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 授業を終えたばかりのフロアは解放感からかざわざわとした騒々しさを孕んでいた。各々の教室のドアが開くとその喧騒さはフロア全体を包み込む程までに成長する。
 授業の最後に毎回行う確認テストのプリントを生徒分小脇に抱えた源田が苦笑しながらカウンターへと戻ってきた。そんな彼を紙パックのコーヒー牛乳を飲みながら綱波条介が見ていた。源田が席に着いたのを見計らって、彼は壁に凭れていた体勢を解除する。空っぽになったパックを握り潰しながら源田に近付いた。

「ったくガキ共は元気だよなァ」
「俺は綱波さんも負けてないと思いますけど?」
「どういう意味だよ」

 源田の切り返しに眉間の皺が若干濃くなった。

「そのままですよ。だって綱波さん、どうせ今朝も早くに海に行ったんでしょう?」
「当然だろっ! そこに海がある限り俺は波に乗り続けるぜ!」

 太陽の光を反射した海のようにキラリと眩しい笑顔を見せる。そんな綱波にやっぱりと言わんばかりに源田は苦笑を漏らした。

「海に行って学校にも行って、さっきまで授業やってて……確か今日はこの後高三の授業もするんですよね?」
「おうよっ!! この塾は特に受験に対してマジだからな……一、二年にする授業みたく肩の力は抜けねーよなぁ」
「そうですね。此処を卒業していった生徒達はみんな3年用のカリキュラムは鬼だって口を揃えて言ってました」

 昨年の初春、志望校に合格した生徒達がその旨を報告した時に話していたのを思い出す。しかしそうは言いながらも合格した喜びが感情の大半を占めていたせいか、皆の表情は破顔していた。厳しい壁を乗り越えたからこそ身に付いた自信と達成感は底知れない。

「そう言や塾長がお前も勤務一年が経つから受験対策の担当もさせるかーって話を社長から聞いたらしいぜ?」
「響さんが?」
「普通なら中三からなんだけどな。源田の場合はもしかしたらいきなり高三も有り得るんじゃね?」
「え……」
「砂木沼は勤務一年経たずして受験対策任されてたけどな!」

 同い年とは思えねー、と笑いながら言う綱波はどこか嬉しそうだった。
 話している間にもカウンターの前を複数の生徒が別れの挨拶をしながら通り過ぎて行く。本日のカリキュラムを終了した生徒だ。学生鞄を手にし制服に身を包んだ少年少女が続々とエレベーターに向かっていた。中には競争しているのか階段を駆け降りる者も居る。その逆で階段を上がる生徒もちらほら居た。そんな生徒は十中八九自習室に籠もるのだ。

「源田ぁー」

 帰る人も疎らになった頃、カウンターに一人の少年が姿を現した。その声に反応して振り向くとその声の主は満足そうに笑った。

「おっ前なぁ、先生くらい付けろよな」
「痛って! ……だって源田が良いって言ったから」
「あれ? 俺、そんな事言ったっけ?」

 先程潰した紙パックを少年目掛けて投げると見事に額に当たった。そして狙ってかまぐれなのかは不明であるが、そのまま近くのゴミ箱に吸い込まれるようにして入っていった。
 額をさすりながら言う少年に源田は頭に疑問符を浮かべながら首を傾げて言葉を返す。その姿を見て「そんなんだからナメられんだよ」と半ば呆れ気味に吐かれた綱波の言葉に益々疑問符を飛ばすのだった。

「で、何か用か?佐久間」
「今度の模試で全国十位以内に入ったら、休みの日に俺とデートして」
「……デ……え?」

 佐久間と呼ばれた少年は顔の右側を眼帯で覆ってはいるものの左側は見えているので表情が読み取れないことは無かった。しかしニコニコと人当たりの良さそうな笑みを浮かべてはいるがその深層心理までは読み取れない。
 困惑しているのか言葉に詰まる源田に気を悪くするでもなく、佐久間は言葉を繰り返した。

