灰黄


 あれは小学校三年生の時だ。灰崎祥吾が黄瀬涼太を知ったのは偶然だった。クラスの女子が子ども向けのトレンドを特集した雑誌を教室に持ち込んだ。休み時間に黄色い声を上げながら覗いていた時、チラリと見えたのがファーストコンタクトである。と言ってもそれは一方的なものだ。
 見えた金色の髪が眩しいと感じた。それが彼の中で燻った想いを生み出したのだ。書店でラックに入った雑誌の表紙に黄瀬の顔があった時は、矢張りその眩しい髪に惹かれた。銀色の自分とは対照的なそれを、いつしか焦がれるようになった。
 転機が訪れたのは灰崎が小学生最後のゴールデンウイーク最終日である。それは良い知らせと悪い知らせが同時に舞い込んだようなものだった。

「黄瀬、涼太です」

 焦がれていた物が目の前に姿を見せた。それは手を伸ばせば届くような距離だ。けれど灰崎は触れる事はおろか手を伸ばすことも出来なかった。
 真っ先に彼に手が伸びたのは灰崎の母親だ。
 肌と肌がぶつかる乾いた音がリビングの空気を振動させる。衝撃で宙を舞う金糸は、しかし根元がしっかりくっ付いているので直ぐに纏まった。レフ板も無く只の蛍光灯が照らす中でも真っ白だと思った肌が赤くなっている。
 肌を刺すような静寂が満ちた空気を震わせたのは母親の声だった。

「ふざけないで!」
「ずっと隠していた事は謝る。しかし、涼太にはもうオレしか頼る人は居ないんだ」
「施設にでもやれば良いじゃない! どうして人の旦那に手を出した女が生んだ子どもの面倒を見なくちゃいけないのよ!」

 ヒステリックに叫ぶ母親の金切り声はとても不快なものだった。思わず眉を顰める灰崎だったが、目の前の黄瀬は表情一つ変えず叩かれた儘の状態で立っている。爪が当たったのか、頬には引っ掻き傷が一本の線を描いていた。
 この日を境に、家庭内の雰囲気はギスギスしたものへと変わった。けれど、実際そうなるのは母親が居る時だけだ。彼女の前で、黄瀬を擁護するような言動は公に出来なかった。
 人の噂話は瞬く間に広がるもので、母親の前以外では灰崎と黄瀬が仲良くやっているのだと彼女の耳に入った時は再びヒステリックになった。同室だった二人は、黄瀬が物置にしている部屋へと移された事で離れ離れになる。また、二人きりにならない限りは険悪な雰囲気を出すと決まり事を作ったのもその時だ。

「ショウゴ君」
「何だよ」
「何でもない」
「あっそ」

 中学生になった今でも、黄瀬は養子縁組みをしたわけでは無いのでそのまま母方の姓を名乗っている。正直、此方の方が都合が良かった。誰も異母兄弟だとは思わないのだから。あくまで灰崎の両親は「保護者」である。
 互いを名前で呼び合うくらいは不仲を演じる中でも疑問に思われないようだ。と言うのも、普段から灰崎は誰に対しても名前呼びである。また黄瀬も、特別な人とそうでない人に分けた呼び方をしているので誰も気に留める事は無かった。
 二人が二人きりになれる時間は限られている。家から最寄りのバス停までと、最寄りのバス停から家までの十分間だけだ。その登下校の間だけである。

「ショウゴ君」
「何だよ」
「何でもない」
「言えよ」

 黄瀬が発した言葉の末尾に灰崎は己の声を被せた。黄瀬は言葉を呑み込む。
 閑静な住宅街を並んで歩く。互いにバスケ部に所属していながらも、灰崎が部活に参加する頻度は低い。それでも、毎朝黄瀬と共に家を出るのだ。そして放課後も、黄瀬が憧れのチームメイトと一対一を楽しみにしているのを知っているからこそ、急かすような事はしない。一人でバスに乗り、一人でバスを降りる。そしてそこで黄瀬の帰りを待つのだ。例えどんなに遅くなろうとも。毎日。毎日。

「あのね、ありがとう」
「何で?」
「ショウゴ君が居てくれて良かった。オレ、朝と夜のこの時間が一番好き」
「リョウタ……」
「ショウゴ君が隣に居るこの時間がね、大好き――」

 先程と同じく、末尾は最後まで紡がれることは無かった。けれどそこには灰崎の言葉は無い。存在したのは、唇に触れるたった一つの温もりだけである。
 門を潜った先にある玄関前のポーチは直ぐ横にあるリビングの大きな窓からも見えない死角だった。

「ショ……ゴ、君?」

 唇が離れる。至近距離で見つめ合う二人の瞳には互いの姿しか映っていなかった。
 黄瀬の真っ白だと思った肌が赤くなっている。いつぞやの様に一部だけではない。全体的に、だ。紅潮していく頬に比例して瞳が奥から潤み出す。

「あの時間っつーより、オレはリョウタが好きだけどな」

 瞬きすら忘れてしまった黄瀬に、もう一度唇を重ねる。そして彼にしか見せない、柔らかい笑みを浮かべた。

「落ち着いてから入って来いよ。先行ってるから」

 頭をポンポン、と軽く叩くと、灰崎は玄関のドアを開けた。姿がドアに隠れ、それが完全に音を立てて閉まると、灰崎の姿はもう何処にもない。
 背中をドアに預けてゆっくり膝を折る。脹ら脛と太腿がくっ付いた時にはもう、膝頭に乗せた両手で顔を隠していた。
 つい三十分程前に青峰と一対一をやったのだが、それとは似て非なる鼓動である。苦しいけれど楽しさを孕んだあの時とは違う。今感じているのは苦しさと切なさだ。それなのに、締め付けられるような痛みを伴う胸の奥からじわりじわりと広がる暖かさは、この上なく心地良い。

「……ショウゴ君」

 静かに唇に指を這わせる。リップは着替え終えた時に塗った。けれど、スティックタイプの乾燥予防ではなくチューブ型のより保湿効果のある方を使えば良かったと小さな後悔が生まれた。お風呂上がりは、小さな円形のケースに入った指で直接付けるタイプの物を使おう、と細やかな決心を胸に秘める。そこではたと気づく。

「オレ、何、期待しちゃってんスかぁ……」

 収まりかけた鼓動は、再び活発化するのだった。まだまだ背後のドアは開けられそうに無い。



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