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「昨日は悪かったね。何事もなかったようだからよかった、本当に。僕の方も大丈夫だったよ。文句は言わせなかった。百点満点で逃げてしまえば、誰も何も言えないんだ。言えるとするなら、嫉妬の言葉くらい」
翌日、リンくんは景色の一部のように、ジサシールドにいた。駅前は曇りだったが、紫陽花迷彩の時点で雨が降っていたので、私はリンくんがいるのだと確信していた。
リンくんは画用紙に意味不明の落書きをしながら、私のことをちらりと見ると、いつもの調子で喋り始めた。私はほっと胸を撫で下ろす。
リンくんに寄り添うように腰掛けると、彼はくすぐったそうに、ふふ、と笑って、私の頭を撫で付けた。
「何、寂しかった?」
「別に、大丈夫だよ。羊さんもいたし」
「そうなんだ」
本当は、寂しかった。リンくんに鉛筆の後ろで額をこつこつと叩かれる。小さな衝撃だったが、私はびっくりして、おもい切り目を瞑った。目を開けた時には、リンくんはすでに落書きを再開していた。
「何書いてるの?」
「うん?」
「それ」
画用紙の上に手を乗せる。「これ?」とリンくんは、私に画用紙を見せてくれた。
「何てことない、ただの数式だよ。気にしなくていい。羊の趣味だ。いつも寄越してくるから、解いてあげているだけ。いいんだ、どうせ暇だから。あいつのために時間を割くことがあったって、誰も気にしないし、意味はないから」
「ねえ、羊さんって、」
「昨日羊がここへ来ただろう。仕方がなかったんだよ。だって他に頼める人間なんて、誰もいないんだから。僕の生贄は、羊だけでいいんだ」
吐き捨てるように言ったリンくんは、怒っているみたいだった。少なくとも、いらついている。それが羊さんに対してなのか、昨日あった出来事に対してなのか、私には知る術がない。
「でもこれでいいんだ。これからのことに必要なことに違いなかった」
リンくんは髪に両手を差し込み、引っ張るように梳いた。髪がぼわりと膨らむ。それから手で梳かす。元のさらさらした髪に戻った。リンくんは平静を装っているけど、大分取り乱しているようだった。
「羊さんは、リンくんのことを苦しめてるんじゃないかって言ってたよ。ちゃんとお話したらいいとおもうけど」
「何?」
「リンくんと羊さんはどんな関係なの?」
数秒程の沈黙があった。雨と、画用紙の上を鉛筆が滑る音がしている。リンくんは画用紙の右下まできっちりと数式を書き終えると、顔を上げ、哀れむような目で私を見た。
「君の言っていることがわからないよ」
私達の言葉は、時々大きく道を外して、相手に伝わらなくなる。これまで合っていた波長が正反対になってしまうのだ。それはとても悲しいことだけど、仕方のないことでもある。こんな時、私はこれ以上喋ってはいけない。リンくんが、孤独になってしまうから。
リンくんは指先を唇に当て、考えると、突然東屋から出て行った。そして紫陽花を一朶折ると、腕に抱えて戻って来た。コンクリートの上に置いて、私達はしばらくそれを眺める。雫がつやつやと光っている。羊さんが言っていた装飾花は、筋があって、中心から色が溶け出したように色付いていた。今まで空色だとおもっていたが、よく見ると濃淡があったり、違う色が混じっていたりする。蕾は、捻られたように口を噤んでいた。
「昨日、羊が紫陽花の話をしただろう」
「うん」
「僕は、これが花だなんて知りたくなかった」
不揃いの爪が、蕾を弾く。ぽろりと零れた。
「私は、そうなんだって、おもった」
ぽたりと、雫が落ちた。見ると、リンくんが泣いている。涙が頬を伝う。その速度が、流れ星のようだった。
「リンくん、どうしたの?」
リンくんはぐすっ、と鼻を啜った。そして、唇をぎゅっと結んで、吐息が零れないようにしている。
「泣かないで」
「ごめん」
「大丈夫、大丈夫。ね?」
「……ありがと」
リンくんは私を抱き締めると、嗚咽を堪えて、やはり泣いた。制服が雨で濡れていたけど、リンくんの身体は温かくて、眠たくなってしまう。心臓の音が、そっと私に伝わる。私はぼんやりと、早く名前がほしいな、とおもった。



