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 佐伯がタクシーから下りると、小雨が降っていた。遠くのビルの看板のネオンが、時折遮られる。ふいに煙草が吸いたくなり、歩き出しながら、胸ポケットに手を伸ばした。
「佐伯さん!」
 こつこつと忙しない音と共に、自分の名前が呼ばれた。立ち止まる。左足を引くと、街灯で照らされた薄暗い道を、ゆめが息を切らせて走って来るのが見えた。ゆめから伸びた影は二つに分かれ、薄く、消え入りそうだ。佐伯がアスファルトを見ている間に、ゆめが追い付く。吐息がすぐ近くで聞こえた。
「今から佐伯さんのお家に行こうとおもってたんです。会えてよかった」
 息を吐くように笑うゆめの睫毛に細かな水滴が乗っている。じっと見つめていると、ゆめは首を傾げてから、佐伯と共に歩き始めた。
「さっきタクシーに乗っていた人、お仕事の人ですか?」
 佐伯はジーパンのポケットに左手を入れて、少し考えてから、そんなところだ、と答えた。佐伯の指先に、ビニールの縁の、線のような柔らかい感触があった。
「佐伯さん昨日一回帰って来たんですね。起きたらご飯と煮物がなくなってたから、ちょっとびっくりしました。起こしてくれればよかったのに」
 佐伯が、わざわざ起こす意味があるのだろうか、と考えていると、ゆめが、「佐伯さんの顔、見たかったのに」と、佐伯の腕に、控え目に自分の腕を絡ませた。佐伯は特に振り払う様子も見せず、道の消失点を追っている。
「そうだ、今日お店に磯貝くんが来て、ほらこれ、クッキーくれたんですよ。帰って一緒に食べませんか?」
「磯貝?」
「あれ、磯貝くんですよ。知らない? 仕事先の知り合いだって言ってたけど……。バイト先の常連客で中学の同級生なんです」
 佐伯は適当に相槌を打つと、ポケットの中で指を動かし、ビニールを手繰り寄せた。丸く、ごつごつとした感触をそっと撫でる。
「いつもアロハシャツ着てるんですけど、って、わかりませんよね」
「派手なやつだろ」
「なんだ、知ってるじゃないですか」
 佐伯はゆっくりと立ち止まると、左手を引き抜いた。手のひらを開くと、そこにはセロファンに包まれた二つの飴があった。小さな雨粒がセロファンに落ち、糠星と化していた。
「佐伯さん、どうかしました?」
「あげる」
 佐伯の手元を覗き込もうとしていたゆめに、一つ飴を差し出す。しかし、なかなか受け取ろうとしないので、ゆめの手のひらに、それを強引に乗せた。
 端を摘まみ、引っ張ると、ぱりぱりと音を立て、ゆっくりとセロファンが開く。中から出てきたのは白い飴玉だった。途端に佐伯の興味が薄れていた。
「なんだ、薄荷か」
「薄荷じゃないですよ。リンゴ」
 見ると、右の頬を飴の形に膨らませたゆめが、満面の笑みで佐伯を見上げていた。ゆめに促されて、飴を口に含む。想像していたよりもずっと甘かった。舌で持て余していると、歯にぶつかって、軽く響いた。それを幾度か繰り返しているうちに、ゆめが歩き出す。
 ゆめは、セロファンのシワを伸ばすように撫でていた。佐伯の手の中にあるゴミはくしゃくしゃに丸められている。ずっと握っていても仕方がないので、胸ポケットに仕舞おうとした。それを見たゆめが、慌てた様子で手のひらを出した。
「あ、佐伯さん、それください」
「ゴミぐらい自分で捨てる」
「そうじゃなくって、綺麗だから取っておこうとおもって」
 ゆめは佐伯の手から小さくなったセロファンをひょいと取り上げ、丁寧に開いた。割れたガラスの破片のようなシワが、街灯の光を受けて煌めいた。佐伯は、それを綺麗だとおもった自分に驚いた。
 白い靄に包まれて、冷たく、柔らかな夜だった。その中で、ゆめはなくならないシワをひたすら撫で付けている。一度折り目が付くと、真っ新な状態に戻れない。それなのに、永遠と無駄なことをしているゆめが、街灯に照らされて影を濃くする度、佐伯の足元が縺れていく。今更酒が回ってきたのか、と、今日飲んだ酒をおもい出そうとしたが、出てくるのは名前も知らない何人かの男と、濡れたグラスの雫を撫でる爪だけだった。
「佐伯さん」
