても不思議な感覚だ。
 そんな事を頭の隅で考えていたら、一瞬にして体中にピリッとした快感の電気が流れた。

「あ、あ……お、みねっ……」
「ココで感じてんのかよ」
「アッ、や、ぁ」

 ペロリと舐められ、熱い唇を寄せられれば吸い上げられる。ちゅ、ちゅっ、とわざとらしいリップノイズが疼きを加速化させる。

「お前の傷痕、最高じゃねーか」
「……バカ」

 今、初めてちょっとだけ好きになれた気がした。同時に、青峰がもっと好きになった。
 やっぱり今も昔も俺はばかのままみたいだ。



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