朝の光が、気が付いたら自分の居場所に入り込むように、リンくんは泣き止んでいた。私を離したリンくんは、分厚い図鑑をぱらぱらとめくって黙っている。あまり楽しそうな顔をしていない。呼吸の音さえも聞こえなかった。私はリンくんが書いた数式が、何を意味しているのかを考えていたけど、最後まで何もわからなかった。
「もう帰る」
リンくんがぽつりと呟く。まだ夕方にもなっていない。しかし、リンくんが終わりだと言えば、ジサシールドを閉じなくてはならない。
「ねえリンくん、今日は一緒に帰ろうよ」
「先に行って」
「リンくんのこと、もっと知りたい。どこに住んでるの? 羊さんと一緒?」
「もうすぐ君にあげたいものがあるんだ。その準備をしないといけないから」
それでも私が動こうとしないので、リンくんは優しく微笑む。
「向こうは危険なんだよ。きっと君は一人で歩けない。だから、僕が受け入れる準備をするから、そうしたら、ずっと傍にいられる。その時、一緒に行こう」
額を親指で擦られて、心地好さに目を細める。強めに背中を押されて、私は仕方なく東屋を出た。何度も立ち止まり、リンくんを見たが、彼はもう私を見てはいなかったので、寂しさに落ち込んで、紫陽花迷彩を抜ける。しかし、今日はこのまま帰る気にはならなかった。私は少し離れた繁みの中に身を隠すと、綻びからリンくんが現れるのを待った。悪いことをしているな、とおもう。それでも、リンくんのことが知りたかった。
小一時間程経つと、不自然に雨が止んだ。そして綻びが揺れ始めた。リンくんだ、とおもい、身を小さくする。綻びから出て来たリンくんは、制服に付いた雫を軽く払うと、辺りを見回してから、羊さんが行ったとおもわれる道を進んで行った。十分に距離を取ってから、リンくんの後をつけていく。
石畳は突如途絶え、道路に変わった。低く唸るような音が行き交う。瞬間移動のように流れていく黒い影は、絶えることを知らない。リンくんが言っていた危険とはこのことだ。私が通る道は、とても静かで、誰かと擦れ違うことも少ない、穏やかな場所だ。こんなに狭い範囲なのに、道が違うだけで、知らない国にいるみたいだった。リンくんはよく、ジサシールドと、それ以外の場所を、別の世界だと語る。私は世界は一つだとおもっていたのだが、今になってリンくんの気持ちがわかったような気がした。
 猫背の青い制服を見失わないように、前だけを見て小走りで行く。リンくんが角を曲がってしまうと、見失ってしまうので、その時は全速力だ。リンくんの尾行はゲームみたいで、私はなんだか楽しくなっていた。バレたら嫌われてしまうかもしれないのに、だ。相手に秘密で、というイタズラな心は、自分が優位に立っているような気がして、気持ちが良かった。
黒い影は、どんどん量が増えて、重く響いている。その度にリンくんが遮られて、何度も見失いそうになり、ついにはどこに行ったのかわからなくなってしまった。その途端、私は辺りが真っ暗になって、一歩も動けなくなってしまった。それは初めての孤独だった。自分がどこにいるのかわからないということが、わかってしまったのだ。呼吸が切れてくる。とりあえず落ち着く場所に行こうと、目的もなく歩いていると、寂れたバス停のベンチがあったので、私はそこで休むことにした。
リンくんだけを見てここまで来たせいか、帰り道がわからない。心細くて踞ると、散っていた意識が凝縮して、僅かに安心することが出来た。バスは何度も私を迎え入れようとした。しかしそのうち、扉が開く、空気が抜けるような音はしなくなった。



 目を覚ますと私はまだバス停のベンチにいた。早朝の冷えた空気を吸い込むと、どくどくと心臓が高鳴った。昨日に比べて黒い影は少なく、目で追える数に減っている。
 私はベンチから立ち上がり、記憶の最後の地点に向かった。自分の意思で歩いていたので、それだけはわかる。それに、ここから見える位置にある。あそこで待っていれば、リンくんに会えるかもしれない。まだ朝が始まったばかりだし、ここを通ることは間違いない。リンくんが私を見付けたら、驚くだろうか。真っ先に怒るかもしれない。どちらにしろ、早くリンくんに会いたい。
 ふと、息が詰まった。意識が引き裂かれる。初めての感覚に眩んで、声を上げると、豪雨に襲われた。それは一瞬で止み、私の顔に弾けて、熱い水となった。
 ばあ、と視界が広がっていく。ちかちかと瞬いて、私を包み込む。星ではない。何だろう。熱くて、冷たい。わからない。でも、不思議なことに、今なら何でも出来そうな気がした。
 リンくん。リンくんの顔が、粒になって、ぱあん、と開いて消えていく。それは青色をしていた。紫陽花の花だ。何度も開いて、光の粒子になる。私はそれを、とても綺麗だと、おもった。

 私の目に映る色が、滲んで、掠れている。忙しない高揚はどこに行ってしまったのか、私は今、何も出来ないちっぽけな存在になっていた。頭の中が泥に埋まってしまったみたいに、思考も上手く回らない。
「ああ」
 ふと、リンくんの声が聞こえた。私の身体はびくりと震え、瞼が少しだけ開いた。リンくんの制服がすぐ傍にある。
「僕は、君に随分と助けられていた。甘えていたのかな。ずっとなんて、ないってわかってたんだ。ただ、このままずっと、居心地の好い日々が続けば、それで……」
 リンくんの顔が見えない。それでも、容易くおもい出すことが出来る。こんな時にどんな表情をするのかだって、想像できる。
「君はきっと、魚が好きだった。紫陽花は好き? きっと気に入る名前を、あげようとおもったんだ」
 私はきっと、頭を撫でられている。紫陽花は、好き。空色だから。リンくんと一緒にいる空間にあるから。リンくんも、紫陽花、好きでしょう。羊さんに教わったことを、本当は大切にしてたんでしょ。
「リ、くん、ごめ、んね」
「うん、ありがとう。ア……」
 リンくんに抱き締められる。幸せだ。私は今、青く光っているかもしれない。目が眩む程、リンくんに光を届けているのかも。そうだといい。そうであってほしかった。
 リンくんの腕の中はとても温かかった。リンくんはいつだって、私を温かい気持ちにしてくれた。じゃあ私は? 私は今、リンくんが私にくれた温もりの分を、彼にちゃんと返せているだろうか。それだけが気掛かりで仕方なかった。



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