「はああぁぁぁぁぁああっ!?」
日の入りから小一時間は経ち、外はすっかり暗くなっている。
そんな昼間とは違う静けさの中に一人の怒りとも驚きともつかない声が響いた。
復路も飛行機だった。
初めこそ前科者の紫原を警戒していた黄瀬であったが、しかし日中を娯楽施設で活動したことで流石の運動部も疲れ果てたらしい。往路と違い、機内は水を打ったように静まり返っていた。
時折、誰かの寝息やイビキが聞こえてくる。
そしてそれは黄瀬の班も例外ではない。
班内で席順は変えても黄瀬の隣が紫原であるのに変わりはなかった。変わった所と言えば、紫原が窓際で黄瀬が真ん中、右隣の通路側に班長が座っていることだ。
隣でお菓子袋を片手に熟睡する紫原に黄瀬も即行で警戒心を解き、彼もまた眠りについた。
だから復路のことは全く記憶にない。
京都で買ったお土産は手配されていた宅配便で直接渡す予定であった人の元へ送った。
本来ならば直接手渡すべきであるが、量が量だけにそうもいかない。だからその旨を書いたメモを同封して、手続きを行ったのだ。
実家や親戚の家は勿論、所属しているモデル事務所やお世話になっているスタイリストさんにモデル仲間、ご贔屓にしてくださる会社のお偉いさんや雑誌編集者、更に仲良くなったベテランのカメラマンなど彼のコネクトは多岐に渡る。余談であるが実家に送るついでに洗濯物も入れておいた。
そうして一度は荷物を減らしたわけだが、空港で荷物を預ける際にお土産を詰め込んだキャリーバッグとお土産屋さんで購入したその施設限定の大きな買い物袋も渡していた。勿論、ここでのお土産は大阪で購入したものである。
荷物を抱えて家に帰れば返って来るはずの「お帰り」よりも先に母親から洗濯物も送った事に対して文句を言われたのは、凡そ一時間前の事だ。しかも着払いにしたことにも文句を被せてくる。
取り敢えず、適当に謝って荷物を部屋へ置きに行ったのがあれから五分くらい経ってからである。そこで着替えを持って脱衣所へ向かい入浴していたのがついさっきの事で、あがったばかりの黄瀬の髪からはポタポタと雫が滴り落ちていた。
何とはなしに洗面台の側に置いてある体重計を足で適当な場所へズラし乗ってみた。そこまでは良かった。
ふと顔を上げて目の前にある洗面台の大きな鏡を見たが最後、デコルテ――特に鎖骨辺りから胸元にかけて見覚えのない赤い痕が目に入る。
既に測定が終わっている体重計など目に入らず、上体を倒してより鏡に近付く。
(虫さされ? でもいつ? っていうか全然痒くな……)
そっと指で箇所に触れてみる。まるでそこから何かが伝わってくるかのように、黄瀬の脳裏にはとある出来事が浮かんできた。それも今日、数時間前に起こったのだから忘れるはずもない。
そして冒頭へ戻る。
――ドクン、ドクン。
その時の事が鮮明化されればされる程、段々鼓動が激しくなってきた。
「あ……あ……あおみっ……ありえねっ……」
それ以上鏡に映る自分を見ていられなくて顔を両手で覆いながらしゃがみ込む。「有り得ない」とか細く震える声で何度も何度も口にする。
そんな時だった。
「うるッさいっ! 何時だと思ってるの!」
「うわああああああああっ!」
脱衣所の入り口に背を向けていたとは言え、予期せぬ母親の登場に思わず叫んだ。
ビクッとあかさまに肩が跳ねる。痕によるものと実母の登場で心臓が破裂しそうだ。
恐る恐る首だけ振り返るとどこか腑に落ちない表情と視線が交わる。
「母の声を聞いて悲鳴を上げるとはどう言うことかな?」
「や、ちょっ、開けるならノックか声かけるかしてっ! ホント、心臓に悪い……」
「なーにが心臓に悪いことがあるか」
普段は自分よりも低い位置にある二つの目が、今は遥か上にある。仁王立ちで此方を見るその目はいつも以上に偉そうだ。……何て、口には出せないが。
「一応年頃の息子なんスから……」
「頭悪いくせに一丁前に色気付くな」
「ヒドい……って言うかそれ頭の良し悪し関係な」
「しかも家で風呂上がりにタオルを腰に巻くとかモデルか」
「や、モデルっス……。一応」
まさかこれと似たような会話をする日が二年後に待っていようとはこの時の黄瀬が知る由もない。
反論しても敵う相手ではないと分かっていながらもつい、口が出てしまう。きっとそれは血縁関係者であるが故だろう。もしも相手が赤司や緑間であったなら、早々に退いていた筈である。
「いつまで息子の裸見てるんスか」
と、口にしようとしたがしかしそれは喉の奥で飲み込む。
母親の視線がどうも下半身辺りに注がれていると気付いたのだ。
「え、何……」
「ハハーン。もしかしてアンタ、太った?」
ニヤッと笑う顔は神経を逆撫でするには充分である。
そしてその発言で、母の視線が体重計へと向けられていることに気付いた。
「なッ……!」
「旅行中バスケしてないからかなぁ? モデルは体型維持しなくちゃいけないから、大変ねぇ〜」
わざとらしく抑揚をつけられひくりと口端が動く。しかし反論する前に扉は閉められ、スリッパの音が遠ざかって行った。
しゃがんだまま深呼吸を繰り返し、何とか落ち着きを取り戻す。しかし気付けば羞恥に驚きが加わって速度を上げていた鼓動は僅かな怒りを抱いた事ですっかり大人しくなっていたのだった。取り敢えず、ではあるが。
ふと、「そう言えば乗ったっきり数値見てないかも」と思った黄瀬は、顔を下に向ける。
そして先程より短いが、そこに情けなさを加算した声が漏れた。
「ふぎゃっ!」
ただの運動不足か、はたまた俗に言う幸せ何とやらか。明確な原因は分からない。
パタッ、と前髪から滴り落ちた雫が表示されている数字の上に小さな水溜まりを作った。
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