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 職員室から美術室へ向かう途中、鍵を持っていたかを確認するため、上着のポケットに手を入れると、指先に冷たくて細長い物が触れた。鍵ではないそれを摘まんで取り出す。出てきたものは釘だった。胴部がネジ状に加工してあるスクリュー釘だ。今朝家を出る前に玄関で拾ったことを思い出す。
 私の家の玄関にはよく釘が落ちている。普段ならそれを拾って靴箱の上に置くが、今日は寝坊をして余裕がなく、早く家を出たくてポケットに入れたのだ。
 ポケットの中に釘を仕舞う。鍵があることも確認し、私は口角が上がるのを感じた。


 旦那のまことが落とした釘やネジを拾うのは何度目だろうか。細かい物だし危ないから工具箱の中に入れておけばいいのに、それすらも億劫なのか大抵ポケットの中に入れている。それも作業着だけではなくジーンズの中にまでだ。まことは座って靴を履くから、その時に落としてしまうらしかった。彼は私よりも先に家を出るので、釘を落としたことに気づかない。見つけるのは決まって私だ。以前から、危ないから釘を落とさないでほしいと口を酸っぱくして言っていた甲斐あってか、しばらく落ちている釘を見かけなくなったのに、また癖が出てきてしまったようだ。しかし、私は少し嬉しくなってしまう。同棲する前は知らなかったまことの癖が、私の生活に溶けて習慣になった。照れくさくもあり、なにより誇らしかった。
 まことと出会ったのは私が美大に通っていた時のことだ。美大に行っていたと言っても特別な才能があったわけではなく、全て並の物しか描けなくて悩んでいた頃、仲間内で展覧会をしようという話になった。私は断ることができずに参加したのだが、課題ではない絵を描くことが久しぶりだったため、どうせ描くなら好きなものを思い切り描こうと思い、自分の中にあった衝動をカンバスにぶつけた。
 透き通る青い少女。タイトルは『水彩度』とつけた。真夜中の湖のように静かで、竹のように凛とし、柔和でアンニュイな少女は私が心に沈めていた憧れだった。
 これまで様々な絵や写真を見てきて、私はきらびやかな生よりも、静かな死を美しいと感じていた。それはおそらく私がきらびやかな生とかけ離れているからだ。普通を生きる私は、目一杯生きる努力を放棄し、どんな者でも受け入れてくれる死に逃げた。そんな自分を受け入れ、手の届かない綺麗な死がいつしか理想となったのだった。
 私はその絵を描き、初めて称賛された。そしてその少女は展覧会のポスターになり、大学の掲示板に貼られた。それを見た先生も珍しく私を褒めた。
 展覧会は貸し画廊で行われた。その画廊の近くに、建設中の一軒家があった。まことは大工だ。現場で仕事をしていたまことは画廊のガラス窓に貼られていたポスターを見たらしく、休日に一人で訪れた。
「あのポスターの絵なんですけど、誰が描いたんですか?」
 画廊に入って来たまことは受付にいた友人にそう訊いたらしい。その時私はたまたま画廊にいて、やけにテンションが上がった友人に大声で「春子!」と名前を呼ばれた。そしてまことがあの絵をひどく気に入ってくれたことを知った。そのことがきっかけで交際を始めて今に至るわけだ。
 私とまことの生活は穏やかで温かい。作った料理を一緒に食べたり、テレビを見たりするだけで、じわりと愛しさが滲む。
大きな喧嘩はしたことがないが、最近した言い争いがある。私が中粒の納豆を買ってきたのに、開けてみたら何故かいつもより小粒だったため、まことが拗ねて「これは中粒納豆じゃない」と主張した。まことは中粒の納豆が好きなのだ。そして私が「ちゃんと中粒を買ってきたよ」と返して、共に譲らなかった。今思うと心底どうでもいい内容だった。それくらいどうでもいいことを後で笑い話にできることが、私は一番の幸せだと思っている。
 私は今のままで満足だ。特別なものは必要ない。子供もほしくないわけではないが、二人の心地好さから脱け出せそうにない。情事は程々にしているが、まことが子供をほしがっているのかどうかは聞いたことがない。できることなら、もう少しこのまま二人でゆっくり暮らしていきたいと思っている。


 三階の階段に差し掛かる前に一度歩みを緩めた。階段を上ると悲しくなる。歳を重ねるごとに、体力は摩擦がないのかと思わせるほど滑り落ちていくのを実感してしまうからだ。美術室は最上階の四階にある。極力美術室にいたいが、あそこは夏になると暑く、冬になると寒い。そのため私は連続した授業がない日は環境の良い職員室に戻ってしまうのだった。
