仕事の合間に一息吐こうと源田はふと窓の外を見た。手入れが行き届いた広い庭の中に二つの影を確認する。思い立ったように部屋を出る。絨毯が敷き詰められた廊下を歩いて庭へと繋がる大きなガラスドアを押し開けた。眩しい日の光に思わず目を細めると目の前には会いに来た人物が驚いた表情で立っていた。
「休憩しようと思って窓を見たら砂木沼の姿が見えたから」
「そうか」
「こいつも気持ちよさそうだな」
こいつと呼ばれた白と茶色のふわふわした長い毛を纏った犬――執事全員が源田に似ていると言うので源王と名付けられた――は尻尾を振って喜びの意を表している。初めの方こそ形振り構わず吠えたり飛び付いてきたりしていた。しかし砂木沼の躾が良いようで、今では大人しくて懐っこい犬だ。
丁度餌の時間だったようで、砂木沼の右手に持たれている餌が入った皿を物欲しげな瞳で見つめている。餌を待ち焦がれている純粋な瞳だ。しかし、皿が目の前に置かれても口を付けずに大人しく座っていた。
「砂木沼の教えをしっかり守っているんだな」
「こいつが賢いだけだ」
砂木沼が「よし」と合図を出すと嬉しそうに餌にかぶりつく。その様子を砂木沼が石段に座って眺めていた。だから源田もその隣に腰を下ろす。
すると酷く驚いた様子で見て来るので苦笑せざるを得なかった。それに気付いた砂木沼は「すまない」と小さく口にするものの、源田はあっさりと「此方こそすまない」と謝り返す。お互いこれ以上何を言えば良いのか分からず沈黙が続く。後に、どちらともなくぷ、と吹き出して笑い合った。そしてその笑いが治まった頃合を見計らうように砂木沼が口を開く。
「お前には感謝している」
「砂木沼?」
「どこの馬の骨とも知らない私を拾ってくれたこと」
「そんな言い方は良くないぞ」
「事実だ」
食事が終わったらしく、源王は石畳の上で寝そべっている。そんな源王をじっと見つめながら砂木沼は言葉を紡ぐ。優しい目は時々何かに堪えているように曇らせながら。
「何故、私を連れてきた」
「……迷惑、か?」
「自分の主人にこんな事を言うのも不躾だとは思うが、今は私の質問に答えて欲しい」
その真っ直ぐな瞳に見つめられ、吸い込まれそうになる。息をするのさえ忘れているような感覚だ。しかし、その瞳の奥には戸惑いと不安が織り交ぜられた色を見せていた。
「砂木沼に来て欲しいって思ったから、じゃあ理由にはならないか?」
「出来ればもっと具体的に聞きたいんだが」
「そうだな……これだけは先に言っておく。砂木沼を連れてきたのは決して同情なんかじゃない」
「……そうか」
その言葉さえ聞ければ別に良かった。しかし何となく、ほんの少しの好奇心が会話を続けることを望んだ。
「あの日は俺が佐久間の目を盗んで一人で外に出た時だったんだ」
突然夕立に遭って散々だったな、と笑顔を向けてくる。砂木沼もその日を思い出し、確かにと頷いた。
「公園でずぶ濡れになりながらずっと捨て犬の前にしゃがみ込んでいるお前を見つけて、声を掛けた」
懐かしむようにうとうとし始めている源王を見る。大きくなったな、と呟くと源王の名前を呼んだ。眠たそうにトロンとした瞬きをしながらゆったりとした足取りで源田の元へ行く。源田を隣に伏せさせると顎を自らの太股の上に乗せた。ゆっくり頭を撫でれば気持ちよさそうに目を瞑り、夢の世界へと旅立って行く。
「最初は何をしているのか分からなくて、暫く眺めていたんだ。雨で薄暗かったし、視界も悪かったし。その時は既に俺もずぶ濡れだったな……」
本格的に太股に重みを感じると源田の頬が緩む。小さく「おやすみ」と呟かれた言葉はとても優しい響きを帯びている。その様子を砂木沼は何も言わずにただじっと見ていた。
「全く動く気配が無かったから近寄ったら砂木沼と源王が居た」
「ああ」
ここで漸く砂木沼が相槌を打った。今までは相槌は愚か頷きすらしていない。ただ黙って源田を見ていただけだ。
