京都に着いて荷物を預け班行動で祇園などを散策したのがほんの数時間前の事だ。そして今は旅館の宴会場とも呼べる大広間で夕食の時間を過ごしていた。
目の前には郷土料理が食膳に乗ってずらりと並べられている。
代表者が前に出て来て食前の挨拶をマイク越しに言うと、一同が一斉に「いただきます」と手を合わせた。
「美味しいっス!」
「後で売店行こー」
黄瀬が舌鼓を打っていると隣で紫原が咀嚼しながら誘う。
「いやいやいや。紫っち、さっき散策の時もお土産屋さんでご当地限定のお菓子買ってたじゃないっスか。っていうか食べるか喋るかどっちかにして欲しいっス」
「えー、黄瀬ちん一緒に行ってくれないのー?」
「何が楽しくてこの後の自由時間に大の男が揃いも揃って売店でお菓子漁るんスか」
「むー。じゃあいい。一人で行くー」
少し不貞腐れたようにお吸物を啜る紫原にどことなくもやもやを抱える。
矢張り一緒に行った方が良いのだろうか、何て考えもしたがしかしどう転んでも行く気にはなれなかった。
土産屋で散々見て回ったのだから、恐らく旅館内の売店もそう変わらないだろうと思ったのだ。
「黄瀬君、この後空いてるんですか」
「黒子っち!」
背後から聞こえてきた声は部活の時にしかあまり話す機会がない、黄瀬の教育係――黒子のものだ。
大広間と言えども人数が人数なだけに背中合わせになっている人と人の間は一人通れるくらいの幅しかない。思っていた以上の至近距離で、――加えて存在感が酷薄な――突然黒子の声がしたものだから驚きを隠せない。
危うく口に含んでいたお茶を噴き出す所だった。
「黒子っちの班、お隣さんだったんスね」
「まあ。で、黄瀬君はこの後空いているんですか」
黄瀬の言葉をサラリと軽く流し、もう一度同じ言葉を繰り返す。
疑問文のはずなのだが心なしかそれに聞こえなかったのは、黒子の語尾があまり上がっていなかったからだろう。
「空いてるっスよ? さっき紫っちに売店行こうって誘われたんスけど、流石に旅行初日の思い出がお菓子って寂しすぎっしょ」
「では、僕と付き合ってください」
「いっス」
「待って」
快く承諾しようとした黄瀬の言葉を紫原が待ったをかけて遮った。ついでに、頷こうとしていた黄色い頭も大きな手の平でガシッと掴むとそれ以上首が動かないよう力を入れて固定する。
掴まれた一瞬、捻り潰されそうな力加減だったので思わず小さく悲鳴を上げた。
「ちょっ、何なんスか!」
「黒ちん、今の言葉は頂けない」
「何故ですか?」
「いやいや俺、紫っちと一緒に売店行かないっスよ?」
「それは残念だけどそうじゃない。黒ちん、今の言葉はお誘いじゃないよね」
黒子よりも数十センチ高い所から見下ろす紫原と、紫原よりも数十センチ低い所から見上げる黒字の視線が空中でぶつかる。
未だ頭を掴まれたままの黄瀬は二人の間に漂う妙な空気には気付いていたがしかしそれが何なのかまではさっぱりだ。
紫原と黒子に行ったり来たりしながら視線を遣る。それには戸惑いの色が明け透けに見えていた。
観念したのか黒子が一つ溜め息を吐く。
「分かりました。言い直します。黄瀬君」
「はい?」
「僕に付き合ってください」
「いっスよ!」
売店以外なら、と付け加えた黄瀬の頭を紫原がぐしゃぐしゃとかき混ぜる。
「もぉー、そこまで言わなくてもいーじゃん。黄瀬ちんのいーけーずー」
「ちょっ、わっ、もうっ!」
「あ、そうだ」
撫でていた手の動きをピタリと止めると再び固定するように力を入れた。徐々に近付く顔に黄瀬の瞳が大きく揺れる。
「へっ、ちょっ待っ……むらさ」
紫原の唇が近付くと咄嗟にギュッと目を瞑った。
「黒ちんの言葉には気を付けてね」
それだけ耳元で呟くと、スッと体が離れていく。最後にもう一撫でしてから固定していた大きい手も離れた。
意味が分からなくて目を白黒させる黄瀬に紫原が不敵に笑う。
「……されると思った?」
「〜〜〜っ!」
ペロリと舌舐めずりをする紫原にカッと黄瀬の顔が赤くなる。
それを満足そうに見ると、紫原は再びおかずに箸をつけた。
その様子を面白くなさそうに黒子が見る。
「黄瀬君。紫原君に何かされたんですか?」
「へっ? あ、やっ、何……にもっ!」
「……そうですか」
あからさまにわたわたと顔を更に赤くして慌てふためく黄瀬から顔を背ける。
そして、彼の名を読んだ。
反応した黄瀬は驚きのあまり声を失い、目を丸く見開いていた。
「黒子っち……?」
「黄瀬君」
いくら影が薄いとは言え、あまりにも気配が無さ過ぎたのだ。だから、いつの間に距離を詰められていたのかすら分からなかった。
そして、その行為さえも離れていくまで気付かなかった。離れる際に――恐らくわざと出した――小さな音がそうさせたのだ。
ミスディレクションとは使うと便利だが使われると非常に不便である。
「この後の自由時間に話してくれないと、彼と同じ事をします」
――では、また後で。
それだけ言い残すと、黒子の体は食膳の方へと向けられた。
わなわなと唇を小さく震わせ些か瞳が潤んでいる。赤い顔は耳や首まで伝染したらしく、どうやっても全て隠すことはまず不可能である。
近いのに触れられない背中に文句の一つや二つ言ってやりたい。けれども振り向かれるのが怖い。そんなジレンマを抱えて黄瀬は黒子の背中を見つめたまま動けずにいた。
「もう……やってるっス……」
消え入りそうな声で呟かれた言葉は誰に届くわけでもない。
しかしそんな黄瀬の目の前では、満足げに口角を上げる黒子がいたのだが、彼がそれを知る由もない。
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