しあわせの条件


『誰が産んでくれって頼んだんだよ!』

点けっぱなしにしていたテレビから流れた声にびくりと体が反応した。何故か胸の奥がじくじくと痛む。ズキズキと言った方がいいのかもしれないし、じわじわかもしれない。出流にせよ不愉快な痛みなのにかわりはない。

陳腐なドラマだ。くだらねえ、と内心毒づく。けれど、どうにも先程の言葉が引っかかっているようだった。しかも心を掻き乱されているのかココアの入ったマグカップは簡単に手の平をすり抜けた。

「あっつ…ッ!」
「晴矢…何をしているんだ。バカか」

近くで鳴った陶器の割れる音よりも遠くで聞こえた呆れた風な声の方が耳についた。睨むように振り向けば、案の定大嫌いな奴――涼野風介が立っていた。左手にあるポリエチレン製の袋にはハングル文字でコンビニ名がプリントされている。

「うっせーな。部屋に入るならノックくらいしろよな!」
「つくづくお前はバカだと思い知らされるよ。此処はお前だけの部屋じゃない」
「あーそーだったな…ッてぇ…」

風介の人をバカにしたような(いや実際バカにされてるんだけど)言い草に適当な返事をしながら破片を集めていたら指先に鋭い痛みが走った。右手の人差し指からは鮮血が重力に従って滴り落ちる。一筋の線が点になり、そして溢れ出る様に何故か目が離せないでいた。

「何を取り乱している?」
「っせーな!別にそんなんじゃね……って、テメェ!風介っ!何やってんだよ!」

風介の声が直ぐ後ろから聞こえるとは思っていた。あろうことか何の躊躇もなく、まるで当たり前とでも言うかのように平然と人の指を自分の口に突っ込んだ。掴まれた部分と舐められている箇所が熱を持っているような気がした。そこから伝染するようにその熱が顔にまでやってくると本人の意思を無視して勝手に頬が紅潮する。

いつまでこうしていれば良いのか分からずただただされるがままになっていると、漸く風介の口からは解放された。手は掴まれたままだけど。元々大した傷では無かったからか血が溢れることは無かった。ピリピリとした痛みはあるけれどサッカーに支障が出るわけでもないので特に気にはならなかった。

「出掛けてる間に、何かあったのか?」

そっと伸ばされたもう片方の手に、思わず目を瞑ってしまった。一瞬躊躇ったのかそれが頬に触れるまで数秒間の開があった。優しく触れられたそこはまるで包み込まれているようで、いつも冷たい手なのに今は温かく感じられた。

そっと目を開ければ、無表情だけど心配そうな瞳の中に俺の姿が確認出来るほど風介の顔が近くにあった。

「ふ……すけ……」

掠れた声が喉の奥から乾いた息と共に出る。いつになく真剣な眼差しから目を逸らすことが出来なかった。速度を上げる心臓の奥で、未だに原因不明の痛みに耐える姿形もない心が戦慄くのが分かった。

「もう一度訊く。何かあったのか?」

疑問文なのにそう感じらんないのは、さほど語尾が上がっていなかったからかもしれない。

何か、何て訊かれても分からない。そう思っていたのに意外にも口からはすらすらと言葉が紡ぎ出された。

「ちょっと……昔のこと、思い出しただけだから」
「おひさま園のか?」
「……もっと前」

未だ頬に触れている風介の手に自分のそれを重ねる。少し、震えていたかもしれない。それはまるで心の戦慄きがそのまま表れているようだった。情け無いから止めたいのに止まる兆しが見えない。止め方も分からない。震えは唇にまで伝染ってしまったようだ。

俺の瞳は風介を捉えているはずなのに、レンズに映っているのはもっと別の物のような気がした。それは、脳内に映し出されたビジョンが風介では無かったからだろう。

「テレビで『誰が産んでくれって頼んだんだよ』って台詞が聞こえた時、何か…すっげー胸が苦しくなって、痛くなって、何か、よくわかんねーけど…辛くて……」

声が震えているかも知れない。実際、それだけでは無かった。全身が震えていたのだ。

「何で…だろうな……。わっかんねー…変……だよな」
「……晴矢」

気付けば泣いていて、気付けば風介に抱き締められていた。縋るように風介の背中に腕を回すと、抱き締める力が強くなった。嗚咽混じりに何度も何度も風介の名前を呼ぶ。一度涙が出たらなかなか止まらなくて落ち着くなんて到底無理だったけれど、何となく安心だけは出来た。

「晴矢が生まれてきてくれたこと、感謝してる」

優しい声音で囁かれ、風介の服を強く握った。滅多に聞けない柔らかい声は、先程彼の名を連呼したのと同じように短い愛の言葉を囁いた。

俺が安住出来るのは、風を遮る壁のある家でも雨を凌ぐ屋根がある家でもない。風介が傍に居てくれる場所こそがそうなんだ。

程なくして落ち着きを取り戻すと、この短時間に起こった恥ずかしい出来事を思い返し、且つこれから起こる恥ずかしい出来事に対して赤面するしか為す術が無かった。






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