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 ぞわりと、私の細胞が歓喜した。明石さんがこの私に悩みを相談してくれる。憧れてやまない明石さんが、私と何かを分かち合おうとしてくれている。私は口角が上がるのを堪えきれずに、眉を下げて目元をなるべく細くし、嬉々を押さえ込んで心配をしている顔を装った。
明石さんは木製の机に寄り掛かると、これまで後ろ手に持っていた作品であろう物を背後に置いた。私は教卓に寄り掛かり、付かず離れずの位置を保ったまま、明石さんの吐息に耳を澄ます。赤くなり始めたばかりのイチゴの色をした唇が開いた。
「先生、私ね、殺してしまったんです」
 それは私の予想を遥かに上回っていた。一瞬理解が遅れたが、私の思考は倫理を隔離し、明石さんが誰かを殺めてしまったところを想像し始める。理想の死の象徴と生々しい死が密接に寄り添う。共鳴して、ざわざわと罪が広がっていく。私にはその罪の映像がひどく純粋なものに見えた。
「殺したの、自分の子供」
 その言葉で頭の中にできていた一枚の絵は霧散した。
「子供?」
「そう、いたんです。確かにここに」
 明石さんはお腹を愛しそうに撫でると、ぎゅう、と目を瞑りながら笑顔を作ろうとしていた。
「いたのに……」
 明石さんの絞り出した声はあまりにも切ない。空っぽのお腹を包むブレザーを握り、やがて離したその手は青い血管が透けて見えていた。それを見た途端、私の中にいた明石琴子が生命として呼吸を再開した。私の二次元的理想ではない、目の前にいるありのままの明石琴子を美しいと思った。そして、この明石琴子がまた私の憧れになるだろうということも簡単に予想できた。
「軽蔑しますか?」
「……しないよ」
「なら、よかった」
「その、中絶したってことだよね?」
「はい。私、お母さんだったの」
 明石さんはどこか晴れたように言った。しかし、自分の子供を堕胎したことに罪悪感があるようだ。そうでなければつらい笑顔を見せたりなどしない。
「明石さん、大丈夫?」
「何がですか?」
「無理してない?」
 明石さんはきょとんとすると、濁った表情をし、濁りが消えないまま微笑して見せた。
「もう、いいんです」
「相手は何て言ってるの?」
「そっか、って言っていました。書類にサインをした後も、同じことを言ってた。子供ができたみたいって言った時は嬉しそうにしていましたけど、私まだ高校生でしょう。きっと育てられない。でも、お互いの本心は見えていました。この人、私との子供に会いたいんだなって。私も会いたかった。だから私から殺そうって言ったんです」
「明石さん、殺すなんて言い方……」
「そうでも言わないと、この罪悪感を刻めないから」
 明石さんという湖がモーセの伝説のように割れていく。静かに凪いでいた冷たい湖面が音を立てて揺らぐ。ぬかるんだ地面が露になっていく。
 明石さんは湖でも竹でも、死の象徴でもなかった。湖だと思っていたものの中に沈んでいたのは、小さな鉱石だった。敏感で、何にも加工できず、そのままの形を保つことで精一杯の、鈍く光る鉱石。見かけは強く凛としているのに、触れば軽石のように脆い。これまで明石さんをずっと見ていたはずなのに、自分の妄想のせいで本物の彼女を見つけてあげられなかった。その事実に胸が痛くなる。
「ごめんね」
 謝罪が舌先からするりと落ちて、明石さんの鼓膜を叩く。明石さんは不思議そうな表情をして小首を傾げた。
「先生? どうして先生が謝るんですか?」
「なんとなく、言わないといけない気がして」
 私は醜い大人だ。ひどく汚れてしまっている。だから私は明石さんの純粋な透明度に惹かれているに違いない。
「なんだか少し似ています」
「何に?」
「私の恋人だった人」
「別れたの?」
「はい。振られてしまいました」
「明石さんの恋人って……」
「年上の人。あの人、年上のくせに子供みたいでとっても可愛いの」
 明石さんが慈しむように笑う。その笑顔はこれまで見てきた中で一番愛らしく、明石さんにこんな表情をさせる相手の男性はさぞかし愛されていたのだろうと、私は心の隅で少し悔しい思いをした。
「そう……。でもまだ高校生なんだし、気をつけたほうがいいよ」
「はい」
「私は子供ができたこともないし何もわからないけど……。怖かったでしょう、手術とか」
 明石さんの笑顔が凍る。しまったと思ったが、音にしてしまった言葉を回収することはできない。明石さんは目を見開いて何かを思い出しているようだった。その瞳が流れるように左を向く。
「赤ちゃん、見せてもらった」
