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そっと傷に触れる。指の腹で二、三度、刷り込むようになぞると、そこに溜まっていた倦怠が均され、血液が滞りなく流れていくような気がした。


帰宅してから、台所で水を飲んでいた佐伯は、ふと雨の匂いを嗅いだ。振り返ると、部屋が白んでいる。おかしいな、とおもいながら、カーテンの隙間から窓の外を見た。目を細める。ちらちらと光の断片が見えたので、雨が降り始めたのだろうとおもった。
ちゃぶ台の上に、ラップに包まれた皿が置かれていた。中を覗き込む。透明な膜には、鱗のような水滴が付いていた。佐伯はその水滴を落とそうと、膝を折り、親指でラップの上を撫でた。しかし、水滴は危うく揺れただけだった。飯を食べようと、皿からラップを剥がす。すると、傾きに沿って雫が雪崩れ、佐伯の指先とちゃぶ台を濡らした。あまりにも簡単なことに、佐伯は地に足が着くような心地がした。
温めなくても食べられそうだと判断した佐伯は、立ち上がると再び台所へ戻った。炊飯器から米をよそい、味噌汁が入っている鍋に火を掛けた。
ちゃぶ台の前に腰を落とすと、畳の軋む音が室内に響いた。特に気にもならない。佐伯は箸で温かい白米を口へと運ぶ。つやつやとした光沢を放つ米は、水分をしっかりと含み、自立せず、頼りすぎずに身を寄せ合っていた。
食事を終え、煙草を吸おうとシャツのポケットに指を掛けた時、味噌汁のことをおもい出した。煙草を箱から一本出し、唇で挟む。そのまま台所へ向かうと、味噌汁は沸騰して、鍋から溢れていた。半透明の泡は膨らむと、別の泡を押し退け、やがて白く、細かな泡に変わる。それが幾度も繰り返され、呼吸のようだった。佐伯は煙草に火をつけてから、コンロの火を消した。途端に吹き出ていた泡はしゅう、と萎んで、熱気と共に湯気が上昇していった。気泡がぼこ、ぼこ、と味噌汁に穴を空けている。佐伯は、その様子を煙草が短くなるまで見つめていた。
背後で布が擦れる音を聞いた。ちらりと目をやる。部屋の隅に敷かれた布団が少しだけ動いた。その中に、ゆめが眠っていた。
 佐伯は灰皿に煙草を押し付け、何の目的も持たずに、部屋を後にした。アパートの脇に植わっている茜色の紫陽花が、やけに眩しく感じられた。



 微かに柑橘類の香りがする。ティースプーンの柄の尖端に付いている、黄色や紫色のガラスの石が、蛍光灯の光を反射し、針のような光を伸ばした。ゆめは洗剤を染み込ませたスポンジで、それらを丁寧に洗う。佐伯の自宅には、このような洒落たカトラリーなど置いていない。むしろ、食事をするには足りない物が多く、ゆめが買い足したくらいだった。
 ゆめが佐伯の部屋を訪れるようになって、半年が過ぎようとしている。ゆめは、何度目かわからないが、自分が佐伯に料理を作り始めた以前に、彼が何を食べていたのか、どのように暮らしていたのかを考えた。佐伯の生活の中に、料理や洗濯をしている姿が組み込まれていたなど、微塵も想像できなかった。そこまでおもい至り、ぎゅう、と目を瞑る。ゆめは蛇口を捻ると、滑らかに流れる水で泡を濯いだ。薄いステンレスのシンクが鈍い音を立てる。
「ゆめちゃん、ちょっといい?」
 ぱっと顔を上げると、恰幅のいい店長が、キッチンに顔だけを覗かせ、こちらを窺っていた。ゆめは返事をして、布巾で濡れた手を拭き、店長の背中を追い掛けながら、ホールへと出た。

 ゆめが働いている喫茶店には、六つのテーブルと、四つのカウンター席しかない。そんな小さな店は、店長が脱サラをして始めた、ゆめにとって理想の空間だった。
 入り口のドアには植物を象ったステンドグラスが嵌め込まれていて、昼間になると、太陽の光が店内に入り込み、床に淡い色を落とす。ドアについているベルはゆめのお気に入りだった。アンティークゴールドのベルは、グラスと氷が響き合うような、透き通った音を立てて客の入店を報せる。また、机や椅子は店長曰く、海外から取り寄せたという、古びた色合いのヴィンテージデザインの物が選ばれている。そのため、霞んだ空間の中で、食材や客が着ている服などの、一つ一つの色が引き立つのだった。

