ドレスシャツ


裁縫箱を両手に抱えて立ち上がるとパサッ、と小さな音を立てて白い布が足を滑り床に落ちた。持っていた箱を左手に持ち替え空いた右手でそれを拾い上げる。薄い一枚の布――きちんとアイロン掛けされたワイシャツは源田の腕を覆い隠した。

「不動はカッターシャツって呼んでたな」

裁縫箱を元の棚に戻し、シャツをハンガーに掛けながら持ち主のことを考える。今でこそこうして当たり前のように不動の身の回りのことをやっているが、其処まで至るには随分と遠回りをしてきた。よくよく考えてみれば距離はとても短かったのだろうが、片方は不器用、もう片方は鈍感と言うのも相俟って時間が掛かってしまったのだ。

「……遅い……なあ」

明王。

ぼそっと呟いた声はドアが開く音に紛れた。

「よぉ」
「お、おかえりっ」
「ん」

突き出されたコンビニの袋を受け取ると不動はリビングへと歩き出した。ベッドに腰掛けリモコンでテレビを点ける。ザッピングを何度か繰り返し、しかし見たい番組が無かったのかリモコンを机の上に投げ置くとベッドに寝そべった。その様子を狭いキッチンから横目で確認しながら源田は袋の中から牛乳を取り出す。

二人の距離が近付いてもこれといった進展は無い。(この場合、肉体関係は含まれていないが)会話が増えたわけでもないし、お互いにベタベタと甘えるわけでもない。唯一変わったとすれば二人が共に過ごす時間が増えたと言うことだ。

「ありがとな」
「へ?」

包丁がまな板に触れる規則正しい音とテレビから流れる不規則な音の中に呟かれた言葉。決してお世辞にも大きいとは言えない声量だったけれど、源田の耳には確かに届いた。まるでその一言が主旋律を奏でる楽器のように、それだけが内耳を振動させた。

「ワイシャツ」
「…ああ」

どう致しまして、と口にした時、自然と口調も表情も柔らかかった。口元が緩いカーブを描いた。


スープの入った鍋に蓋をして火を止める。後はオーブンの中で二つの器が熱されるのを待つだけだ。暫しの間、暇になるので源田はキッチンからリビングへと移動する。そして不動が寝ているベッドの端に遠慮がちに腰を下ろした。申し訳程度にベッドが軋むも不動はこれといった反応は見せない。右腕で両目を覆ってしまっているので寝ているのか起きているのか分からないが。

「不動」
「何だよ」

呼び掛けたらきちんと返事が返ってきたことに安堵する。別に息をしていないと思っていたわけではないが、ただ何となく反応があったことが嬉しかった。相変わらず目は覆われたままだったけれど。

「どうしてボタンを付け直したって分かったんだ?」
「取れかかってたから」
「本当にそれだけか?」
「……出て行く時と帰ってきた時の裁縫箱の向きが違った」
「……」
「っていうのもあるけど」

一旦そこで言葉を切ると、今まで瞳を隠していた腕が外されそのまま源田の腕を掴むと思い切り引き寄せた。その反動を利用して不動は上体を起こす。逆に源田は突然生じた引力に迅速な対応が出来る筈もなく、上体が不動の方へと傾いた。これにより必然的に二人の距離が一気に近付く。息が掛かるくらいの距離に思わず顔が赤くなる。もう少しで触れることが出来るのにそれ以上近付かないのがもどかしい。

張り裂けてしまいそうなくらいバクバクと大きな音を立てる心臓に気付かぬフリをし続けつつ、言葉の続きを待った。

「お前なら、絶対やるだろうなって思っただけ」
「不ど…っ」

名前を呼ぶ前に開いた口を塞がれた。言葉を発している途中だった為唇が隙間を作っていたのは必然的なことであった。それを不動が見逃す筈もなく、呆気なく口腔を支配される。恥ずかしさと突然の出来事で上手く呼吸が出来ずにいると全身の力が抜けていくのが分かった。苦しいのに止めたくない、そんな相反する気持ちが胸中に渦巻いた。

不動が再びベッドに沈んでから時間差で漸く互いの唇に僅かな距離が出来た。その距離を繋ぐ細い橋は艶めかしく銀色に輝く。肩で息をする源田と比べて、仕掛けた本人は随分と余裕のある表情をしていた。引いていた糸がぷつりと切れたのを感じると不動は口角を上げて不敵な笑みをその顔に刻む。

「ハッ、エロい顔。誘ってんのか」
「そっ、そんなわけないだろうっ」

からかわれていると、反応を見て楽しんでいるだけなのだと分かっていながらもついムキになってしまう。不動の手の平の上で転がされているような気がした。けれども不快感が全く無いのは、好きだから……そんな根拠も何もない理由が浮かんだ時、不動の腕を掴む手に力が入った。それを感じ取ったのか不動の目が細められる。

「そっ、そう言えばワイシャツって言うようになったのか?」
「は?」
「ま、前はカッターシャツって言ってたのにさっきはワイシャツって……」
「んなのどーだっていいだろ。カッターシャツだろうがワイシャツだろうが同じじゃねーか」

呆れたように吐き捨てる不動をよそに尚も源田は話を続ける。

「知ってたか?ワイシャツは関東以北でカッターシャツは関西以西が主流なんだ」
「知らねーよ」

封じるように再び唇を合わせる。潤んだ瞳で見つめていたのが、今度はしっかりと閉じられていた。変わらなかったのは真っ赤な顔だろうか。

「お前、こーいう時に限って話題変えるのヘタすぎ」

普段は器用なくせに。

噛み付くように、啄むように、吸い付くように、触れるように、色んな雨が降った。その度に源田の唇はしっとりと濡れていく。

「夕飯何?」
「ぐ…グラタン。と、野菜スープ」

冷蔵庫にはサラダもあるぞとつけ加えれば、「どんだけ野菜食わす気だよ」と不動は苦笑した。タイミングを見計らったかのようにオーブンから機械音が発せられると源田の体がびくりと震えた。

「ご、ご飯にしようっ」

慌てて不動の上から降りようとする源田の腰を両手で掴んで止める。それを支えに普段から腹筋を鍛えているからかすんなりと上体を起こした。それにより座位という形で再び顔が近付く。

「デザートは?」
「え……あ、すまない。作ってな」
「だったら」

源田の言葉を遮って言葉を被せるなりそのまま首筋に顔を埋める。ゆっくりと這うように唇を耳元まで持って行くと低い声で囁いた。

「お前がデザートになるしかないよなぁ」
「ンっ……!」
「ワイシャツ一枚なんて結構そそるぜ?」

ちゅ、と態と音を立てて耳の裏に唇で触れると真っ赤になった源田の顔を見て満足げに微笑んだ。何事もなかったかのようにベッドから降りるとキッチンへと歩き出した。

「……っばか」

呟いた声は心臓の音で掻き消されてしまうくらいに小さく、また、鼓動はそれくらい大きな音を鳴らしていた。折角アイロン掛けをして皺一つ無いようにしたシャツがこうも直ぐに無駄になるとは思ってもいなかった。

明日学校に何を着て行くつもりだと意見しようと思ったが、そう言えば祝日で休みだったことに気付く。どうやらここは大人しく観念するしかないようだ。小さく漏らした溜め息が、実際はそれに近い熱っぽい吐息だと気付くにはまだ時間がかかるようだ。





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