 気が付くと、ゆめが佐伯の部屋のドアを開けているところだった。蝶番が軋む。ゆめが真っ暗な部屋へと消える。佐伯は口の中で歪な球になった飴を噛み砕いた。奥歯の窪みに挟まる。舌先でなぞると、甘い味がして、じわりと消えた。
 ふと、玄関先の紫陽花を見ると、暗闇に紛れて、色がわからなくなっていた。おかしいな、とおもいながら、そのまま立ち尽くしていると、部屋の明かりがついて、玄関から光が零れた。佐伯は導かれるようにして玄関に入る。女物の靴が置いてあった。佐伯は靴を脱ぎ、真っ先に台所へ向かう。
 シンクの脇に乾かしてあったコップを取り、蛇口を捻った。白い水は真っ直ぐに降り注ぎ、跳ね返りながらコップの中に収まる。蛇口を閉めると、沈んだ小さな泡がしゅっ、と水面に浮かび、微かに音を立てて弾けた。白かったはずの水は、いつの間にか透明に変わっていた。
 畳が控え目に軋む。背後にゆめが立っている気配がした。
「最近あんまりお家に帰ってないみたいですけど、どこにいるんですか?」
 ゆめは佐伯の背中に触れそうになった手を、そっと下ろした。音もなく水を飲んでいた佐伯は、コップを置いて振り返る。
「別に、どこにも」
 抑揚のない声が、ゆめの耳をするりと抜けていく。嘘ではないと確信出来た。ゆめの手から力が抜ける。同時に、胸の中で綿毛が粘膜に絡まっているような感覚に襲われた。
「でも、仕事先の場所くらい、」
「食べるんじゃないの?」
 ゆめの言葉を遮った佐伯は、ふい、とちゃぶ台の上に置かれたショッパーに視線を投げた。ゆめははっとして、「そうでした」と曖昧に笑って見せた。
「缶がね、とっても可愛いの。見て、佐伯さん」
 缶を持ったゆめは、肘を真っ直ぐに伸ばし、壁際に座り込んだ佐伯に見せ付ける。佐伯は、ふうん、と鼻から抜ける声を出し、ゆめの行動を眺めている。
 囲うように貼られていたテープを剥がし、丸めて机の上に置く。空気を押し上げるようにして蓋を開けると、中には個包装された花型のクッキーが二列、横たわるようにして並べられていた。クッキーの中央に空いた丸い窪みの中で、イチゴやマーマレード、イチジク、リンゴのジャムが、水に濡れた水晶のような輝きを放っている。
「か、可愛い! 美味しそう! でもこれ、食べるの勿体ないかも……。うう、磯貝くんに改めてお礼言わなくっちゃ!」
 ゆめはすっかり興奮し、今にも踊り出しそうだった。そして佐伯に見られていたことを意識したのか、肩をすぼめて笑う。
「ねえねえ佐伯さん、どの味がいい?」
 佐伯に見えるように、缶を畳の上に置く。佐伯は適当に一枚取り、しげしげとクッキーを見ている。
「こういうのが好きなの?」
「だって可愛いじゃないですか」
 ゆめはマーマレードのクッキーの袋を破いて、花弁に歯形を付けた。佐伯が真似をするように、クッキーを齧る。
「何か飲みます?」
「いらない」
 佐伯は黙々と咀嚼をする。歯にジャムがねっとりと絡み付き、舌が重くなる。甘いのか、苦いのかよくわからない。
「佐伯さんのお家って緑茶とコーヒーしかないんですよね。紅茶とか買っておけばよかったなあ。何か好きな紅茶とかってありますか?」
「別に。好きにすればいい」
 食べ終えた後も、口の中に怠い甘さが残っている。唾液で流し込もうとしていると、ゆめが笑った。
「二回目にお店に来た時も、同じこと言ってましたね。佐伯さん、何でもいいって言うから、何が好きですかって訊いたら、そう言って。ベルガモットにしたの覚えてますか?」
「ベルガモット?」
「柑橘系の紅茶ですよ」
 ああ、と言ったものの、佐伯は、その味を全く覚えていない。別にいいか、とおもっていると、ゆめの食べ掛けのクッキーが目に入った。
「好きなの?」
「え、柑橘系ですか? 好きです!」
 嬉しそうにゆめが答える。佐伯は、袋をちゃぶ台の上に置いて、無表情のまま、ちらりとゆめを窺った。
「あんたの金で買うほど?」
「え?」
 中ぶらりんな笑顔を浮かべたまま、ゆめが瞬きをした。佐伯はぼんやりとした口調で続ける。
「まあ、仕方がない。それがどんなことをして得た金でも、全て同じ価値しかないから、錯覚する。あんたは違うとおもってたけど。ああ、でも、やっぱり違うか」
「え、何言って、」