「何をしてるんだって訊いたら」
「私は、犬を見ている、と答えた」
「濡れているぞって言ったら」
「そうだな、だけだったか」
「そうそう。で、どうして此処に居るんだって訊いたんだ」
「そしたら私は、私がどこかに行けば犬が独りになってしまうと言ったんだったな」
当時の出来事をリプレイするように互いに言葉を紡ぎ合う。お互いに良く覚えているものだと思ったが、忘れるわけが無いのだ。忘れるわけが無かった。
「帰らないのかと言う質問にも砂木沼は厭な顔一つせずに答えてくれたな」
「帰る家が無かったから、そう言ったまでだ」
「驚いたよ。雨が降る数時間前に家が全焼だなんて」
「私も驚いた。その事を話した直後に‘その子と一緒に家に来ないか?’とは」
ふ、と笑う砂木沼の表情は懐古したからかとても穏やかだった。何だか悔しかったので源田は頭を砂木沼の肩に置くと、そのままゆっくり体重を掛けた。
「それは、……その、あまりにも唐突に言ってすまなかったとは思う。でも、あの時の砂木沼は自分とこの子を重ねてしまったからただ見ているだけだったのかなって思ったんだ。砂木沼にこの子を撫でて欲しかったから」
そこまで言いかけでぷつりと言葉が途切れる。同時に頭を撫でる仕草も止まっていた。依然として頭を預けたままだが、ゆっくりと目を閉じて再び開ける。目を閉じればあの薄暗く雨に包まれた公園が、目を開ければ陽の光を一杯に浴びた庭が源田の瞳に映る。
「砂木沼に、手を伸ばして欲しかったんだ」
この子の為に。砂木沼自身の為に。
「砂木沼が今こうして居てくれていることで、鬼道や佐久間の負担も軽減出来たし俺も砂木沼も笑って一日を送れるんだ」
屈託のない笑顔は無邪気と言うよりも全てを包み込むような、そんな気がした。源田の頭から解放された腕で彼の頭を撫でる。すると先程の源王と同じように目を瞑った。
(そっくりだ……)
不謹慎だと思いながらも、砂木沼は家が燃えて良かったと考えてしまった。このお人好し過ぎる人を主人に持てて良かった、と。
「あまり休憩が長引くと、佐久間に怒られるぞ」
「そうだ。仕事の途中だった!」
立ち上がろうとした源田は、中途半端にお尻を浮かせた状態でピタリと静止する。ゆっくりと顔を動かし砂木沼を見ると同時にお尻を再び石畳に付けた。その動きに「ギギギギ」と擬音が付きそうなくらい動作はぎこちなかった。
「どうしよう砂木沼……動けない」
困ったと言わんばかりにその柳眉を「ハ」の字に下げて砂木沼を見る。それはまるで犬が判断に困って主人を見上げるような、そんな光景が目に浮かんだ。
別に起こしてもまた直ぐに眠りにつくのだから、と言おうとした言葉は声に乗せられることは無かった。その代わり、今の日溜まりに相応のふわっとした笑顔で別の回答を口にする。
「頑張れ」
ポンポンと撫でるように頭を軽く叩く。そのまま砂木沼は「そろそろ洗濯物を取り込む時間だ」と言って立ち上がった。置いてけぼりを食らうと感じたのだろう。源田はすかさず砂木沼のズボンの裾を掴む。見上げてくる顔は明け透けに泣きそうだ。
もう少しだけ困った表情を見たかったなと残念がる自分に苦笑する。一言断りを入れて源田の太股と源王の顎の間に手を滑り込ませ、軽く持ち上げた。それにより出来た隙間を利用して源田は足を抜く。持ち上げている時、源王の目がうっすらと開いたものの直ぐに眠りの淵に誘われて行ったようだ。
「砂木沼、ありがとう」
「……いえ」
ゆっくりと先程まで源田が座っていた場所に顎を置く。優しい日差しと二人の眼差しに見守られながら、穏やかな寝息を立てる。それを目視した砂木沼と源田はまさに破顔一笑である。
それはまるで、今の幸せを象徴するようでもあった。
201205.加筆修正
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