 明石さんの言葉が震えている。赤ちゃんを見たということは、妊娠してから月日が経っていたのだろう。生理の周期が安定しないこともあるから、妊娠していると気づけなかったのかもしれないし、もしかしたら不安で言い出せなかったのかもしれない。
「明石さ、」
「バラバラだった」
 私の言葉を遮った明石さんは、顔を歪めながらも痛々しく笑っていた。私はその顔を見て、明石さんが今にも自殺してしまうのではないかと思ったのだが、次の瞬間にはいつもの明石さんがいた。何故明石さんは本当の心を奥に仕舞いたがるのだろう。もっとさらけ出して、泣いてしまえばいい。そのほうがきっと楽だ。
 私と明石さんの違いがわかった。明石さんは決して生きることから逃げない。それでも死に近い存在だ。私は生きてもいられないし、死ぬこともできない。生死が交わるその狭間の、どちらにも属さない無の位置に私はいるのだ。
「明石さん、気を落とさないでね」
「大丈夫です。それでも私は幸せだから」
 冴えた微笑と共に明石さんを纏う空気がぐらりと揺らいだ。水が舞い戻ってくる。私は先程明石さんを湖ではないと断言したはずなのに、今の明石さんを湖だと思った。それは神秘さと恐怖が溶けている、透明すぎて深さがわからない湖だ。
 明石さんの本心が見えそうで見えない。バラバラになった自分の子供を見た後で幸せになれるわけがないのに、ただの強がりではないと思わせる何かがある。妊娠して子供を堕胎し、相手に振られても尚彼女が幸福な理由。私には理解できない決定的な理由が明石さんにはあるのだ。
 辿り着きたいと思った。明石さんの考えることを自分のものにしたい。その理由を理解しなくては、私は明石琴子になれない。私は、自分が諦めていたことを明石さんが代わりにしているのだと思い込んでいた。そうすることで優りも劣りもしない自分を正当化していた。しかし明石さんにも劣った部分があったのだ。そして、それすらも美しいのだから、私はもう明石さんを傍観するだけではなく、自ら明石さんに近づいていかなくてはならない。
「どうして幸せなの?」
「さあ、どうしてでしょう」
「明石さん!」
「私の幸せは私のものですよ。誰にもわからせてあげない」
 明石さんの声はひどく落ち着いていた。私は急に恥ずかしくなって押し黙るが、明石さんは全く気にしていない様子だ。
「少しお話しすぎたかもしれませんね。先生、そろそろ課題の提出をしてもいいですか?」
「あ、うん」
 明石さんの一言で私は教師に戻る。それは何時間も読んでいた本から目を離して、自分が本の中の人間でなかったこと思い出すようにあっさりとしていた。明石さんの言う通り少し話しすぎたようで、空はもうオレンジ色に傾いている。私は教卓の引き出しにある、作品の概要を書く提出カードを明石さんに渡した。教卓まで取りに来た明石さんは、今までずっと背後に置いていた作品を私に見せた。
「水彩画じゃないの?」
「はい、こっちにしました」
 明石さんの作品は紙粘土だった。台紙に白い卵の形をしたものが接着してあり、それに棒が一本突き刺さっている。台紙にはこれの他に尖端が卵に向かうようにして丸釘が二本接着されていた。卵の形をしたものの表面はすべすべとしている。紙粘土は捏ねれば捏ねるほどシワが増えてしまうのに、どこを見てもシワが見つからない。私は明石さんの絵が見られないことを残念に思いつつ、この不思議な作品に興味津々だった。
「明石さん、カードの下のところは頑張ったところとか、作品の説明とか簡単に書いてね」
「わかりました」
 明石さんは鞄から筆記用具を取り出すと、教卓の正面にある机に座ってカードの記入を始めた。私は椅子に座って作品を改めてまんじりと見つめる。この作品はどんな真意が込められているのだろう。卵に釘の組み合わせは見たことがないが、明石さんのことだから無意味なわけがない。卵に刺さったものをよく見れば、これも釘のようだった。完全に刺さっているわけではなく、数ミリほど胴部が見える。私は机の上に置いたままのスクリュー釘を一瞥し、再び作品を見た。何かが引っ掛かる。時間が経つほど、新しい物を見たという高揚が薄れていく。私はおそらくこれをどこかで見たことがある。卵と釘ではないことは確かだが、何だっただろうか。
「ねぇ明石さん、これって何がモチーフなの?」
「どうしてですか?」
「見たことがある気がするから」
 すると明石さんは顔を上げ、瞳を細めた。睫毛と黒目のせいで明石さんの目が黒く見える。その瞳は私を馬鹿にしているようだった。
「先生って鈍感なんですね」
「え?」
「話の流れで気づかないの?」
 そう言うと明石さんは再び記入を始める。私は視線を落として手元にある作品を見た。明石さんの言う話の流れは、妊娠と中絶。そこから連想されるもの。