 いつだったか授業に遅れそうになった日、階段を急いで上っていたため、息切れしながら美術室に入り、生徒たちに笑われたことがあった。あれは恥ずかしかったなと思っていると、女生徒が階段を下りてきた。よく見れば知っている顔だ。二年生の美術部員、松風さんだった。彼女は私を見ると驚いた表情をした。
「あれ、南先生だ。今日部活ないですよね?」
「ないよ。テスト期間だからね」
 松風さんは苦い顔をしている。テスト勉強が捗っていないのだろう。学生の天敵、テストには私も散々苦しめられた思い出がある。しかし教師の立場から見ると、その光景はあまりにも愉快なものだった。
「ところで先生、美術室行くんですか?」
「そうだけど」
「私、掃除が美術室前の廊下なんですけど、さっき美術室に琴ちゃん来てましたよ。鍵が掛かってたからどっか行っちゃいましたけど」
「琴ちゃん?」
「あ、明石琴子です」
「明石さんか。ありがとう」
 松風さんはいいえ、と笑う。
「琴ちゃんどうしたんですか?」
「明石さんしばらく休んでたから、作品の提出で少しね」
 私がそう言うと、松風さんは真ん中で分けられた前髪から覗く眉を下げ、お腹の前で指先をいじり始めた。薄い唇を尖らせて言う。
「琴ちゃん、何も教えてくれないんです。何かあったなら相談してくれればよかったのに」
 右下を見つめて拗ねた顔をしている松風さんの姿が、まことの姿と重なった。以前から思っていたが、彼女の行動は少しまことと似ている。明るくて少し抜けているところや、すぐに拗ねるくせに別の話題になると機嫌が直るところなどそっくりだ。だからつい可愛がってしまうのだった。
「松風さんは明石さんと友達だったんだ?」
 自分でも驚いたが、松風さんと明石さんが親しい友達だったなんて知らなかった。よく考えると、明石さんは誰とでも親しげに話していた印象だったので、特別な交遊関係がわからない。
「一年の時は同じクラスでずっと一緒にいたけど、今はクラス別れちゃって……。でも一緒にご飯食べたりするし」
 松風さんが思っていることがなんとなくわかる。大切な友人が長い欠席の理由を話してくれないことが寂しいのだろう。
松風さんは本当に明石さんと仲がよかったのだろうか。私には松風さんの一方的な好意にしか思えない。しかし、明石さんは松風さんという寂しがり屋な人間を惹き付けたことに間違いはない。そして私も、まことという寂しがり屋な人間と出会い、結婚した。
 口角が上がる。
 ふいに松風さんが胸ポケットに入れていた携帯電話を確認した。どうやらメールが来たらしい。単純に帰る方向が違うだけかもしれないが、松風さんは明石さんと一緒に帰るほど仲がいいわけではないようだ。そして松風さんには掃除が終わるのを待ってくれる友人がいる。少しがっかりしてしまった。松風さんは携帯電話を仕舞うと、ぱっとヒマワリのように笑った。
「じゃあ先生さよなら!」
「さようなら」
 機嫌が直った松風さんは焦ったように階段を下りていく。冬服の重いスカートが彼女の動きに合わせて揺れ、健康的な色の太股が見えた。やがて階段を下りていく音だけが残り、松風さんの姿が見えなくなる。私は先程まで踊り場に残っていた三色を思い出した。
 濃紺のスカート、明るい肌色、黒いソックス。暗い色に挟まれた色に違和感を覚える。あのスカートとソックスにふさわしい色は松風さんのものではない。より青く、透明度があるあの色だ。明石琴子の、肌の色だ。
 階段の手摺の吹抜きになっている隙間から下を覗くと、生徒たちが螺旋状に下りていく様がちらちらと見えた。足を上げて階段を上る。それに比例して暖色の声が遠ざかっていった。
 四階に着き、突き当たりにある美術室までゆっくりと歩く。廊下には生徒の作品や、忘れ去られた部活動の勧誘ポスターなどが貼られているが、古いものが色褪せ始めていた。
 美術室のドアの近くには去年描かれた靴と瓶の油絵が飾られている。美術を受けている生徒が描いたものの中から出来がよかったものを数枚選んだ。その中でも特にデッサンや色使いが素晴らしかった一枚がある。それは美術部員が描いたものではなく、明石琴子が描いたものだった。
 確か明石さんは今回の課題で水彩画を選択していたはずだ。最後の授業くらい生徒に好きなことをさせたかったので、今回の課題は油絵やコラージュ、粘土など、何でもよしとした。正直なところ明石さんの絵が見たかったので、水彩画を選んでくれたことが嬉しかった。一体どんなものを描いたのだろう。一度は美術部に勧誘したものの、部活には入らないと断られてしまったので、彼女の才能を見る機会はほとんどない。だから私はこの日が楽しみだったのだ。
