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 数学や社会学は勿論のこと政治経済、帝王学、語学や法に関することまで全て鬼道に教えて貰っている。彼の教え方は兎に角無駄が無く且つ解りやすい。そのお陰もあってか源田も今では様々な知識がついていた。
 しかしそんな源田も知らないことは山ほどある。それを埋めようとするのが彼の好奇心であり、またそれが執事達を悩ませる種の一つでもある。

「少し休憩を入れようか」
「俺はまだ出来るが?」
「いや、あまり煮詰めても効率が悪いからな」
「分かった。じゃあ休憩しよう」

 源田がペンを置いたのを見て鬼道は目を細めた。徐に立ち上がり源田の机に設置してある電話に手を伸ばす。内線のボタンを押して一言、二言喋ると受話器を置いた。

「今、砂木沼にお茶を頼んだ。少し待つことになるが……」
「有り難う。何だか悪いな」
「これが俺達の仕事だ。気にするな」

 向かい合うように柔らかい革素材のソファーに腰を下ろす。どれもオーダーメイドで一級品の家具が揃った部屋は、その部屋の主同様に柔らかい雰囲気があった。
 暫し沈黙が訪れる。しかしそれは決して気まずいものではなかった。けれども僅かな空気を鬼道は読み取る。それ程鋭い感覚と読む力を持っているのだ。

「どうした源田。何か俺に言いたいことがあるんだろう? まあ、大体の予想はついているが」
「あ、いや……別に」
「お前は顔に出やすいからな。それ以前にお前は素直だから嘘は吐けない奴だ。……俺と違ってな」

 最後の方は独り言のように呟かれ、源田の耳に届くことは無かった。源田は観念したように息を吐くと閉めていた紐を解くように唇を開く。

「後悔……してないかなって」

 伏せられた長い睫毛が不安の色に染まった瞳を隠す。それをゴーグルの奥から覗く紅い瞳は見逃さなかった。同時に鬼道の胸の奥がツキンと痛む。

「何度も言っているだろう。俺は自分の意志で此処へ来た」
「でも、鬼道にとってここの仕事は役不足に感じるんじゃないか?」
「そんな事はない。それに俺はお前が思っている程能力が高い人間でもない」

 鬼道はそう遠くない昔を背もたれに体重を預けながら思い出していた。そう、あれはまだ褪せる事のない記憶。けれども昨日今日と言える程新しくもない。
 元々鬼道は源田家の執事ではない。別の人の付き人として働いていた。しかしとあるパーティーで源田を見掛けた時、その立ち居振る舞いが鬼道の心を突き動かす何かを感じた。だから自分の意志で今まで勤めてきた場所を離れたのだ。
 そこまでして貰うほどの人間ではない、当時の源田は戸惑っていた。後押しをしたのは佐久間だ。鬼道がこの屋敷に頭を下げに来た時の源田の顔は忘れられないだろう。

「鬼道がそう言ってくれるのなら……」
「ああ、それでいい」

 漸く笑ったな、と伸ばした腕は源田の髪の毛をくしゃりと撫でた。擽ったそうに目を瞑る源田は今にも消えてしまいそうな気がして思わず手の動きが止まった。

「鬼道?」
「ああ、すまない」

 開いた瞳には、一つの曇りもない純粋な光が宿っていた。強欲さの欠片も感じられない。だからこそ、鬼道は不安にもなる。

「源田、地形は頭に入っているな?」
「ああ、勿論」
「じゃあ、此処から一番近い公園に抜け道のような木々に囲まれた狭い道を知ってるか?」
「え、あ、まあ……」

 源田の目が泳ぐと徐に不敵な笑みを湛える。撫でていた手を引き、腕を組んだ。

「あれは元々道では無かったんだ。しかしある日、近所の飼い犬が脱走した際其処に隠れていたことが原因で穴が出来た。それ以来子ども達が通るようになり、あのような道になったんだ」
「へぇー……本当に鬼道は凄いな。何でも知ってるから話しているだけで勉強になる」
「お褒めに与り光栄だが」

 一旦そこで言葉を切ると、鬼道は組んでいた腕を解き撫でていた手を源田の目の高さまで上げる。その指に挟まれていたのは一枚の花弁だった。

「無断で屋敷を抜け出すのは感心しないな」
「あ……」

 くすくす笑いながら花弁をテーブルの上に置く。

「俺を出し抜くのはまだ早いぞ」
「すみませんでした」

 姿勢を正して素直に頭を下げる。これではどちらが上の立場か分からないな、と呆れた風に漏らせば顔を少し上げた源田はふにゃっと笑った。

(この笑顔に惹き付けられたのかも知れないな)

「流石佐久間が崇拝するだけはあるな!」
「崇拝は止せ」
「照れなくてもいいのに」
「時々佐久間にも困ってるんだ。仮にも先輩に当たるのにこれではどちらが……」
「上の立場か分からない?」

 そう言って源田は言葉を盗み嬉しそうに笑う。けれどもその笑顔も長くは続かなかった。ふと穏やかに細められた目は迷いがない。しっかりと鬼道だけを捉えていた。

「あまり上とか下とか考えるな。俺は俺だし、鬼道は鬼道なんだから」
「……」
「立場を弁えるのは大切なことだが、外できちんとしてくれればそれでいい。此処はは俺の家だが、鬼道達の家でもあるんだ。せめて自分の家にいる時くらい力を抜いても良いんじゃないか?」
「お前にだけは勝てる気がしない」

 言葉の意味を理解していないのか、源田が小首を傾げる。眉間には浅い皺が刻まれていた。答えをはぐらかす前に扉をノックする音が部屋に響いた。そのタイミングの良さに思わず口元が緩む。

「さあ、お茶にしようか」
「そうだな」

 源田は返事をする代わりに自らが扉を開けて笑顔で砂木沼を出迎えた。その様子に鬼道は目を丸くしたが体の力を抜くようにゆっくりと息を吐く。

「俺は……」
「鬼道! どうせだからみんなでお茶にしようっ」

 心情を表した苦虫を噛み潰したような表情は源田の言葉でいつもの自分へと引き戻された。小さくかぶりを振って立ち上がる。

「ならば広間へ行こう」 

 その部屋の扉が閉まる音が、今日は重たく鬼道の心に響いた。



201205.加筆修正

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