「受精……」
 卵に釘が一本だけ。他の二本は刺したくても刺せないのだ。何故なら卵子は精子を複数受け付けないから。
 お腹の中からどろどろとしたものが迫り上がってくる。得体の知れない恐怖が身体の中で暴れている。明石琴子の狂気が私の内部に流れ込んでくる。私が明石さんの感情を理解しようと努めていたせいもあり、彼女の心境に自分を近づけすぎた。だから少しだけわかってしまう。明石さんは堕胎の悲しみを心に刻むためにこれを作ったわけではない。明石さん自身の幸福のためにこれを作ったのだ。
「あ、明石さん……」
「書き終わりましたよ」
 いつの間にか明石さんは教卓の目の前に立っていた。狂気が全く感じられない、純粋な姿の明石さんが私を見下ろしている。先程の明石さんは私の夢だったのだろうかとも思ったが、この感情の波は確かに現実だった。明石さんが私に提出カードを差し出した時、「あ、」と彼女が声を漏らした。明石さんは机の上をじっと見ている。
「それって」
 明石さんは白い手を伸ばし、スクリュー釘を桜貝のような爪で弾いた。
「スクリュー釘」
 それは私の声ではなかった。明石さんの落ち着いた声だった。私は何が起きたのかよくわからず、ぼんやりしながら口を開けて明石さんの爪を網膜に焼きつける。その爪は卵子に刺さっていた釘に向かった。そしてそれを指で挟み、ゆっくりと引き抜いていく。釘と一緒に紙粘土の屑が穴から溢れる。おかしい。丸釘でこんなに屑が出るわけがない。次第に胴の部分が露になっていく。屑がついた、捻れた胴が私の瞳に映る。
「なかなか引き抜けなくて、大変だったよ、先生」
 スクリュー釘はその形状ゆえに抜けにくい。まことが教えてくれたことだ。
 卵子から出てきたものはやはりスクリュー釘だった。私が家から持ってきたものと寸分違わない。明石さんは紙粘土の屑に息を吹きかけて飛ばすと、それを机の上に置き、私の釘をぽっかりと空いた穴に差し込んだ。今度はしっかりと奥まで突き刺さる。明石さんは頬を鴇色に染めて満足そうに微笑んでいた。細い髪が肩から垂れて、空中で揺れている。私は浮かされたように明石さんの揺れる髪を見ていた。心臓が血液を送り出す度、私の胸の中の言葉が外に押し出される。
「明石さん、綺麗だね。私ずっと貴女に憧れてた」
口を開いた私の瞳は明石さんを映していなかったため、この言葉を聞いた直後の彼女の表情はわからないが、きっと驚くことなく当たり前のように受け止めてくれたのだろう。
「ありがとうございます」
 明石さんはにっこりと、年相応の少女として笑顔を見せた。明石さんから受け取った提出カードを確認する。
「じゃあ南先生、さようなら」
 そう言い残して明石さんが美術室から消える。残された私は明石さんが書いた提出カードの文字を追う。この作品のタイトルは『冴える卵』というらしい。視線が備考欄を滑る。
『お幸せに』
 カードにはそう書いてあった。
 思わず口角が上がる。それどころか、小刻みに吐息が零れてしまう。肩が上下に揺れ、私は口元を押さえて笑った。
 幸福だ。生きてきた中で、今日が一番幸せだ。
 明石琴子は私だった。私の代わりに結晶を産み、自ら破壊した。私のできないことをして見せた。私は明石さんの残した轍を追い、時に轍から外れた行動をとればいい。私は未来の自分を確認できたことで、残された者としての幸福を得た。明石さんは、新しい道を切り開き、得たものを後に残してやることで幸福になったのだ。それはきっとお互いに自分でしか理解できない感情だが、相手の理屈はなんとなくわかる。教師と生徒ではなく、同じ女として私たちは繋がっている。だから、私は明石さんと等しい存在なのだ。
 沸き上がる笑いの波がようやく凪ぐと、私は椅子から立ち上がって明石さんが座っていた場所の傍に立ち、天窓を見上げた。もうすっかり夕方になっていて、段々と肌を刺すような寒さが訪れる。突如背後から襲ってきた寒気で背筋を伸ばした時、私のお腹の中に蓄積していた狂気が逆流した。
「う、えっ」
 吐瀉物が床に跳ねる。鼻をつく臭いと、口の中に広がる酸の味が私の幸福を汚した。どくどくと心臓が脈打つ。額には汗が浮かび、血の気が引いていくのがわかった。
 また、明石さんが私から遠退いていく。近寄ろうとして、誤って轍を踏んでしまったようだ。
 四方に手を伸ばしているようなシルエットの吐瀉物が私の絶望を描く。その絶望が、床にぶちまけられた夕焼け色の絵の具と重なり、やけに眩しく私を刺した。



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