「どうしたんですか?」
 ゆめが店長の元へ向かうと、店長はソーセージのような指先で店内の一角をつつくように指差した。その先を追うと、一番奥の四人用のテーブルに一人で座っている、派手な赤いアロハシャツの背中が店内を裂くようにして佇んでいた。ゆめは麻のエプロンの端をきゅう、と摘まむ。店長に軽く会釈をし、アロハシャツを着た人物の元へ向かう。男はゆめの靴のヒールの音に気付いたのか、コーヒーを飲んでいた手を止め、ゆめを見上げた。
「磯貝くん?」
「おう」
「どうしたのその顔!」
「ああ、いや、見掛けだけで大したことないから大丈夫」
 へらへらと照れ臭そうに笑う磯貝の左の頬は腫れていて、目の上に紫色の痣ができていた。唇の端は切れて、かさぶたができている。
「でも……」
「本当に気にしなくていいから。な?」
 ゆめは狼狽しながら向かいに腰を下ろした。数秒の沈黙の中、店内に流れる、波のような音楽を聴く。磯貝は口を半開きにし、テーブルの上のビンに入っている角砂糖へ視線を向けた。ゆめは薄く微笑んでいる。すると、磯貝はそうだ、と言って、隣の椅子に置いていた荷物の一つを手にした。
「お土産持って来たんだ。よかったらもらって」
 磯貝は、つるつるとしたクリーム色のショッパーをゆめに押し付けるように渡した。受け取ったゆめは、困惑しつつ、口元を綻ばせている。
「そんなのいいのに。いつも貰ってばっかり」
「これクッキーなんだけど、有名な店のなんだよ。嫌いじゃないよな?」
「……うん、好き」
 ゆめが少し、目を細めて言うと、磯貝は空虚な笑みを浮かべた。それから、目を閉じて、柔らかく笑う。
「佐伯と食べろよ。あいつ、何でも食うだろ」
 ゆめはショッパーから缶を取り出して、デザインを見た。クッキーの缶は正方形で、レトロな水色をしている。蓋の部分には、赤いコスモスのイラストが描かれており、ポップなゴシック体のロゴが、ぷっくりと浮かび上がって、遊び心があった。
 ゆめのおもわず出た笑い声が、磯貝の無防備な柔らかい部分を突いた。磯貝は内心びくつきながら、机の下で中途半端に伸びた親指の爪と肉の隙間を、人差し指の腹で埋めるように擦り付けた。
「え、何?」
「だって磯貝くん、絶対缶で選んだでしょ? 私こういうの大好きだもん」
 言い当てられて赤面する磯貝を他所に、ゆめはにこにこしながら、缶の側面を見つつ、可愛い可愛いとはしゃいでいる。
「ありがとう磯貝くん! この缶小物入れにしちゃお」
「……よかった」
「え? なあに?」
 磯貝は顔を上げたゆめをじっと見つめた。数ヵ月前よりほっそりとしたゆめが、確かにゆめであることを再確認する。首を傾げているゆめに、「何でもない」と呟くと、彼女は困ったような顔をし、缶をショッパーに戻した。磯貝はコーヒーを一口含むと、声を潜めて言う。
「なあ、ゆめちゃん。佐伯に言った?」
「何を?」
「いや、だから、その」
「……磯貝くん、もし今言おうとしていることが磯貝くんを傷付けることなら、わざわざ言わなくてもいいんだよ」
 ゆめの落ち着いた声が、蛇のようにテーブルの上を這い、ソーサーを迂回して、磯貝の指に触れた。
「でも、そこが磯貝くんの良いところだなって、ずっとおもってたけどね」
 ゆめに優しくされる度、磯貝の鼓動が全身を揺らす。胸にとろけるような甘い痛みと激痛が走り、感覚が麻痺していく。
「ごめん」
「謝らなくていいよ。私がお願いしたんだもん」
「話を持ち掛けたのは俺だ」
「手段の一つを教えてくれたんだよ」
「違う。佐伯への報復のつもりだった。優越感を感じたかっただけなんだよ」
「そうかもしれないね」
 ゆめの冴えた声に磯貝は我に返り、自分が薄ら笑いを浮かべていることに気付いた。ぐっと歯を噛み締める。声を出そうとしたが、掠れて、言葉を作れなかった。押し込むように唾を飲み、そろりと声を出す。
「なあ、新しい仕事紹介するよ。こんなダサい喫茶店よりいいとこ。もう、俺もさ……」
 磯貝は目線を落とすと、ミルクの瓶を取り、コーヒーに継ぎ足した。黒い水面に白いミルクが緩やかに沈んでいく。透明な石がついたティースプーンでゆっくりとかき混ぜると、白と黒は混ざり合ってお互いの色を消した。磯貝は上目でゆめの表情を確認する。ゆめからは先程の笑顔が消えていた。
「磯貝くん、優しいね」
 磯貝が眉をひそめる。背筋を伸ばして座っているゆめの瞳に、天井のランプの光が映っている。口の中がねばついた。自分の指先が震えているように見えた。喉の奥が閉じ、うまく唾を飲み込むことができない。
 目の前に座るゆめは、セーラー服に身を包んで、くるくると表情を変える幼気な少女ではなくなっていた。傷だらけの、尖端が禿げた靴を履いて、どこか諦めたような目をした、女になっていた。
「私そろそろ働かなくちゃ。サボってばっかりじゃ怒られちゃうもんね。これ、ありがとう。またね」
 立ち上がったゆめは、磯貝に小さく手を振ると、荷物を置きに行くため、店長に断ってバックルームに消えていった。その背中を最後まで確認し、磯貝は目を伏せる。
 呼吸がうまくできないことに気付いて、さらに息苦しくなる。どうしていいのかわからず、一度唇を結んでみたが、傷が痛むだけだった。対面にある一人掛けのレザーのソファを見つめる。誰も座っていない。当たり前か、と磯貝は唇を歪める。残りのコーヒーを一気に煽り、席を立った。
 足音が重い。新しい靴のせいだと、磯貝は疑わなかった。以前履いていた靴は、靴底がすり減って、駄目にしてしまった。それなのに、また新しい靴を履き、しっかりと歩けているのが不思議だった。呼吸はいつの間にか正しく再開していて、俺は死ぬことはないんだな、と磯貝はぼんやりおもう。
 頭を下げる店長に金を払い、ステンドグラスの光を踏みつけた。背後でゆめの声がしている。振り返れずに、ドアを開け放った。ベルがか細く鳴る。立ち止まれなかった。



