笠黄


 笠松が黄瀬の様子がおかしいと気付いたのは割と最近である。入部当初はやけに周りと線を引いていた。それが敗北を知った事で薄くなり、今では消えているとさえ感じている。それからと言うもの、何故か懐かれていたのだ。
 しかしここの所、冒頭にも挙げたように黄瀬の様子がおかしい。どこかよそよそしいのだ。避けられているとさえ感じる時もある。けれどもそれは部活の時以外だ。部活中は矢張り懐かれていると感じるくらいには寄ってくる。だからこそどうすることも出来ずにいた。

「なあ。どう思う」
「どう、って言われてもなぁ……」

 森山はゾウのイラストが描かれた紙パックのミルクティーを吸い上げる。「んー」と液体を嚥下しながら喉から音を出す。

「まあ、部活に支障は無いわけだし。今の所は」
「そうなんだがな。そんなんだが、こっちとしては気になるだろ」
「んー……まぁ、な?」
「今日だって移動教室の時に偶々廊下で会っただけなに、急にわたわたし出すし、かと思いきやオレから逃げるように近くの階段でどっか行くし」

 意味わかんねー。箸で唐揚げを掴んだ状態の儘、笠松は項垂れる。

「じゃあ今度廊下で会ったら『逃げんな』って言ってみたらどうだ? 多分その場から動かないと思うぜ」
「それで逃げたらどうすんだよ」
「そしたら部活の時に訊くしかないな」
「だったら今日、部活の時に訊けばいいじゃねーか」
「いや、それはちょっと黄瀬が可哀そ」
「あ? 森山。お前何か知ってんな」

 鋭い三白眼から睨み付けられれば幾ら付き合いの長い森山でも視線を逸らすしかない。主将の風格故か、笠松が眉間に皺を寄せて凄めば、相手は蛇に睨まれた蛙になった気分に陥る。
 けれども幾分か免疫があるからだろう。森山に至っては回避する事も不可能ではなかった。

「事情は知らないさ。知ってたらとっくに笠松に言ってるぜ、オレ」

 そう。森山は嘘を言っているわけではない。けれども彼は黄瀬の態度の理由に目星は付いていた。しかし所詮は推論に過ぎないのだ。
 嘘は、言っていない。

「黄瀬って確か今月は教室掃除だから、もしかしたらゴミ捨て場付近で会えるかもよ」

 笠松は森山のその言葉とどこか面白がっている表情の意味を口に入れた唐揚げと共に咀嚼した。
 そして、森山の言うことはネットにさえ頼らなければ案外信用出来るものであると認識を改める事になる。
 森山の言葉通り、黄瀬が口を縛ったゴミ袋を持って姿を見せたのだ。

「おい」
「え? ……っ、ひ!」
「逃げんな!」
「っ!」

 校庭掃除の笠松がクラスメートに「ゴミ捨てて来る」と言って環境美化委員会に所属する人達が立つゴミ捨て場まで来たのは勿論、偶然ではなかった。森山の言葉を信じた結果だ。
 そして矢張り廊下で見掛けた時同様に背中を見せたので、すかさず一声掛ける。思っていた以上に厳しさを孕んだ声音になってしまったのは誤算だ。つい、部活の時の感じが出てしまったのだろう。
 大袈裟なくらい肩を跳ねさせるものだから、手にしていたゴミ袋が音を立てる。森山の言う通り、黄瀬はその場を動かなかった。けれども背中は向けたままだし逃げようと足を一歩前に出した状態だ。将に逃げ腰である。

「あのさ、ちゃんと理由言わねーと分かんねーよ」

 そう言った笠松の声は呆れを含んでいるが、脅かさないように気を付けている。動きを止めた黄瀬に近付く。その度に手にしていたゴミ袋が音を立てる。なかなか煩い音だ。

「黄瀬」

 言葉と共にゴミ袋を持った方の腕を掴んで振り向かせる。するとどうだろう。其処には予想もしていなかった黄瀬の顔があった。
 苺のように真っ赤に染まった顔と何故か水分量の多い瞳。それが一体何を物語っているのか、笠松にはさっぱり分からない。しかしこの場に森山が居れば「ああ、やっぱりな」と笑っただろう。

「ど、おまっ、何、どうしたっ!」

 予想外の展開に珍しく笠松が焦る。
 何だもしかして苛めか? だから廊下の時も逃げたのか?
 ぐるぐると的外れな事を考える笠松に対し、黄瀬は伏した目をつい、と逸らした。そして一言、か細い声で言った。

「離、して」

 口元を自由な手の甲で隠しながらだったので、その声は籠もっている。
 そんな、部活の時と全く違う態度を取る黄瀬に笠松の思考は凍りつく。こんな淑やかな後輩は嘗て見たことがあっただろうか、否無い。

「セ……センパイ……あの、手……」

 心なしか声が震えている。けれどやや上擦ったように聞こえる。まさか。

「お前、もしかして緊張してんのか?」

 そんなまさかと思いながら問えば、ビクンと肩が跳ねた。どうやら正解してしまったらしい。益々水分量が増した。溢れるのも時間の問題かもしれない。

「何で? 部活の時は別に……」
「だ、だって」

 漸く言葉のキャッチボールが出来そうだ。
 しかし矢張り黄瀬の顔も目も声も状態は変わっていない。

「部活、は……バスケ……あるから」
「は? バスケ部なんだから当然だろ」
「そ、ス、けどっ! そ……じゃ、なくて」
「はあ? 益々分かんねーよ」

 ハッキリ言え。口にはしないが笠松の目が語る。目つきの良い方ではない彼から真っ直ぐに見られると眼力があるのだ。それでなくても黄瀬は笠松のそれに弱い。
 ぐ、と口を結んで躊躇していたが観念したようだ。小さく開けた唇の隙間からゆっくりと肺の中の酸素を吐き出した。

