緑黄
単刀直入に言おう。風邪引いた。
風邪、と言えるのかは正直な所あやふやだ。厳密に言うならば、熱がでた、と言うのが相応しいだろう。
けれど朝から微熱程度だった為、黄瀬は神奈川から東京の撮影スタジオへと向かった。移動中、吐き気を催して途中下車したりもしたが、時間には間に合ったのが幸いだ。
特に咳やくしゃみ等の症状は見られず、熱があることを黙っていれば周りにバレることも無い。勿論、周りを巻き込まないようマスクは着用している。
難無く撮影を終え、衣装から着替えた黄瀬は海常の制服姿だ。これからまた神奈川に戻って学校へいかねばならない。朝練に顔を出せなかった分、放課後は熱を入れて精を出すつもりだった。
しかし、それがどうだろう。
黄瀬は現在、見知らぬ部屋の見知らぬベッドの上だ。淡い緑色をしたカーテンが間仕切りとしてレールに掛かっている。丸で病院のようだ。けれど病院ではないと直感で分かった。それが正解とでも言うように、「ウェストミンスターの鐘」が鳴り響く。どうやら学校の保健室だとお蔭で知ることが出来た。
教室のある棟から離れているのか、あまりざわめきが聞こえない。もしかするとさっきのチャイムは授業開始の合図なのかもしれないなと、ぼんやりする頭で考える。
(オレ、どうしたんだっけ……?)
朝より頭痛が酷いようで身体を起こすにも緩慢な動きになってしまう。ネクタイとブレザーは外され、カーテンレールにハンガーと共に掛けてある。
神奈川に帰った記憶が無い。そもそも帰りの電車に乗った記憶も無いのだ。更に海常の保健室とは異なるカーテンの色が、黄瀬の居る場所が他校であることを物語る。
どうしよう。そう思った時だ。カーテンが揺れた。かと思えば、黄瀬の目の前に思わぬ人物が現れた。
「み、どり、まっち?」
「目が覚めたのか。まだ寝ていろ。熱が上がっている筈なのだよ」
そこに居たのは学ランを着た緑間だった。二年間、ブレザー姿を見ていたからかどことなく新鮮だ。
しかしそこで、ふと気づく。
「もしかして、此処って……」
「秀徳の保健室なのだよ」
「…………マジ?」
たっぷり間を置いた後、漸く絞り出た言葉はたったの二文字だ。間の抜けた声音であったが緑間はそれを笑うでもなく、ただ静かに首肯する。
真面目な緑間が居ると言うことは、現在は休み時間であると推測出来た。
「オレ、何で?」
混乱しているのか熱に浮かされているからか、理由ははっきりしない。それでも紡いだ言葉足らずの発言を、緑間は正確に読み取った。
「体育で外を走っている時、高尾がバス停のベンチに座るお前を見つけたのだよ」
その言葉に霞んでいた記憶が鮮明になっていく。
次の現場があるらしいマネージャーと別れて、スタジオから一人で駅に向かっていた。しかし熱が上がったのかもしれない。酷くなる頭痛に耐えられず、乗ったバスを直ぐに降りたのだ。そのままベンチに腰を下ろした所までは思い出せた。まさかそこが秀徳に近いバス停だったとは思わなかったが。
「スンマセンっス」
情け無い。その言葉が脳裏を過ぎる。
高尾が見付けてくれなければ、恐らく今以上に症状は辛かった筈だ。彼の視野視力と己の強運には感謝せざるを得ない。
緑間が黄瀬に付いている間に高尾が逆走して体育教師を呼んだらしい。流石に秀徳のような伝統も古く校則が厳しい学校は携帯電話の持ち込みを禁止している。その為、タクシーや救急車を呼ぶことは出来なかったのだろう。
そうして運ばれたのが、この保健室と言うわけだ。他校生がお世話になるなど前代未聞ではないだろうか。
「お前の学校には先生が連絡してくれた。笠松さんには高尾が連絡した。だから安心しろ」
「明日絶対どやされるっス……」
「それは知らん。体調管理不足だったお前に非がある。自業自得なのだよ」
溜息として喉を通った息はとても熱かった。矢張り体調不良であるのだ。二、三日の潜伏期間がある為、これが原因と言える物が一体何日前の事なのか見当も付かなかった。一番めぼしいのは、登下校の満員車両くらいだろう。
「あー、じゃあそろそろ帰」
「部活終了後、迎えに来てやるのだよ。それまで寝ていろ」
「え?」
「今のお前をオレが一人で帰らせるとでも思ったか、バカめ」
ゆっくりと黄瀬の上体を倒し、ベッドに寝かせる。その際、互いの顔の距離が近付いて、思わず心臓が跳ねた。顔が火照り出すのは熱故か、それとも別の理由だろうか。その真意を知るのは本人のみだ。
「お休み」
「おや、すみ……ス」
淡い色のカーテンが揺れる。一気に静寂を取り戻した室内は、見知らぬ場所と言うのも相俟って心細い。それでも、迎えに来ると言う彼の言葉を信じて、黄瀬は寝返りを打った。
その時、自分がずっと右手に握り締めていた物の存在に気付く。
「こ、れ……っ!」
秀徳の校章の入ったジャージには、胸の所に「緑間」と刺繍してある。何故。そう思ったのも束の間、鮮明になった記憶はよりクリアになっていく。
あの時、高尾が発見したバス停で緑間に支えて貰ったのだ。「先生呼んでくるわ」そう言って駆け出した高尾の背中は見る見る小さくなっていく。視線を彼から緑間に移した途端、黄瀬の目の縁から熱い雫が落ちた。
「緑間っち……みど、ま……っち」
緑間の顔を見たら安心して気が緩んでしまったのだろう。彼にしがみつき、彼の名を呼びながら黄瀬は意識を手放した。その際に、力一杯、緑間が着用していた体育用のジャージを握り締めていたのだ。黄瀬が放さないものだから、緑間の事だ、くれてやったのだろう。
ほんのり香る緑間の匂いに、黄瀬は瞼を下ろした。