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 亡命者である王は砂の城で生きている。そこで厳かに呼吸をし、穏やかに瞳を閉じる。王位を剥奪された我が王の名は、このわたしにもわからない。確かに存在しているはずなのだが、初めから無いものとされているのだ。これがわたしの生きる国のおかしなところであった。国民は物事の地層を掘ることができない。露出した部分だけを見て全てを判断し、正しさは空気に触れている層だけだと思い込んでいる。露呈などという言葉は皆無であった。そういった意識の集合体である国民は、国のことを第一に考えていた王を追放した。
 その頃、国の政治は傾いていた。その原因が王であると決めつけたのだ。しかし、王は政治には一切着手していない。王は側近の決定を国民に伝えていたにすぎなかったのだが、国民は王が政治を仕切っていると思っていたため、国が安定しない原因を王とし、誰よりも国を思っていた王を追放したのだ。その時の王はしばらく沈黙した後、おもむろに王座から立ち上がった。表情はなく、どのような気持ちだったのかわからなかった。ただ、何もなくなったのだということはわかった。役目を失ってしまったのだと。目的を奪われた人生とは一体どのようなものだろう。信じていた者達に裏切られた心の色は何色だろうか。なぜ王は無表情だったのか。それらをわたしが問う資格はない。なぜなら、王に追放を告げたのがこのわたしであるからだ。
 わたしがこの世に生まれ落ちた理由は、わたしが国民になるためであった。わたしは国民の意思を持つ。国民の意思を人工的に植えつけられ、それを王に伝えることがわたしの役目だ。わたしが王に初めて会ったのは、わたしが産声を上げた瞬間だという。実母が涙を流しながら、幼いわたしに子守唄として語っていたのをよく覚えている。再び王に会ったのは、わたしが追放を命じた時だった。国民の意思はすぐには変わらない。月日をかけてゆっくりと変化するため、その間、王に報告することがなかったのだ。随分と長い間、わたしは役目を失っていたのである。そのせいであろうか、わたしには国民の意思ではない、自分の意思を持っていた。わたしは国民でありながら、一人の人間であった。これは本来あってはならないことだ。それ故に人前でわたしの意思を出したことはない。表面しか見られていないのだから、気づかれるわけがなかった。そういった国に、わたしは生まれた。
 わたしは現在、王を再び国の王として迎えるために砂の城へ向かっている。
 王がいなくなったことで国はより傾いた。その原因も国民であった。国民は王がいなくなった後の政治を受け入れられなかったのだ。愚かな国民はようやく王の存在する意味に気づいたのだった。そして、再び王を求めた。わたしは国民の意思によって砂の城へ行くのだ。わたしはわたしが恥ずかしい。わたしの一つの意思はあまりにも愚かだ。しかし、抗うことはできない。これも全てわたしの意思なのだから。
 慣れない浜辺の砂に足を取られながら一歩を踏み締める。城はもう眼前にある。潮の香りが鼻腔をくすぐった。波の音が心地好い。地平線に溶ける空は恐ろしいほどに澄み渡っていた。こんなにも穏やかな場所で暮らしてみたいものだ。
 わたしの国は山に囲まれた小国で、海を見たことがない者がほとんどだ。わたしもこれまでに海を見たことはない。太陽の光を受けて光る水面を持ち帰ることができたならどんなにいいだろう。わたしが見たものは国民には映らない。国民の見ているものは確かにわたしに届いているというのに、皮肉な話だ。
 潮の香りを胸いっぱいに吸い込み、わたしは足を止めた。数メートル先にある砂の城は脆いように見える。少しの風で崩れてしまいそうだ。この中にわたしの王がいる。招かれた客ではないが、わたしは正面から城へ入ろうとした。その時、歌が聴こえた。よく響くバリトンだ。紛れもない王の声であった。鼓膜からするりと入るその声はとても美しい。感動の最中、わたしの心に黒い点が落ちた。王の傍にSがいるという噂は嘘ではなかったようだ。
 Sというのは王室に仕える聖職者だ。人前に出ることを嫌い、神のみを尊敬する人間だ。王は信仰深く、Sに神の話を聞きに行っていたらしい。Sと私はミサの時間に時折話す程度の仲であったが、私はSのことが好きではなかった。Sは王に仕えていながら、王を敬わない。王のために生きている私は、自分の存在を無にされているようで気持ちのいいものではなかった。ここ数年めっきり姿を見ていないと思えば、突然Sが王の亡命を手引きしたという噂が立った。王に対し無関心だったSが何故そのような行動をとったのかはわからない。王がSに救いを求めたとも考え難い。だからこそわたしは憤慨した。王のために生きていながら王を迫害する自分と、神以外に興味を示さないが王を救ったS。そんな自分の惨めさと、Sに対する憧憬を綯い交ぜ、戒めとして憤怒に姿を変えた。わたしは意地でも王を連れ戻さねばならない。国民の願望と、自分の自尊心のためにも。
 砂の階段を上っていく。そして城の中へ足を踏み入れた。そこには光が遮断された空間があった。装飾や調度品が一切ない広間は味気ない。王はどこだろうか。ひんやりと涼しい広間を進んでいき、砂の塊でできた扉を開ければ、身体が壮麗な歌声に包まれた。その瞬間、わたしは生を感じた。王は壁に空いた穴から海を眺めて歌っていた。その姿は一枚の絵画のようであった。わたしは靴底に砂を擦りつけながら王へ近づく。その音を聞いて王が振り返った。象のような瞳がわたしを映している。わたしは跪き、王の言葉を待った。
