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「どれだけ難解な問題を解いたって、それは誰かが提示したもので、多くの人がその答えを知っている。だから僕は自分だけの答えがほしい。孤独が温まってしまう前にね。さあ、君に問題を出そう。ここに閉じ籠る僕に、誰かが外へ出させるきっかけを与えた。出来るなら一緒にいてほしい。だけどその誰かがずっと傍にいる保証はないし、僕は誰かを、いや、彼女を引き止める権利を持たない。名前が決まるまで傍にいてほしいと言ったまま、延長線を引いて、手を止める瞬間がわからなくなっている。名前を与えたら、糸が切れるみたいに、いなくなってしまうんじゃないかと……。それはとても恐ろしい。ねえ、では僕は、どうしたら君にずっと傍にいてもらえるのかな」
私は、破ってはいけないシールドの綻びを見付けてしまったんだって。だから、もう少し外へ開いていかないと。そう言って、すがるように目を細めて笑った顔を、よく覚えている。細く、頼りなくて、多くの物を持っていない彼は、大きな紙に細々とした落書きをしたり、奇妙な装置をいじりながら、いつもここにいる。沸き上がるように生い茂る葉と、小さな花が集まって、人の頭くらいになった空色の円の輪の中で、笑ったり、考えたり、傷付いたりしながら、私のことを待っている。
ここ、ジサシールドには、いつも雨が降っている。

雨垂れが心臓のリズムを刻みながら、地面を叩く。大きな粒が落ちると、泥が跳ねて、周りを汚してしまうから、私は隅っこが大嫌い。それでも時々綻びが気になって、隅まで様子を見に行く。そうするとリンくんはくすくすと笑う。弾けた雫が、私の顔や手に当たるのを知っているからだ。君は本当に学習しないよね、と言って、面白そうにしている。リンくんにとって、学習しない生物は、無意味で無価値で、とても愛しいものらしい。
私はそのことを馬鹿にされても、黙って流してあげる。どんなに傷付く言葉を言われても、何も言い返さない。リンくんは自分がひどいことを言っているという自覚がないのだ。前に一度、無垢な罵倒にいらいらして、リンくんのことを殴ったことがある。すると、リンくんは目を丸くし、呆けてから、前兆もなく泣き出した。声もなく叫ぶようにして泣くリンくんに、私はびっくりして、縮こまる彼に寄り添ってごめんね、と繰り返した。
なんてめんどうくさい男の子なんだろう。自分のめんどうくささを知っているからこそ、こんなところに閉じ籠って、誰にも迷惑をかけないようにしているのかもしれないけれど。おそらく、これからもずっと、そうして生きていくんだろう。私はそんなリンくんが可哀想で、とても愛しかった。

