修学旅行――それは、学習活動の一環として教師が引率の元、行われる団体旅行である。
しかしそんな本来の意味を常に頭に入れて行動する者など殆どの学生には見受けられない。そして例外なく彼ら――帝光中の二年生一行もそれにあたる。
「すっげえ! 飛んだ!」
「ちっせぇ! ヤベェ!」
「お前ら静かにしろっ!」
動物園よろしくあちこちから歓声が沸き起こる。それを一々注意しなければならない担任や副担任は、まだ旅行初日の――しかも目的地にさえ未だ着いていない――序盤だと言うのに疲れきった顔をしていた。
喉を枯らすまいと持参したのど飴が早速役に立つのも間もなくだろう。
ジャンボジェット機が空を飛行している様はいつ見ても不思議である。こんな巨大が荷物と人間を乗せて飛んでいるのだ。余程の馬力がないと出来ないだろう。
飛行機が発達してくれたお陰で、移動時間も大幅に短縮されたのだから画期的な発明である。
「んー……」
「どうしたの、黄瀬ちん?」
「ああ、アレっス」
「アレ?」
「ほら、新幹線がトンネル入った時とかにもなるじゃないスか、気圧の変化で。耳が詰まった感じ」
「あー」
出発前に空港の売店で購入した空港限定のお菓子を貪りながら紫原が頷く。窓際に居る黄瀬は先程から耳を塞いだり、首を傾げたりと機敏に動いていた。それが気になって仕方がなかったようだ。
紫原と黄瀬の席は三人席である。通路側に座っている男子はCAに借りた毛布で熟睡中だ。
席は旅行中の班別に座っている。大概窓際に座りたがるのだが、黄瀬達の班は六人中四人――黄瀬と紫原を除いたメンバー――が通路側を熱望していた。
理由はただ一つ。
「CAと一番距離が近いから」だ。
「バスケ部のみんなはどうしてるんスかね」
紫原と会話をして気を紛らわそうと話題を持ち込む。
「さあ。あ、でも黒ちんは本読んでる」
「あー、それっぽいっス」
「‘ぽい’じゃなくて、読んでる」
「何で分かるんスか?」
「見えるもん」
長身故のスキルとでも言おうか。スナック菓子を頬張りながら少し首を伸ばして紫原が言った。
因みに本日二袋目だ。
「青峰っちは寝てるだろうし、緑間っちはラジオかテレビか視聴してそうっスね。キャプテンはー……」
「うーん……将棋?」
「いや、流石にここじゃ無理あるっしょ」
けれども赤司ならばやりかねないと黄瀬は苦笑した。
会話が途切れると再び耳が気になり出す。
「黄瀬ちん、外見てたら?」
「あー、そっスね」
窓の外に向き直る黄瀬に後ろから覆い被さるように紫原も窓に顔を近付ける。標準よりも大きい二人は自然と体が密着する形になった。
「紫っち?」と振り向こうとしたものの、しかし今自分が動くと紫原の視界を遮ってしまうと考えた黄瀬は大人しく窓の外を眺めることにする。
さらりと流れた紫色の髪が頬を擽る。
「ねぇ、黄瀬ちん」
「なんスか?」
「飴あげるからコッチ向いて?」
「あ、どもっス……!」
一度は躊躇われた行為だが、振り向けと言われたのだからこればかりは仕方がない。
そう思って振り向いた時だった。
タイミングを合わせたように開いたままの黄瀬の唇が紫原のそれと重なる。最後の「ス」はきちんと発音される前に彼の口に吸い込まれた。
「ンッ……んぅっ、ンン」
「……」
絡まり合って溢れ出しそうな二人分の唾液を必死に嚥下する。
苦しさに涙腺が刺激される。うっすらと膜が張られた大きい瞳には何を考えているのか全く読み取れない紫原の目が映った。
読み取れたのは、彼が楽しんでいると言うことだ。
口内を舌で嬲られ続け、漸く解放された時に下の上を転がるレモン味の飴の存在に気付く。
紫原を見れば、既に自分の席に身を埋めていた。
「どうした黄瀬。顔赤いぞ?」
涙目じゃん。と前列のシートからひょっこり顔を出したのは同じ班の班長を務める男だ。
「はんちょ〜」
「何だ何だぁ?」
今にも泣きそうな声で黄瀬が呼ぶと、彼はぎょっとした顔で紫原を見た。
「えー、別に何もしてないよー? ただー」
「ただ?」
「鼻と口を押さえて空気抜きしただけー」
「なぁんだ。黄瀬も大袈裟だな」
「や、ちょっ、班長!」
「俺も寝るわ」
「はんちょ」
「黄瀬ちん」
話を聞いてと言いたかったが、しかしそれも叶わずじまいであった。覗かせていた顔はシートへと戻り、更に呼ぼうとした名は紫原が遮るように被せてきたので失敗に終わった。
返事の代わりに彼を見れば、新しいお菓子の袋を片手に持つ姿が目に入る。
そして、何も持っていない方の手で黄瀬の耳に触れた。
瞬間、ビクンと体が反応する。
「弱いの?」
「そ……ゆ、ワケじゃ……」
「ねぇ」
「なに……」
喋りながら尚も耳を触る紫原の手から逃れようと身を捩る。けれどもそんな行動も狭い座席の前では何の抵抗にもならなかった。
「耳、治った?」
耳にチュッと唇をつけたまま囁く。
息が触れる度にゾクゾクと背中から力が抜けそうになる。
「治……った、っス」
「そ」
満足そうに笑って、紫原の体は離れていく。
ドキドキと高鳴る心臓に「あれ?」と心の中で首を傾げる。一体何に反応しているのか皆目見当もつかないのだ。
お菓子を食べる音も漁る音も耳がクリアな音で拾っていく。
「俺も寝るっス! おやすみ!」
「おやすみー」
窓に寄りかかるように頭をくっつけて瞼を下ろす。
視覚が働かなくなったことで他の感覚機能が研ぎ澄まされたような気がして、結局目的地に着くまで一睡も出来なかった。
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