 軋む音と、乾いた音が連なった。ゆめがちゃぶ台に雪崩れる。缶が落ちて、クッキーが滑るように畳の上に散らばった。佐伯は腰を上げると、それを踏みつけていることにも気付かずに、倒れているゆめに近付く。ゆめは腕を突いて上半身を起こし、佐伯を見上げた。叩けば響きそうな、空虚な目をしていた。佐伯はもう一度ゆめの頬を叩いてみる。ゆめは声を上げず、再び倒れた。
 佐伯はゆめの傍らにしゃがむと、顔を覗き込んだ。頬が赤くなっている。後に腫れるだろうな、と佐伯は他人事のようにおもった。ゆめの唇はふっつりと切れ、血が滲んでいる。うっすらと開いた口から覗く前歯にも、唾液と混じった血が付いている。それでも、ゆめはぼんやりとしたまま、身動ぎせずに、力なく佐伯を見上げている。
「泣けば?」
 佐伯はゆめの髪の生え際に手を差し込み、優しく撫で付けた。地肌から遠退くと、髪が冷たくなる。流れるように手が、ゆめの首筋へ伝う。温かい。温度に慣れてくると、脈拍が手のひらを小さく打つのがわかった。佐伯はふっ、と微笑し、ゆめの肩を畳に押し付けた。途端にゆめがびくついて、硬直した。そして、ゆめは諦めたような目をすると、身体から力を抜いた。
「泣けばいいのに」
 ゆめの肌の輪郭がぼやけている。確かにそこに存在しているはずなのに、物体を浮き彫りにする線が存在しない。しかし、髪も、唇も、はっきりとそこにある。飴色に艶めくゆめの瞳にも、佐伯の影が映っている。肌だけが、空気に溶けている。幽霊のようだと、佐伯はおもった。
 ふと、あの時と同じ、雨の匂いがした気がした。すん、と鼻を鳴らす。ゆめの首筋から、古い藺草と、石鹸の匂いがした。
「ダサい、って」
 上擦った、塊のような声がした。その声は確かにゆめの口から出ているのに、佐伯は、別の生き物が喋っているように感じた。ゆめは唇を震わせ、息と言葉を別々に吐いて、繋いでいく。
「お店、ダサ、いって。……わ、たしは、そんなっ、こと。好き、で、憧れて、」
 ゆめが目を逸らした。佐伯はもどかしいような、安堵したような気持ちになって、のっそりと立ち上がった。玄関へ向かい、靴を履く。物音がしないので、振り返り、ゆめを見る。天井を見ているらしかった。佐伯は何の目的もないが、部屋を後にする。
 水分が空気に飽和していた。肌がしっとりと濡れる。佐伯は今後、目的もなく、部屋を出て行かなくてもいいことに気が付いた。背後から駆けてくるあの足音を聞くことはもうないのか、とおもうと、何故だか笑い出したくなった。
 煙草に火をつける。煙を吸うと、胸に痛みが走った。いつの傷だろうか、と、佐伯はだらりと揺れていた手を伸ばした。
 そっと傷に触れる。指の腹で二、三度、刷り込むようになぞると、そこに溜まっていた倦怠が均され、血液が滞りなく流れていくような気がした。
 痛みが引いたので、息を吐く。白い煙が空気に混じって、霞んでいく。生臭いような雨と、アスファルトの匂いと、煙草の匂いが佐伯を包む。佐伯は普段よりも早足で、光に向かって歩いて行く。



 呼び鈴が部屋の奥で鳴っているのが聴こえた。暫く待っても、物音一つしない。もう一度押すが、結果は同じことだった。こわごわとドアを押すと、すっと開いた。躊躇ったが、中に入る。いつも履いている靴が揃えて置いてあった。
「ゆめちゃん、いる?」
 磯貝は靴を脱いで律儀に揃えると、入ってすぐのところにあった電気のスイッチをつけた。辺りを見回す。ローテーブルの影から細い足が覗いていた。
「ゆめちゃん!」
 ぎょっとして、急いで駆け寄ると、ゆめが窓辺に横たわっていた。ゆっくりと首が動いたので、意識はあるらしい。
「いそが、く……?」
 寝惚けたような声で名前を呼んだゆめは、眩しさに目を細めながら、膝をついた磯貝を目線だけで見上げる。ゆめの唇にはかさぶたが出来ていた。佐伯だ、と真っ先におもった。
「大丈夫か? きゅ、救急車!」
「へーき。寝てただけ、だから」
「寝てたって、何で……」
 磯貝は落ち着け、と自分に言い聞かせて、ゆめを観察する。俯せになって、左の頬を床にくっつけて寝ているその姿はあまりにも不自然だった。しかし、問い掛けにはっきりと答えている様子を見ると、命に別状はないらしい。最悪の事態も視野に入れていた磯貝は、ほっと胸を撫で下ろす。