ジサシールドの東屋には、リンくんが作った鉱石ラジオや、宇宙ゴミの欠片などの、使い方がわからないものや、意味のないものが置かれている。ここがリンくんの所有する東屋なのかは知らないけど、他に誰かが来たこともないので、誰にも文句は言われない。ここはリンくんの城で、また、世界なのだと言う。
「危ないよ」
顔を上げたと同時に、リンくんの手の中でミミズのような青い光が散った。一瞬で消える。リンくんは何事もなかったかのように、頬杖をついてハミングしている。
「青色って好きなんだ」
「その装置なあに? また新しいの?」
「線虫っていうのがいるんだけど」
リンくんの悪い癖は、人の話を無視して、自分の話題を強引に進めるところだ。私は慣れてしまったし、構わないけど、他の人がこうされたら嫌な気持ちになるんじゃないだろうかとおもう。こういうところはもっと訓練が必要だ。
「死ぬ時に青い光を放つんだって。いいな、羨ましい。僕もそうやって死にたいな」
「……死ぬとか言わないでよ」
「そうしたらその光で誰かを温められるかもしれないのにね。温もりで、これまでの恩を返せたらいいのに」
口ではそんなことを言っているのに、リンくんは諦めたような顔をして、謎の装置を片付け始めた。私はごろりと寝転がり、リンくんを眺める。
リンくんはいつも青みがかった制服を着ている。それはリンくんによく似合っていて、初めからその格好を義務付けられているみたいだった。先週、それと同じものを着ている人を駅前で発見した。気になって後をつけてみると、この辺りでは有名な学校に辿り着いた。しかし彼は学校へ行っていない。私は毎日のようにここに来ているけど、リンくんは必ず私を出迎えてくれて、「君の名前はまだ考え中」と言うのだった。
私はリンくんがジサシールドに入る瞬間も、出て行く瞬間も見たことがない。夕方になるとリンくんは私を追い出してしまう。一緒に帰ろうと誘ってみても、リンくんは、帰るところを見られるわけにはいかないんだ、とか呟いて、私の背を叩いて帰らせるのだった。
「そういえば、君に言っておかないといけないことがある」
「なあに?」
荷物を押しやって、私と向かい合うように寝転がったリンくんは、うまく飛べない羽虫を指先で弄びながら、アスファルトに小雨が吸い込まれるように、静かな声で言った。
「明日僕はここへ来ることが出来ないんだ。何でも他の世界に所属する僕が役割を失おうとしているらしい。僕はそれでも構わないんだけど、それだとまあ、何て言うのかな。困るんだって」
「誰が困るの?」
「僕も困っているんだけど。とにかく明日、僕はいない。しかしまた誰かが綻びを見付けてしまうのは、僕にとって苦痛なんだよ。不安だ。だから代わりを寄越すよ。君も来るとおもうけど、うん、よろしく」
矢継ぎ早に言い終えると、リンくんは横たわったまま、かこんかこんと音を立てて爪を噛み始めた。心が不安定になると、リンくんはこうして、どこか一点を見つめながら爪を噛む。こうなったらしばらくどうにもならないので、私はリンくんの髪を撫でて、飽きたらうたた寝をすることにしていた。



衣擦れの音がした。半透明な時間が過ぎて、リンくんが起き上がる。彼の伸びた爪はぼこぼこして、ひどく傷付いている。せっかくいい爪の形をしているのに、台無しだ。
「肉と魚、あと卵と……」
「え?」
「どれが好き?」
「突然どうしたの?」
「いいんだ、答えは僕の中にある。楽しみにしていて」
リンくんは微笑し、私の頭をそっと撫でた。
彼の思考回路はよくわからない。わからないことは怖いと、リンくんは言っていた。わからないということがわかる瞬間、一番の孤独を覚えるらしい。
人は決められた枠組みの中で窮屈に生きて、周りの様子を窺いながらそっと身動きを取る。それが出来るのが、一般の、普通の人間だ。そして一定のラインに到達出来ない人は病気で、飛び抜けると異端となる。そう語ったリンくんは眩しそうに紫陽花を眺めていた。分類することで、彼等は安堵している。それは愚かなんだって。でも私はそんな難しいことを理解出来なかった。理解しなくても生きていけると証明している。それが、リンくんが私を必要としている本当の理由なんだとおもう。
リンくんというのは、彼の本当の名前ではない。親が名付けてくれた名前は別にあるらしいが、知らなくていいことだからと、教えてくれなかった。ジサシールドの中で、リンくんは自分で名付けた「リン」という記号を使う。そうすることで、自分が認められるようになるんだ、と照れ臭そうに笑っていた。
リンくんが言う世界の中で私が認められるには、リンくんから名前を受け取る必要がある。それにはリスクもあるという。私を加えるということは、私がいなくなった時に欠けるということなのだ。それはリンくんにとって何よりも耐え難いことで、心を大きく傷付け、リンくんの精神を壊してしまう可能性がある。
私はずっとリンくんの傍にいてあげたいし、支えていきたい。けれど私の気持ちはリンくんに届いていない。裏切られるのが怖くて、期待出来ないのだ。その気持ちはちょっとわかる。それをどうにかしてほしいと、私は言うことが出来ない。
「今日はもう閉じよう。このままここにいても、何かが変わるわけでもない。さあ、先に行って」
私の背中を軽く叩いたリンくんは、怯えを隠して無理矢理笑顔を作っていた。微かに震えているようにも見える。
「リンくん、明日が怖いの?」
「心配してくれてるの? どうもありがとう。僕はきっと大丈夫だ。うまくやる。明日は任せたよ」
「うん」
屋根から出ると、雨が私を叩いた。濡れた葉を掻き分けると、雫が垂れて、きらきらと光る。綻びを広げないよう、慎重に歩く。紫陽花の繁みを抜けると、石畳の道が現れて、私は目が覚めたような気持ちになる。ジサシールドから遠退くと、いつも雨は止んでいる。
立ち止まって振り返る。爪の先くらいの、空色の点描で行き止まりのように見えた。今日もジサシールドは、紫陽花迷彩によって守られている。