 ポケットから鍵を取り出し、ドアを開ける。美術室特有のこもった画材の匂いが鼻をついた。部屋にこびりついて離れないこの匂いを嫌いだとは言わないが、特別好きなわけでもない。ただ、私の人生に寄り添っている匂いだ。
 黒板の前にある教師用の大きな机はいつも片付かない。ペンや提出物で溢れている。私はストーブのスイッチを押した後、それらを落とさないよう、慎重に身体を滑らせながら椅子に座った。
 美術室は夕方になると天窓からオレンジの光が差し込む。床にオレンジ色の絵の具が広がっているように見えるため、部屋そのものが一枚の絵のように美しくなる。それを見るのが私の楽しみでもあった。今日はよく晴れているからきっと綺麗なオレンジ色が美術室を照らすだろう。
 手持無沙汰なので、ポケットから釘を取り出す。二本の指で摘まんで様々な角度から眺めてみるが、特別なことは何も思わない。ただ、これまで釘の種類など気にしたことがなかったのに、結婚してからまことが落としたものを渡す度に説明をされ、今では大体の釘の名前を言えるようになってしまい、すっかり染められてしまったことを実感した。
 それにしても明石さんはどこに行ってしまったのだろう。どんな作品を作ったのかが気になっているのはもちろんだが、私は明石さん自身が気になっている。
 明石さんは私が描いた『水彩度』の少女に酷似していた。私の理想が実在していたのだ。初めて授業で彼女を見た時、私は恋に落ちたのかと思うほどに胸を高鳴らせた。瞳や姿勢、纏う雰囲気だけではなく、話す時の間や、視線の移動、笑い方すら求めていた少女そのものだった。時が経つにつれ、私の理想はいつしか『水彩度』から明石琴子に変わっていた。私は公には気づかれない魅力が鈍く光る、そんな彼女を憧憬している。
 しばらくぼんやりしていると、棚の上に積まれていた生徒の絵の具がバランスを崩して雪崩れた。その音ではっとし、絵の具を直そうと椅子から立ち上がると、立て付けの悪いドアが音を立ててスライドした。現れたのは明石さんだった。
「遅くなって、ごめんなさい」
明石さんがかすかに首を傾けた時、真っ直ぐに伸びた艶のある黒髪が肩から零れた。明石さんはドアを閉めると私の近くまで白い足を伸ばした。やはり、この色が一番美しい。
「さっき松風さんに会ったよ。一回来てくれてたんだってね。私こそごめんね」
「ああ、いえ」
「あと作品提出の連絡も直接言えなくてごめんなさい」
「大丈夫です」
 明石さんが曖昧に微笑する。思わず見とれてしまい、私は気恥ずかしくなって、教卓付近に彼女を残したまま教室の隅に置かれている絵の具を積み直した。
「しばらく学校休んでたけど何かあったの? 松風さんが何も話してくれないって寂しがってたよ」
「そう……」
 背中で聞いた明石さんの声に感情はなかった。私の知っている明石さんは思い遣りのある子で、少なくとも友人に対して無関心であるわけがない。美術の授業が始まる前や終わった後、廊下ですれ違った時にそういったことが垣間見えていた。振り返ると、氷のような瞳をした明石さんがいた。しかし私の視線に気づく前に柔らかい表情に戻る。見てはいけないものを見てしまった気がして、慌てて床に落ちていた絵の具を拾う。
「先生って優しい人ですね」
「え?」
「だって、松風さんの個人的な寂しさにまで干渉しているから。それともお節介なんですか?」
 肩越しに見た明石さんがくすくすと上品に笑う。今日の明石さんは変だ。随分とトゲのある言い方をする。
「お節介かな、私」
「先生は人に話したくないことを人に話すんですか?」
「……話さないね」
「そうでしょう?」
 明石さんの唇が意地悪な弧を描く。見たことがない表情だった。彼女はやはり休んでいた間に何かあったに違いない。今の明石さんは、以前の明石さんの奥に別の彼女を匿っているような気がする。
「でも何かあったなら誰かに相談したほうが楽になるんじゃないかな? 私でよければ話聞くよ」
 私はわかっていた、この言葉が善意でないことに。私は明石琴子の綻びから内部を暴こうとしている。私の中の明石さんをより深めようという下心で優しい教師を演じているのだ。
「確かに、話したら少し楽になるかもしれませんね。言葉にしたら押し潰されてしまいそうで怖かったんですけど……」
 明石さんは畳んだ右手の人差し指を顎に寄り添わせ、伏し目がちに、ちらりと私を見た。女子高生らしくない、色気のある瞳をしていた。
「先生が半分、背負ってくれたら軽くなるかもしれません」



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