「磯貝くんも、どしたの?」
「店に来てなかったから心配になって……。佐伯の家も行ったんだけど、誰もいなかった」
 軽く握られたゆめの右手の中に、何かが入っている。磯貝は何だろうとおもって、ゆめの指を開く。折り畳まれた、赤と青のセロファンだった。
「磯貝くん、ごめんね。缶、置いてきちゃった」
「いいよ、そんなの」
 磯貝がそれに触れる。
「ゴミじゃないの」
 ゆめは磯貝の指を阻むように、拳を握る。くしゃりと音がした。
「くれたの、佐伯さん。初めてで、嬉しかった……」
「そっか」
「ほんとに、うれ、……て、ね? わたし、」
「うん」
「言えば、よかったのか、なあ? 全部。寂しくて、ずっと……泣いてたこと、とか」
「うん」
「一緒に、いてほしかっ……」
「……うん」
「お金、も」
「ゆめちゃん」
 磯貝はゆめの脇に手を入れると、起こすよ、と声を掛け、ゆめの上半身を起こした。彼女の瞼は腫れて、目の下にはクマがはっきりと浮かんでいる。唇はかさかさしていて、水分がない。脱力し、萎れたように小さくなったゆめを見て、磯貝は彼女を惨めだとおもった。ゆめを最後まで惨めにしたのは、紛れもなく自分だった。磯貝は深い呼吸をして、ゆめを支えながら立ち上がる。
「下にタクシーあるから、一回病院行こう。上着どこ? 雨降ってるから外、寒いよ。鍵は?」
 椅子の上に掛かっていたカーディガンを見つけ、ゆめに頭から羽織らせる。鍵は鞄の中にあるらしく、磯貝はそれを持って、先に靴を履くと、続けてゆめに靴を履かせた。ドアを開ける。
「階段滑るから」
 雨に濡れながら、ゆっくりと階段を下りる。カーディガンの繊維に雨が絡まり、白い膜が出来ていた。
 タクシーの扉が開く。磯貝はゆめを先に乗せると、階段を上って部屋の鍵を閉めに行った。運転手が大丈夫ですか、とゆめに声を掛ける。ゆめは小さく「はい」と答えると、身体を引き摺るようにして奥に座った。
 かんかんと急いで階段を下りてくる音がする。横目で見ると、磯貝がタクシーに突進して来るところだった。車に乗り込んだ磯貝は、早口で運転手に行き先を告げる。ドアが閉まり、タイヤが滑り出した。
 小さな通りを幾つか曲がると、大通りに出る。赤信号で止まっている車は、長い列を成している。その間に入る隙を窺っている時、ゆめがぽつりと呟いた。
「居場所をね、作ってあげたかったの」
 信号が変わり、車が動き出した。上手く列に入ったタクシーは、ゆっくりと進む。対向車線から来た車が、水溜まりを掻き分けるように、速度を上げる。
「そんなの、必要じゃなかったのかもしれないけど」
「そんなこと……」
「佐伯さんは、もっと別のこと、してほしかったのかな」
 赤い光が、道路に落ちている。信号がまた変わったらしい。磯貝は何も言えず、俯いている。
「ひどいことしちゃった」
「え?」
「佐伯さんに、ひどいことした。見捨てて行くの、私。佐伯さんを、置き去りにして行くんだ」
 ウィンカーが雨を切る。
「置き去りにされたのはゆめちゃんだろ」
 磯貝が叩き付けるように、そして、泣きそうな声で言うので、ゆめはそうなのかもしれない、とおもった。それでも、罪悪感のようなものが緩やかに流れているのだった。
 カーディガンの裾を引っ張り、膝の上に乗せる。冷たいが、そのうち湿ったような温かさになるだろう。最後には乾いて、何事もなかったかのように、元通りになる。肌に纏わり付く湿気も、気にならない。
眠たくなり、目を細める。自分の吐息が微温い。浅い呼吸を繰り返しているうちに、心臓の音が響いてくる。身体とは、これを守るためにあるのだな、と、ゆめはおもう。握ったままのセロファンは、また新しい折り目を付けている。もう、引き伸ばそうという気持ちにはならなかった。
 首を傾けると、白く霞んだ窓ガラスに、自分の姿が映っているのが見えた。透き通った顔に、いくつもの筋が通っている。血潮のようだとおもった。メーターの規則的な音を聴きながら、線路沿いの奥にある、空に張り付いたビルの輪郭を視線で滑る。朝はまだ、遠くでぐずついているらしかった。



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