「だから、デート」
「誰が?」
「源田センセェが」
「誰と?」
「俺と」

 内容を停止間際の脳内で咀嚼して咀嚼して更に咀嚼して漸く理解出来たのか、みるみる目が大きく見開かれる。何か言葉を発しようにも何とも形容し難い感情が邪魔をして上手く喋ることが出来ない。

「ご褒美チョーダイ」
「ご褒美ってお前なぁ……」

 あからさまに呆れた表情の綱波にはお構い無しに佐久間は話を続ける。

「俺、源田からのご褒美があれば頑張れるんだけどなぁ〜」
「いや、しかし……」
「ダメ?」

 やっと声が出せるまでには回復したらしい。それでもまだぎこちなさが残っていた。

「俺と出掛けるのがご褒美に相当するとは到底思えないのだが……」
「は?そんなわけないだろ! おまっ、自分の価値全ッ然分かってねぇな!」
「え、あ、すみません……?」

 つい佐久間の勢いに呑まれて謝ってしまったがよくよく考えてみれば何故自分が生徒に怒られているのか分からなかった。そんな二人の遣り取りに一部始終を見ていた綱波が溜め息を漏らす。しかしそれは佐久間達とはまた違う声によって掻き消されてしまった。

「抜け駆けかよ、佐久間クン?」
「げ……不動!」
「ほう……それは感心しないな、佐久間」
「鬼道さんっ」
「お前態度あからさま過ぎ」

 佐久間と同じ制服を身に纏った男子生徒が二人、増えた。それを見た綱波は「面倒臭ぇ」とげんなりした表情で天を仰いだ。

「鬼道さんを置いてぬ、抜け駆けだなんてそんなこと俺がするわけないじゃないですかっ!」
「今まさにしようとしてただろうが」
「黙ってろハゲ!」
「煩いぞ二人とも」

 一触即発しそうな空気を鬼道がピシャリと言い放ち鎮める。そこには見えない上下関係が有るのか無いのかいまいちはっきりはしないが、一つ言える事は佐久間が鬼道を敬い不動を蔑んでいるということだ。

「しかし源田先生とのデートが褒美と言うのならば乗らないわけにはいかないな」
「佐久間クンが十位以内っつーんなら、俺は五位以内に入ってやるよ」
「フ…二人とも甘いな。ならば俺は全国一位になる事を条件としよう」
「罪作りだな、お前も」
「え?」

 ヒートする三人の遣り取りを黙って見つめていた綱波は時間を確認すると源田の頭を乱暴に撫で回した。突然の行為に訳が分からず「え? え?」と本当に困ったような顔で見上げる源田に思わず苦笑する。

「もうそろそろ始まるし、俺もう行くわ」
「あ、お疲れ様です」
「おー。オラそこ退けよ邪魔だお前ら。通れねーだろうが」

 少々乱暴な言葉使いでも行動と声音はそれに反比例してとても優しいものだった。そしてそれとなく自然にヒートしていた場の空気を鎮静していた。

「あ、そうだ」

 綱波が階段へと向かう途中で足を止め、振り返る。忘れ物でもしたのだろうかと考えていた源田だが、どうやら他の三人も似たような事を考えているらしい。荷物を持ってカウンターから出て行くかも知れないと思ったのか入り口から少し離れた。それに被せるようなタイミングで綱波が口を開いた。

「そのご褒美、俺のは次の受験対策用の授業を終わらせたらってことで宜しくな!」

 太陽でも飼っているのではないかと思わせるくらい綱波が見せた笑顔は明るくて、こんなに笑顔が似合う人もそう居ないのではないかと思った程だった。そんな綱波が姿を消してから暫くして若干放心していた佐久間、鬼道、不動は先程の言葉を脳内で反芻する内にハッと現実に引き戻される。そしてその意味を理解したのも同時だったのか口をそろえて叫んだ。

「そんな条件呑めるかー!」

 階段を上りながら背後から聞こえてくる小さな叫び声に綱波は一人肩を震わせながら笑いを堪えていた。


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