紫黄


 x軸とy軸が唯一交わる場所は数字が「0」である。折角交わったのにそこには何も無いなんて。まるで自分達のようだ。
 頬杖をついて黄瀬は黒板を眺めていた。後ろの席の校内一長身であるクラスメートは机に突っ伏して眠っている。時折良く分からない寝言が聞こえていた。

「折角バスケ部って言う場所で交われたのに……」

 けれども残念な事に、黄瀬が想いを抱いている相手は、憧れを抱いているあの人と違ってバスケに興味が無い。出来るからやっているだけなのだと、以前教育係だった人に教わった事がある。
 クラスメートで席が前後であっても、意中の彼は寝るかお菓子だ。それ以外に何かあるとすれば、主将関係だろう。そんな時、主将の彼が羨ましくなる。
 勿論、それが只の八つ当たりに違い嫉妬であることは黄瀬自身、承知していた。

「まさかオレが嫉妬する日が来ようとは……」

 黒板で何かを説明している教師の言葉は全て呪文のようだ。けれど居眠りする気にもなれなかった。と言うのも、黄瀬の気持ちも知らず夢の世界へと飛び立つ紫原が直線的な原因である。
 気になって眠れない、と言うのも勿論だが、それだけではなかった。最近良くある出来事だが、授業が終わると眠たそうな瞳で黄瀬を映しながら「黄瀬ちんノート貸して?」と言ってくるのだ。授業中始終眠っていたのだから当然と言えば当然である。
 しかしそこは惚れた弱み。以来、いつ言われるか分からない「ノート貸して」の為に最近は起きている事が多かった。お陰で成績は横這い状態から右肩上がりへと折れ線グラフに傾斜が出来ている。担任からも教科担当からも誉められるが、それを聞いた女子がまた騒ぎ立てるのが黄瀬は大層鬱陶しかった。
 顔、容姿、運動が花丸の彼だ。勉強にも丸乃至二重丸が加算されれば益々女子生徒が集って来る事必至だろう。更に男子からの妬みを含んだ目を向けられると言う要らないサービス付だ。迷惑極まりない。
 しかし矢張り紫原から頼られるのは嫌な心地はしない。テスト前になれば「勉強教えてー」と、放課後教室に二人で残ることも最近は珍しくないのだ。

「でも、オレより赤司っちの方が良いと思うんスけどね」
「赤ちん言ってたけど、黄瀬ちんてホント鈍チンだよねー」
「ひっ!」

 突然後ろ襟を引かれる。そうして出来た制服と首との間に生温かい息が声を乗せて触れた。あまりの不意打ちに黄瀬の喉が小さく鳴る。

「起きてたんスか?」
「うん。ずっと板書してる黄瀬ちん見てた」

 前方では依然として教師が解説をしている。新しく書いたグラフの横に「y=」と書き始めていた。左半分は既に白い粉で埋まっている。
 黄瀬も紫原も声のトーンを落とした。隣の席の人にも聞かせないかのように。

「黄瀬ちん鈍過ぎだしー」
「いや、意味が分かんないんスけど」
「何でオレが黄瀬ちんに頼んでるのか考えた事あるー?」
「……へ?」

 一層息が近くなった。それに比例して紫原の声も低くなる。黄瀬が言葉の真意を問う前に、彼は置き土産を一つ残して襟から手を離した。そしてそのまま机に突っ伏す。一方の黄瀬は、黒板から顔を背けたままの体勢で固まっていた。
 心臓が途端に早く動く。暖房の設定温度を上げられたのだろうか、体が、顔が熱い。発熱元は首の後ろだ。先程まで外気に晒されていた箇所である。そこに、数秒前、柔らかくて温かい物が触れたのだ。仄かに甘いお菓子の匂いが強くなったのは、その瞬間だけだった。

「は、えっ、あ、のっ、えっ?」
「黄瀬ー、私語は慎みなさい」
「やっ違っ、だって……!」
「そんなに喋りたいなら喋らせてやろう。問三の答えは?」
「えぇっ! どこの問三スか!」

 紫原の方に傾いていた首は直ぐに前を向いた。じっと後ろ姿を眺めていた紫原は徐に置き土産を残した場所を人差し指で触れる。勿論今は制服の襟で隠れてしまっている。
 触れた際に黄瀬の肩が面白いくらいに跳ねた。それに紫原の口角は上がる。

「黄瀬ちん。八五ページ」

 どうやら黄瀬が紫原の方へと意識をやっている間に紙一枚半進んでいたようだ。ページにして三ページ分である。

「先生、これ、答えグラフじゃないスか!」
「お、気付いたか」
「問題文に書いてあるんだから誰だって気付くっスよ!」

 教室内が笑いに包まれ賑やかになる。けれどもその中で黄瀬は聞き取れた。聞き取れてしまった。
 クラスメートの笑いに混じって背後から聞こえた、「黄瀬ちん可愛い」の声に。その声音が今までの彼からは聞いたことも無いくらい優しい音が含まれていた事に。

「ずっと起きてたんじゃないスか……」

 x軸とy軸が交わる唯一の点。後ろの彼と前の彼が交わる点。そこはバスケではなかった。「0」と書かれたスタート地点は四月のクラス発表の時から既に用意されていたのだ。
 二つの軸を繋ぐ線は無数に存在する。例えばこれから描く直線がバスケに相当するのだとしたら。その先は何があるのだろう。右に、上に、移動すればまた新しい線が二つを繋ぐのだ。
 ならば手始めに逸る気持ちをぶつけてしまおう。
 黄瀬は手の平で襟ごと首の後ろを押さえながら黒板の前に立った。



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