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 幸せな時間はそう長くは続かない。次の幸せはいつ訪れるのかも分からない。そんな不安感を抱く余裕も無いくらい、今の源田は忙しかった。
 財政状況が一気に怪しくなったのだ。そのお陰で源田は会社に、自宅に戻っても自室に籠もりっぱなしである。

「お帰り」
「ただいま佐久間」

 ここ最近の源田は日付変更線を跨いで帰宅することが多くなった。そして日が昇る時間帯に出勤と言う生活が続いている。
 佐久間が源田の荷物を受け取ろうとすればやんわりと断られる。これも忙しくなってからだ。鬼道が源田の部屋に飲み物を持って行けば机の上に広げられた資料の真ん中でパソコンのディスプレイだけが皎々と光を放っていた。部屋の明かりをつける僅かな時間すらも惜しいのだろう。

「今の状況は仕方無いって思ってるけど、少しくらい休んだらどうだ?」
「ありがとう」

 源田の力無い笑顔に佐久間は奥歯を強く噛んだ。日に日に窶れて行くのが目に見てわかる。それを知っていながら何も出来ない自分が悔しかった。

「今、俺が粘らないと困る人が沢山出てくるんだ」

 疲労が溜まっているはずなのに、それでも笑顔で弱音を上げないことがかえって辛い。それは鬼道だけではなく、他の執事も同じ気持ちだ。

「社員にだって帰る家があるのに、こちらの都合で何日も会社に束縛させるわけにはいかない」
「しかし今はそれ所じゃ無い筈だ」
「そうだが、残業代をケチった分俺が頑張ればいいだけの話だろう?大丈夫。絶対何とかする」

 再びパソコンに向き直る。もう何を言っても聞かないだろう。鬼道は気付かれない程度の溜め息を吐く。それは観念の色を含んでいた。
 温まったポットを傾けてカップに注ぐ。湯気と共に癖の強い紅茶の香りが広がった。「ありがとう」と小さく笑った顔は疲れが滲み出ている。

「そんな……まさか……」

 心の奥で思っていたことが知らない内に言葉になっていた。しかし運が良かったのかなんなのか、皮肉なことに源田が忙しいお陰で聞かれなかったようだ。脳裏を過ぎった一つの事象に鬼道は眉間に皺を寄せた。

(こんな事が起きないようにして来たつもりだったと言うのに。……何故だ)

「源田、今月と先月のデータを比較したものだ」
「頼まれていた過去10年の資料を持ってきた」
「佐久間、砂木沼。すまないな、ありがとう。そこに置いててくれ」

 指定された場所に置く。紙の重さが聴覚を通してでも分かるくらい鈍い音を出した。

「なあ、俺たちに手伝えることがあったら……」
「でも、これは俺の仕事だから。佐久間達はいつも通りに動いてくれたらそれで充分だから」

 いつも通り。そう言って鬼道が淹れた紅茶のカップを見せるように手に取った。

「佐久間達が変わらずにやってくれることが支えになるから」

 それはほんの一瞬だった。久し振りに見せたいつもの笑顔は花火のよう。美しく、眩しく、そして儚く散る。「ありがとう」と言われたみたいだった。

 力の無い蚊の鳴くような声が、聞こえた気がした。



201205.加筆修正

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