訪れる朝、昇らない太陽
眠りの淵から覚醒すると微睡む暇もなくトイレへと駆け込んだ。
時刻はセットしたアラームが鳴る30分前で、立夏を凡そ一週間前に迎えた季節では午前5時でも充分明るかった。鳥が鳴く声に重なるように小さな一室からも声が漏れる。呻くような、時折咳き込む声も混じっていた。
(…気持ち悪い)
胃の中のものを全て吐き出したいのに、その胃の中には殆ど何も入っていないに等しい。それもその筈で、昨日の夕飯は数時間左腕に繋がれていた点滴だけで今だって起きたばかりなのだから食物など何も胃袋に詰まっていない。そんな中で逆流してくるものと言えば胃液くらいだった。
それでも吐き出したくて、でも吐き出せるものはなくて…。そんなジレンマが交錯する中で取れる行動と言えば、口の中に指を突っ込むことくらいだ。それでも吐き出される物は先程と何ら変わりはない。
そろそろこの行為を止めなければと大きく息を吐き出して肺の中の空気を新しいものに交換する。(それでも襲ってくる吐き気は消えなかった。)痺れる体になかなか力が入らない。
ふ、と影が差した。同時に感じる人の気配。
「なんだ、悪阻か?」
嘲笑を含んだ声音に小さく息を吐く。気持ちを引き締める為のものではない。心の底から安堵したものが漏れたのだ。
「…不動。冗談にしてはつまらないぞ」
「ハッ、お前なら無きにしも非ずだろ」
「絶対に有り得ない」
未だに痺れる四肢を何とか鼓舞してゆるゆると立ち上がる。けれども襲う立ち眩みに思わず目を瞑ると体は呆気なくふらりと後ろに倒れた。
けれども背中に受けた衝撃は温もりを持っていて、お世辞にも柔らかいとは言えないがそれでもフローリングの硬質感は無い。
そっと額に触れられた人肌に酷く安心した。
「点滴の中に薬盛られたらしいな」
「…そうか」
「体が拒絶反応をみせてるだけだ。安心しろ」
「…そうか」
頭上から声が聞こえる度に触れてる箇所から感じる小さな振動が心地いい。体こそ源田よりも小さい不動だが、入り口を塞ぐように立ち、両手を扉の枠につく事で源田が倒れ込んできてもしっかりと支えることが出来ていた。
普段ならば文句の一つや二つは飛んできそうだが、それをやらないのは今彼らが居るのが源田に与えられた部屋――個室――だからだ。
意識が朦朧とする中、不動の片手が優しく前髪を梳く。それだけで息苦しさや警鐘のような激しい頭痛が緩和されるような気がした。
「ふど…ありが、と…」
「休める内に休んどけよ。今日もお前は特別メニューだからな」
「ああ、佐久間も耐えてるんだ。俺だけが免れるつもりは毛頭無い」
「ハッ、真面目だねぇ」
「そんなんじゃない…」
「どーだか」
手櫛の動きを止め随分長くなった後ろ髪を一房掬うとそっと口付ける。
「不動が居るから、こうして来てくれるから、また今日も頑張れるんだ」
「ばーか」
耳元で囁くように浴びせた罵声の言葉は温もりを持ち、それが外耳道の奥を通り体中に巡らせているような感覚に陥った。速くなる心臓の音をかき消すかのように、アラームの電子音が部屋に鳴り響いた。
体を離して不動が立ち上がる。
部屋の入り口である扉のドアノブに手をかけ一瞬、動きを止めた。「じゃあな」と短く告げるとゆっくりノブを回した。
この扉が開き彼が廊下へと足を踏み出した瞬間から源田と不動の関係は先程のような温度を感じるものでは無くなる。
お互いがお互いを利用しあうだけの酷く冷え切ったものに変わる。ただ、それだけのことなのに胸の奥が痛んだ。
「不動っ」
不動が扉を開けようと腕を引く直前、源田の口は思わず出て行こうとする彼の名を呼んでいた。
「あ、えと…」
何も考えずただ口から勝手に出て来た名前。その次の言葉は一切用意されていない。そんな源田の様子に気付いたのか、不動は口元に上弦の月宜しく笑みを浮かべた。
「明日の朝、また来てやる」
ドアが閉まる音と共に消えたのは彼の姿と短くて些細な、かつて日常であった非日常だった。
これから再び訪れる長くて苦痛の非日常だった日常を受け入れる覚悟を決めるように枕元で未だ鳴り続けるアラームを止める為、寝室へと向かった。
またやってくる朝に小さく笑みが零れた。