私はいつもと同じように、駅前でご飯を食べてから、ジサシールドへ向かった。
昨日までの湿度はどこに行ってしまったのか、今日は珍しくからっとしていて、空が澄んでいる。行き交う人も、誰も傘を持っていない。ぽかぽかしていて、気持ちが良い日だ。こんな日にリンくんと散歩が出来たら、どれだけ素敵だろう。一日中ごろごろしているのではなく、街を歩いて、一緒に新しい発見が出来たなら、私はどれだけ幸せな気持ちになることだろう。我ながら細やかなことだな、と笑って、ジサシールドへと急ぐ。
行き止まりにある紫陽花を、リンくんは紫陽花迷彩と呼んでいる。紫陽花は一見壁のようにそびえているが、実は違う。一ヶ所だけ、人が一人通れるくらいの道があるのだ。この道は葉と花で隠れていて、ちゃんと見てもわかりにくい。掻き分けてようやくわかるくらいだ。その道を進んで行くと、大きな丸い空間が現れる。そこがジサシールドだ。ジサシールドの中心には東屋があり、リンくんがいる。しかし今日は、全く別の人物がいた。
いつも雨が降っているはずのジサシールドは、今日に限って晴れていた。駅前が晴れていたとしても、ここだけは違っていたのに、何故だろう。雨の音がしないせいか、全く別の世界に迷い込んでしまったような感覚に陥る。そろりと東屋に近付くと、私の気配に気が付いたのか、ベンチでリンくんのノートを見ていた老人が、ちらりとこちらを見た。
「ああ、貴女ですか。こんにちは」
「こ、こんにちは」
穏やかで、伸びのある声だった。垂れ下がった目尻からは優しい印象を受け、丁寧に分けられた白髪は綺麗に光っている。かっちりとしたスーツもよく似合っている。
老人はリンくんのノートをぱたんと閉じ、元あった場所に重ねると、一瞬だけにこりとして、優しい表情になった。
「貴女のお話はよく坊っちゃんから伺っていますよ。仲良くしていただいているようで、ありがとうございます。これからもどうか、よろしくお願いいたします」
「私は何も……」
リンくんのことを坊っちゃんと呼ぶ老人は、どこか寂しげな表情をし、立ち上がった。私は東屋へ入り、コンクリートの上に座ってみたものの、落ち着かなくてそわそわしてしまう。そんな私の様子を察知したのか、老人は口を開いた。
「これまでここに立ち入ることは許されておりませんでしたが、昨日坊っちゃんからここへ参るよう指示がありましてね。ここを知っているのはお前だけだからと。やはりこの季節、景色は素晴らしいですな。見事な紫陽花です。そうおもいませんか?」
「……おもいます」
おずおずと答えると、老人はふっ、と息を吐いて、視線を私から紫陽花へと向けた。
「ご存知ですか? 紫陽花の花、少なくとも我々が花だと認識している部分、あれは本当は花ではないのです。花に見えるものは装飾花といって、ガクというものなのですよ。中心に、見えますか? 丸いものが。あれが本当の花です。小さいでしょう。まだ蕾ですが、そのうち咲いてしまいますよ。綺麗だと断言するには少々難しい、細かな花が。しっかり見付けて差し上げませんと、装飾花の見事さに見落としてしまいます。これはまるで人の構造のようですねえ」
私は驚いて目を見開いた。饒舌に話し始めたその様子が、リンくんにそっくりだったからだ。他人に教えるだけでなく、自分に再確認させているような口調で話す姿が重なる。老人は続ける。
「坊っちゃんはその小さな花を人に理解されることを怖がっていらっしゃいますが、見付けられる心配がなければ、怖がる必要もないのです。坊っちゃんは多くのものに守られていらっしゃる。貴女もそのうちの一つです。貴女のお話を伺ってから、坊っちゃんは随分と楽しそうな顔をしていらっしゃいます。私たちでは叶わなかった、変化が……」
ぼやけた言葉の先は、空気に霞んでしまった。老人は目を細めて、やはり寂しそうに微笑む。何故だかわからないが、初めて会ったのに、私はこの人のことを愛しいとおもった。
「申し遅れましたが、私、羊と申します」
羊さんは会釈をすると、じっと私を見つめた。どうしていいかわからず、私も見つめ返す。リンくんの時にはなかった、妙な居心地の悪さを感じる。丁寧な言葉で話されているからかもしれない。
「坊っちゃんは少し神経が過敏なところがありますでしょう」
「まあ……。情緒不安定というか、何て言うか」
「私のせいなのです」
「羊さんの?」
「坊っちゃんが小学生の頃です。旦那様のお葬式で、坊っちゃんは、私に向かって笑うんですよ。よかったね、と。気が付いていたのでしょう、頭の良い子ですから。それなのに私は厳しく叱ってしまいました。それから坊っちゃんは外部からの攻撃に敏感になられまして。私はすっかり勇気をなくしてしまいました。坊っちゃんを傷付けるのではないかと、今でも言えずにいる。言わないことがまた、坊っちゃんを苦しめるのかもしれませんが」
「あの……」
「私も花を理解されることが怖いのでしょうね」
ノートの表紙を優しく撫でる羊さんの手は、ほっそりとしていて綺麗だった。爪は切り揃えられていて、自然な光沢がある。リンくんと違う、大人の手だ。
羊さんは腰を落とし、背もたれに体重を預けると、長く息を吐いた。私は掛ける言葉を持ち合わせていないので、いつも通り寝転がって、昼寝をしようと目を瞑る。
雨垂れの音がしないジサシールドは悲しくなるほど静かで、何もないのだということを実感させた。私はこれまでこの場所で何をしていたのだろう。毎日の習慣だったのに、何もおもい出せない。

