笠黄


 試合で負けたのは勿論初めてで。
 だからそれで泣いたのも、泣き顔を見られたのも勿論初めてで。
 人前で泣くのは恥ずかしいのに。
 それなのに、‘今まで負けたことが無い事がおかしい’と言って変わらない態度で接してくれたことが嬉しくて――。



「セーンーパーイーっ!」

 三年生の教室にひょこっと顔を出すと一気に室内がざわつく。そして女子の黄色い声が大きくなる。
 勿論、そうなったのは顔を出した本人――黄瀬涼太は自覚している。もう何回目になるのか分からないくらいには茶飯事と化していた。
 そんな黄瀬に甘えるような猫なで声で女子生徒が近付く。

「誰かに用事? 私が呼んでこようかぁ?」
「あ、大丈夫っス! 先輩っ! かーさーま」
「うるっせぇよ黄瀬!」
「スマッセン!」

 バシンッ、と景気の良い音を立てながら黄瀬が前のめりに倒れる。そのままの勢いで前方に倒れた黄瀬の体は膝より上部が教室の中にある。
 探していた人物の声が後ろから聞こえた事に驚きながらも蹴られた背中の痛みに意識の大半が持っていかれている。そんな背中をさすりながら立ち上がると、黄瀬の目の前には仁王立ちで不機嫌そうに見る探し人がいた。

「笠松先輩っ!」

 笠松の姿を目視するや否や瞳を輝かせ端から見ても分かるくらい嬉しそうな顔を見せる。例えるならば、ゴールデンレトリーバーがリードを持った主人を見て今から散歩に行くのだと尻尾を左右に振り大喜びを表しているそれだ。
 学生の傍らモデルをしているだけはあってその容姿はバランス良く整っている。
 何処にでもある教室の前にただ笑って立っているだけだと言うのに、‘教室の前’が只のオプションに思えてしまう。
 これがモデルというやつなのだろうか。それとも、黄瀬だからか。

「何で教室に居ないんスか?」
「さっきまで化学室に居たんだよ」
「でも他の人は教室に居るじゃないっスか」
「器具片してたんだっつーの! で、何の用だよ」

 少し拗ね気味で言葉を紡ぐ黄瀬に笠松は鬱陶しそうに答える。
 取り敢えずいつまでも廊下に出ているのも何だしと、片足で黄瀬の太股を軽く蹴りながら室内へ促す。蹴られた方は蹴られた方で「痛いっス」と小さく嘆いてはいるが何処か嬉しそうだ。
 笠松が席に着くと、黄瀬は何の抵抗も無しに彼の前の席に腰を下ろす。
 練習試合と言えども誠凛に負けた後、黄瀬は誰の目から見ても分かるくらい変わった。勿論、外見ではなく内面的な事であるが。
 練習に来る頻度も居残り練習をする時間も朝練に来る回数も、バスケと真剣に向き合う時間が増えた。
 元々人懐っこい性格なのか人当たりは良かったが、以前よりも仲間意識が高くなったように感じられる。恐らく黄瀬本人は無意識なのだろうが、少なくともレギュラーはそう感じている。

「笠松先輩に会いに来たっス!」

 ニッコリと擬音が付きそうな笑顔には営業スマイルの‘え’の字も見当たらない。懐いているからこその笑顔だ。

「だから何の用で会いに来たんだって訊いてんだよ」
「だから、笠松先輩に会いたかったから会いに来たんスよ」
「お前な、ふざけん……っ」

 椅子の背もたれと笠松の机はぴったりとくっつけている。跨るように座り机に両腕を乗せ、その上に頭を乗せている黄瀬はいつもと違い笠松よりも頭の位置が低い。
 故に、「ダメっスか?」と口を尖らせながら上目遣いに見てくる黄瀬にそれ以上文句も雑言も喉の奥て詰まってしまった。
 普段は巨体でゴールデンレトリーバーみたいな奴が、こういう時だけは子犬のような目をした柴犬に見えるのだから厄介だ。
 言葉に詰まっている間にも時間は過ぎていく。

「黄……」

 笠松が口を開いた時、校内に小休止終了を知らせるチャイムが鳴り渡る。
 ぐっと言葉を飲み込み、眉間に皺を寄せる。

「あー、もう戻らなきゃ。じゃあ、先ぱ」
「黄瀬」
「はい?」

 立ち上がろうとした黄瀬の首から垂れたネクタイを掴み引っ張る。笠松により黄瀬は満足に立ち上がることも出来ず、中途半端な中腰で動きを止めた。
 ぱちぱちと大きな瞳を瞬かせて目の前の先輩を見つめる。
 生徒が席に着き始めているのか、彼方此方で椅子を引く音がした。

「あの、先輩?」
「俺、この次の授業体育だから」
「へ? あ、……そうっスか」

 だから?と続きそうな言葉は真っ直ぐ黄瀬を見る笠松の目に思わず飲み込んだ。

「だから、屋上陣取っとけ! おらっ、さっさと教室戻れバカッ!」
「ちょっ、痛いっス! って言うか引き止めたの笠松先ぱ」
「黙って戻れダァホ! この駄犬!」
「痛っ、痛った! 理不尽っス! 部活の時より理不尽っス! ってか駄犬って何スかぁ!」

 バシッと音を鳴らしながら肩パンを繰り返す笠松に涙目で訴える。怒鳴られる理由が分からず、黄瀬は理不尽さをアピールする事しか出来ない。
 そうこうしている間にも教材片手に教師が入ってくる。

「黄瀬ー、もう休み時間はとっくの昔に終わってるぞー。クラスに戻れー」
「先生っ! 笠松先輩が俺のこと駄犬って!」
「そうかー。時間を守らんお前は駄犬だな」
「ヒドッ!」
「だが」

 教卓に教材を置き、ワイシャツの袖を捲って授業を始める体勢を整えると未だ笠松の側から動かない黄瀬に視線を向ける。わざとらしく勿体ぶるように言葉を途中で切って。

「お前は立派な忠犬だ!」
「そもそも犬じゃないっス!」

 もう、と不貞腐れ頬を膨らませながら出入り口へと向かう。
 廊下へ一歩足を踏み出した所で「あっ」と何か思い出したように立ち止まり、片手をドアに添え上体だけを捻って振り返る。

「場所取るついでにいつものやつも買っとくっス!」

 そう言って屈託のない笑顔を向ける。教室を訪ねて来た時のような眩しい笑顔だ。
 黄瀬は「失礼しましたー」と間延びした声と共に扉を閉めた。
 遠ざかる足音をBGMに笠松を除く教室内にいる全員が一斉に彼を見る。
 そして、手の平で教科書に折り目をつけながら教師が一言――。

「お前はいいブリーダーになるぞ」

 人当たりもよく人懐っこい性格で毛並みも申し分ない。自分の位置やスペックを鼻にかけるわけでもないし、良く言うことを聞くようになった。ただ、頭が悪い。
 次に躾るのはそこだろうか……と、一人苦笑しながら教科書を開いた。



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