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 ビジネス街に聳え立つ複数のビルの中に一際異彩を放つ建物があった。一見セレブ御用達ホテルかと見間違えてしまうほどに高級感が漂っている。この界隈で就職が決まった新入社員は必ず目の前を通る時は二度見するのだった。
 扉前には警備も兼任する二人のドアマンが常駐している。入ってすぐの所にフロントがあり、受付役は日や時間帯によって異なるが二人乃至三人がデフォルトだ。中に入れば広々としたロビーが眼前に広がり、待合室も兼ねている為に座り心地の良さそうなソファーが幾つも設置されていた。
 入り口もあるこの建物の一階のセキュリティーは特に万全でフロントでシリアルナンバー入りの個人カードを機械に通さなければ奥には進めない。更に、最奥部にあるエレベーターもまた、そのカードを通さないことには動かない仕組みだ。因みに、ロビーの一角に併設されているカフェもフロントを通り抜けなければ入ることは出来ない。
 そんな場所に一体どんな人が入るのだろうかと興味を抱くのもまた新入社員によく有りがちな思考である。そして今日もまた一人、駅の改札口から出て来たばかりの初々しさを隠し切れていないスーツ姿の男性がその建物を棒立ちでそれを凝視していた。そして我に返り歩き出そうとした時、入り口の上部から突き出ている屋根のような部分にとある文字を見つけ、再び体が硬直するのであった。

 何故なら、横書きにもかかわらず建物に不釣り合いな行書体で「稲妻塾」と書かれていたのだから。


 時は過ぎ、時間帯は朝から昼に変わっていた。私服姿で稲妻塾に入って行く一人の青年がいた。ドアマンに笑顔で挨拶と簡単な労いの言葉を掛け、彼らの仕事だと言うにもかかわらずお礼を口にする。中に入る為の手順を踏み、エレベーターに乗り込む。
 手持ち無沙汰の為に何気なく腕時計で時間を確認していると、彼が押した階――6階へと辿り着いた。

「おはようございます」

 扉が開き、一歩踏み出すのと同時に挨拶をする。その声にいち早く気付いた長い黒髪の女性が返事をした。

「あら、源田君。今日は早いのね」
「午後の講義が休講になったので。瞳子さんこそどうしてここに? 今日は確か中三の筈では?」

 こてん、と首を傾げると瞳子と呼ばれた女性は手にしていたファイルを掲げて見せた。

「ちょっと事務作業に必要な物をね」
「なるほど。塾長も大変ですね」
「そうでもないわ。昨日、源田君が手伝ってくれたお陰でもうすぐ終わりそうなの」

 柔らかな笑みを浮かべ、カウンターから出て行く。エレベーターの前を通り過ぎる瞳子に思わず源田は声を掛けた。

「エレベーター使わないんですか?」
「高一クラスにも用があるの。一階分降りるくらいでエレベーターを使うのも……ね」
「ああ」

 なるほど、と続く言葉は敢えて言わなかった。短い言葉でも抑揚次第でニュアンスは伝わるのだ。カツン、カツンとヒールの音が遠ざかって行く。各々の階のフロアには薄いカーペットが敷かれているが、階段にはそれがない。その為、音が反響していた。
 音が小さくなった頃、源田は先程まで瞳子がいたカウンターへと足を運んだ。席についてパソコンを起動させる。起動を知らせる音が鳴るのとほぼ同時にエレベーターの扉が開いた。

「……早いな」
「砂木沼こそ」
「午後の講義が無くなってしまったのでな。どうせだから今日使うプリントでも仕上げてしまおうかと……源田は?」
「全く一緒だ」

 クスッと笑うと砂木沼も微笑んだ。
 只でさえ大人の雰囲気を纏っている砂木沼だが、私服ではなくスーツを身に着けている今、その空気は倍増されているように思えた。フォーマルな格好でなくてはならないという規定は無い(但しラフな格好、主にジャージ類は禁じられている)が、彼は常にスーツを着て授業をしている。曰わく、いずれ就活で嫌でも着なければならない時が来るのだから今の内に慣れておくのも悪くない、とのことだった。
 源田の隣に座りパソコンを起動させる。一つ一つの所作が洗練されていて美しかった。そんな砂木沼に見入ってしまっていた源田が我に返ったのは、画面から視線をずらした彼と目が合ってからだった。砂木沼の方は既にデスクトップが表示されている。慌てて自分のパソコンに目を向けると、彼の物より早々に起動していたにもかかわらず一定時間以上操作がなかった為に画面はデスクトップからスクリーンセーバーへと変わっていた。

「どうした?」
「な、なんっ……でもないっ!」

 あわあわと慌てる様子に砂木沼がフッと小さく笑みを零す。気恥ずかしさでいっぱいの源田はそれに気付かず、速度の上がった鼓動を落ち着けるのに内心必死だった。
 USBを差し込んだ所で徐に砂木沼が席を立つ。カウンターから出てしまう前に一旦立ち止まり、上半身だけを捻って源田の方を向く。

「地下に行くが、何か必要なものはあるか?」
「地下……ああ、資料室か。何階だ?」
「1階だが、別についでだからその他の階でも構わない」
「あ、えっと……じゃあ3階と4階にも行ってもらえるか?」
「4階となると社会か。分野は?」
「世界史と日本史。秋葉名戸出版の。あ、3階のは尾刈斗書店のリスニングの教材を頼む」

 ファイルデータを開きながら答える源田に返事の代わりに小さく笑う。

「え、あ……すまない……」
「いや。お前が使い易い教材を使うのが一番だからな」

 初めの遠慮はどこへやら、自分の発言に自然と溜め息が出た。もう一度謝罪の言葉を口にすると、ポンポンと大きな手の平が頭を軽く撫でる。驚いて顔を上げる頃にはその手は離れ、砂木沼がカウンターから出て行く所だった。

「何か、子ども扱いされてないか? 一つしか違わないのに……」

 言いながら撫でられた箇所にそっと触れる。何だかそこだけが熱を持っているかのような感覚に襲われた。つくづく、スーツ姿が似合い過ぎているのは反則だと思うのだった。
 チラリとパソコン脇に置いてある卓上カレンダーに目を遣る。そこには赤い文字で「ff」と書かれていた。

「今日は前半フロントだったか……」

 フロントとなれば授業開始よりも早く行かなければならない。そんな事を考えつつ、机下に置いていた荷物を手にして立ち上がった。

「俺もそろそろ着替えようかな……砂木沼が戻って来る前に」

 二人分のパソコンをスリープ状態にしてからカウンターを出て行く。
「13」と書かれたボタンが押されたエレベーターは静かに上昇していった。


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