「Kか。一つの音を持たぬ群集の象徴よ」
「はい。再びお目にかかれて光栄です」
「今度は何だ?」
 王は吐き捨てるようにそう言った。わたしという存在が王の中にあったということに喜びを感じながら、辺りをぐるりと見回す。Sの姿はなかった。Sはもう国にはいない。王の傍にいるものだと思っていたが、わたしの検討違いだったようだ。あの海の色にでも惹かれて航海に出たのかもしれない。Sが王の傍にいないことはわたしにとって好都合だった。王はSの言葉を神の言葉として扱う。Sが国に戻るなと言えば、王はそれに従ったことだろう。だがSはそのようなことは絶対に言わない。Sは国民など心の隅にも置いていないのだ。Sの世界は己と神で完結している。ほんの気紛れで王が存在していたとしても、すぐに消えてしまうに違いない。わたしはおもむろに立ち上がり、王を見上げた。そして微笑してみせると、右手を心臓に当てる。
「お迎えにあがりました」
 王は木製の粗末な椅子に腰を落とし、目を細めてわたしを見た。
「私を追放しておきながら、まだそのようなことを言うか」
「憤る理由は痛いほどにわかります。ですが、わたし達は王を求めています。貴方が再び王として君臨する日を首を長くして待っているのです」
「いずれまた私から奪うのだろう」
 王は何をとは言わなかった。
「これから、民に学ばせればいい。全てを見せればいいのです」
「くだらん」
「なぜ?」
「私は戻らぬ」
 そう言うと王は長く息を吐いた。背もたれが軋む。あのように固く小さな椅子に座っている王を見る日が来るなど、過去のわたしはいつ想像しただろうか。無性に羞恥心を覚えた。あの威厳ある姿はどこへ行ったのだろう。まるで細胞一つ一つが縮んだようだ。
 肌が粟立つ。背後から獣が歩み寄って来ているような気がした。わたしは今にも頭から喰われてしまいそうだ。酸の海に溺れて消える未来が見えた。ふわふわと浮いた意識を地面に立たせ、わたしは浅い呼吸を幾度か繰り返した。どうやらわたしは国民でない、本当のわたしという存在に気づいてしまったらしい。馬鹿馬鹿しくて笑みが零れる。わたしがずっと黙っているので、王は歌を再開させた。その歌を美しいとは感じない。ただのバリトンだ。わたしも結局はSと同じだ。わたしは意味を与えられなければ何もできない王のことなど、毛の先ほども尊敬していない。だが、わたしという塊は王を尊敬している。これまで本当のわたしの思いに気づかなかったのは、わたしの存在を肯定したかったからだ。王がいなくては、わたしは呼吸ができない。王とわたしの価値は同等だ。王が蔑まれれば、同時にわたしも蔑まれる。それは我慢ならない。本当は他人に依って生きていたくはない。だが、役目を失うのはあまりにも恐ろしい。わたしが生きるために王が必要であるなら、その逆もあるだろう。王がわたしに依って生きればいい。それならば国民は満足し、わたしの自尊心は傷つけられることはない。
「王よ、貴方は王でいなくてはなりません」わたしはあくまで冷静に言う。「貴方の名は王なのだから」
「何が言いたい?」
「貴方の役目は歌うことではない。貴方の傍にはもうSがいない」
 砂に飼われた愚鈍な王は、無表情のまま確かに拳を握り締めた。わざと鈍感でいたようであった。そのほうが幸福なのかもしれない。わたしも鈍感でいれば、醜い感情で汚れることもなかった。だが、人間は無知を恥じなくてはならない。そういう仕組みで世界ができている。国民は国という檻から一度出て大海を見るべきだ。己の小ささを知ることになるだろうが、その意識は損ではない。より良い国を作るのならば、より良い人間を作ればいい。その一歩として、王を再びわたしの王として迎え、礎を作ろう。王は身体から力を抜くと、息を吐くように言葉を紡いだ。
「Sは私に言ったのだ。役目を持たぬ人間はいないと。奪われたのならば新しく生み出すか、与えられればいいと。私は行動できるが生み出せぬ。そんな私にSは生き方を教えた」
「ええ」
「それでも奪うか、Kよ」
「はい。代わりに与えましょう。貴方が王であるために。わたしがいなくては王になれない哀れな人よ」
 王がかすかに口角を上げ、椅子から立ち上がった。木製の椅子がぱたんと倒れてばらばらになる。よく見ればその椅子は流木で作られていたようであった。王がわたしの隣までの距離を味わうようにして歩いて来る。背の高い王はわたしに「無礼者が」と呟き、扉をくぐった。王の後に着いて行く。味気ない広間を通り抜け、砂の階段を下りる。外へ出れば、白く浮かんだ太陽が眩しく、広がる海は先ほど見た時よりも彩度が増しているような気がした。地平線に小さな三角形が浮かんでいる。あれは何だろうか。わたしも学ぶことが山ほどあるようだ。
生温い風が吹いた。すると、攫われたように砂の城が跡形もなく崩れた。王は全く気にしていない様子で国へ向かい歩いて行く。それは頼もしい背中であった。わたしはその背中に引かれるように足を踏み出す。わたしの国に辿り着くまでの数日、王と二人で歩く道で何と出会い、何を感じるだろうか。国民として、わたしとして、新たな国を作る材料が見つけられればいい。


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