ハグ、組んで
第二外国語の勉強になればと思って購入した輸入物の本に今し方小さな染みが出来た。慌てて其処に触れたがもう完全に吸収してしまっていた。丁度何も書かれていない場所だったので良かったが其処だけが変色してしまった。無駄だと分かっていながらも軽く袖で擦る。
現地の言葉で書かれているので読み進めるのには時間が掛かった。毎晩寝る前に読んでいたので中身を忘れると言うことはなかったが。短編集なのになかなか密度が濃い。この染みも一つの話の終盤のページに差し掛かると必ず付いた。
ズズ、と鼻を啜るとタイミングを図ったようにインターホンが鳴った。
「はい」
少し鼻声気味ではあった。しかし一時的なものだ。だから特に気にはしなかった。寧ろ気になったのは真っ赤に染まった目の方だ。
今日は祝日で学校は休みだった。だから事前に砂木沼が此処を訪ねる約束をしていたのだ。彼が来るまで時間があった。だから小説を読み進めようとしたのだ。しかしそれが良かったのか悪かったのか。読破する事は出来たものの、代償として鼻声と涙目を貰ってしまった。
「どうした?」
だから砂木沼が驚いた顔をしていたんだ。自分でも今にも泣きそうな顔をしている気がしていた。頭の隅に物語がチラついていたのだ。ただ本を読んで泣いていただけなのに、砂木沼を酷く心配させてしまった。
「と、取り敢えず中に…っ!」
ドアの閉まる音が遅く感じた。閉まると同時に玄関に光が無くなる。けれども全身は暖かいものに包まれていた。鼓動が体の中で響く。二人分。
「本を…読んでたんだ」
「本?」
「ああ。ギリシャを舞台に書かれたロシア人作家の作品」
奴隷兵士だった一人の男が立ち向かう話はバッドエンドだった。恋人の浮気現場を目撃してその恋人を刺し殺した話は言葉は怖いけれど内容はとても綺麗で哀しかった。他にも自分を守ってくれた男を殺してしまった話や友人を見殺しにしてしまった話、兄弟が死んだ話と自分を犠牲にする話。明るい話は一つも無かった。それでも読み終わった後に残るものは陰鬱なものではなかった。何故かすっきりとしているのだ。それは涙を流したからなのかは分からないが。
内容を思い出しながら無言で砂木沼にしがみつく手に力を入れた。砂木沼も何も言わず抱き締めてくれた。
いつまでそうして居たのかは分からない。けれども部屋の中ぬ形作られていた影は多少変化しているようだ。光が若干柔らかく感じた。
「砂木沼を好きになれて良かった」
「ふ…どうしたんだ?」
「別に。ただ」
「ただ?」
俺は幸せ者だと思っただけだ。
その言葉は唇を重ねることで声と言う音に乗ることは無かったけれど、どうと言うことはない。唇を離して微笑めば、彼もまた同じように笑っていたのだから。