「オレ、気付いてからダメになったんス」
「は? 何に? 何が?」
「それ、は、出来れば……言いたく、ない、ス」
「あっそ。じゃあ聞かねーから続けろよ」

 無理強いはしない。それが笠松のやり方だ。本人が言うまで辛抱強く待つのだ。勿論、場合によっては強引に聞き出す事もするだろうが基本的にはあっさりと引き下がる。

「うー……。バスケしてる時は、バスケに集中出来るしバスケが仲介役って言うか橋渡し役って言うか……。兎に角ワンクッション、みたいな役割をしてるんスよ」
「で? 普段の学校生活じゃダメなのか?」
「何か、だって、主将じゃないセンパイ……だから。その……」
「もしかして、オレの所為か?」
「あっ、違っ! そうじゃないんス! そうじゃないっそうじゃなくてっ」

 黄瀬の言葉を一つ一つ繋げてみれば、主将である笠松と主将ではない笠松の違いが原因であると予測する。しかし黄瀬はそうではないと髪を振り乱しながら全力で否定してきた。

「オレが、悪いんス……」
「話聞いてる分にはそうは思えねーけど」
「オ、レが、オレ、が……」

 先程以上に伝わる緊張感は黄瀬の物だ。
 ぎゅ、と強く目を瞑り唇を引き結ぶ。そして再び琥珀色が姿を現せばとうとう透明の粒が睫毛を濡らした。

「オレが、笠松センパイを好きになっちゃったからっ!」

 ぽろり、ぽろり。涙の粒が白いはずの頬を滑り落ちる。実際は紅潮している為、今は白いとは言い難いのだ。輪郭をなぞるように轍を残す雫は、やがて重さに耐えかねて制服を濡らしていく。
 笠松はその様子を呆然と見つめていた。頭の中は予想を遥かに上回る言葉で処理が追い付いていないらしい。思考回路はショート寸前である。
 大して多くもない情報量を処理するのに時間が掛かってしまったのは、勿論黄瀬の発言が原因ではある。しかし他にもそれを邪魔する要素が含まれていたのだ。
「好きになった」そう紡いだ時の彼の顔が頭から離れない。何度も何度も浮かんでくる。真っ赤な顔をして羞恥と不安と欲求不満に彩られた瞳を潤ませ柳眉が情けなく下がっている。そんな滅多に拝めない、初めて見る黄瀬のそれは、エースの「エ」の字も見当たらなかった。
 他にもある。黄瀬が流した涙に目を奪われた。彼の涙は初めてではない。しかしバスケが関わっていない涙を見るのは初めてだった。
 そして、恐らくこれが最大の原因だろう。そんな黄瀬を目の当たりにして、笠松は思ったのだ。まるでそれが当たり前であるかのように。思ったのだ。「抱き締めたい」と。

「黄瀬」

 今度は黄瀬の肩が跳ねる前に掴んだままの腕を引いた。驚いている隙をついて、ネクタイを引っ張り上体を傾けさせる。それによって近付いた二人の距離は、あっと言う間にゼロセンチメートルだ。
 時間にして数瞬のそれは直ぐに距離が出来る。けれども間近でより一層赤くなった黄瀬の顔を見られるくらい、である。

「んなことで心配させんな」
「ス、スンマセ……」
「場所が体育館だろうが校舎だろうが関係無ぇよ。バスケ通さず直接オレを見ろ」
「へっ? あ、はいっス」
「それから」

 再び距離が近付く。思わず黄瀬は目を瞑る。けれど今度は唇には何も触れなかった。代わりに感じたのは鼓膜である。

「その顔、オレ以外に見せるなよ」

 耳元で告げられた事で心拍数は上昇する。笠松にも聞こえているのでは無いかと思う程である。まるで、心臓が耳のすぐ側で音を奏でているのではないかと錯覚してしまう。
 黄瀬が我に返り、返事をしようと口を開いた時には笠松に背中を向けられていた。
 そしてそこで気付いたことが三つある。
 一つは手にしていたはずのゴミ袋が消えていたこと。しかしそれは直ぐに見付かった。背中を向けて歩く笠松の両手が塞がっていたのだ。
 そのお陰で、笠松の耳と襟足から覗く首が赤くなっていることに気付いた。

「センパイ……」

 それだけで胸が苦しくなる。けれど嫌な気はしないのだ。温かくて優しい、そんな苦しさである。

「まだ、センパイの口からは聞いて無いっスよ」

 大事な言葉をまだ言われてはいない。彼は口と手が同時に出るタイプだ。恐らく聞きたい言葉を聞く際は、何かしらのアクションが付いて来るだろう。
 それが何なのか考えるのも楽しいと感じるようになったのは、他でもない、笠松のお陰である。たった一つの行動で、たった一つの言葉で、雁字搦めになっていた黄瀬の心をいとも簡単に解いてしまったのだから。
 けれども背を向け歩き続けた笠松は知らない。また、当事者である黄瀬も勿論知らない。
 通じ合い分厚い雲に覆われた心が晴れてしまったが為に、想いを告げた時よりも今の方が周りには見せない方が良いと思う表情をしていると言うことに。幸せな空気を纏う黄瀬の表情が如何に毒であるかと言うことを、この時の笠松は未だ知らない。



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