少し前にリンくんが私に出した問題がある。私はその答えをリンくんに返していない。問題を出したリンくんが、私の答えを聞こうとしないのだ。いつだってそうで、リンくんは質問するくせに、答えを求めていない。他人を通すことで、自問自答している。これまで、リンくんはきっと一人ぼっちだった。だから、自分がどうしたいのかさえ、わかっていなかったのだ。
リンくんと羊さんには特別な繋がりがある。しかし、羊さんではだめだったのだろう。リンくんを救ったのは、私らしかった。それに大きな意味はない。私が偶然綻びを発見して、ジサシールドへ踏み入れて、リンくんに出会った、それだけ。たったそれだけのことが、リンくんを変えたのなら、彼はこれから、もっと変わっていけるはずだ。その具体的な方法を、私はどう探せばいいのだろう。



「時間です。帰りましょうか」
羊さんが笑う。私は起き上がり、綻びへと歩く。そのすぐ後ろを羊さんがついて来るので、私は少し緊張して、葉を大きく揺らさないように道を通った。誰かと一緒にここを通るなんて、考えたことがなかったので、無性に気恥ずかしくなる。紫陽花迷彩を抜けると、私達は自然と向かい合った。羊さんを見上げる。
「本日はお喋りが過ぎてしまって申し訳ございませんでした。しかし、申し上げることが出来てよかった」
「羊さん……」
「明日は坊っちゃんがいらっしゃるとおもいます。お話を聞いてあげてください」
「わかりました」
「それではお気をつけて」
羊さんはその場から動かない。私を見送ってくれるようだ。背中に注がれる視線に耐えられず、早足で帰路につく。途中、振り返ると、羊さんはいなくなっていた。私とは反対の方向に行ったみたいだ。リンくんと羊さんは一緒に住んでいるのだろうか。そうだとしたら、リンくんが帰る方向もあっちに違いない。気になって、行ってみようかという気持ちになったが、羊さんがまだいるかもしれないので、やめてしまった。



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