 ゆめは仕事を終えると、三日ぶりに自宅へと戻った。相変わらず物が多く、ごちゃごちゃしている。それなのに、目に映るこの部屋が、感熱紙のように、薄っぺらくおもえた。一点に集中すると、戸棚の上に置かれたスノードームや、出窓に置かれた小さな人形等の小物が視界に入る。
 これらを買った時、どういう気持ちだっただろう、とゆめは撫でるように部屋を見回した。何故、いらない物ばかり集め、必要なものが埋もれているのか。
 ゆめは何も入っていない貝殻があしらわれた写真立てを手に取った。どこで買ったのかさえ、もうおもい出せなかった。
 ゆめはフローリングの歩きやすさに驚きながら、机の上に荷物を置いた。床は、軋む音もしなければ、ささくれた畳にストッキングが引っ掛かることもない。必要なものは全て揃っていて、好きなものに囲まれている空間だというのに、がらくたの城にいるような気がした。


 佐伯がゆめの働く喫茶店に入ってきたのは、丁度今の季節で、彼は白いシャツにジーンズといった地味な服装をしていた。汚れのない白が原因だったのか、佐伯はその店で一番の存在感を放っていた。真っ直ぐに伸びた背筋に、色の薄い唇。気怠い切れ長の目は、ぼんやりと宙を漂っていた。その目に意思が感じられず、生きているのか、死んでいるのかわからなかった。ゆめは佐伯を見て、触手の長いクラゲのようだとおもった。軸がぶれているわけでもないのに、ゆらりと歩く様も、やはり似ていた。
 佐伯と共に来ていた黒いスーツの男が店長と何か話した後、佐伯を引き連れて、一番奥の席へ座った。その席は観葉植物の影になって、他の席からは見えにくい。しかし、店内を動き回るゆめには、あまり関係のないことだった。
 初めは好奇心だった。それから佐伯は時々一人で来るようになったので、ゆめはおもい切って佐伯に話し掛けた。佐伯は無口で、表情も乏しかったが、ゆめが話せば、柔らかい溜息のような相槌を返す。そして、ゆめが話題を切らし、沈黙に耐え兼ねて困ったように笑うと、佐伯は目を細め、微かに口角を上げるのだった。


 風呂から上がったゆめは、ドライヤーで髪を乾かし、着替えてから、三面鏡の前で薄化粧を施した。鏡に映る自分に、にっこりと笑い掛ける。その女は、笑顔から真顔に戻る瞬間の自分の表情を見て、ひっそりと唇を噤んだ。
 一度溜息を吐くと、音もなく立ち上がる。磯貝からもらったクッキーと、少量の荷物が入った鞄を持ち、ぱちんと部屋の電気を消す。ふと、暗い部屋を見た。カーテンの隙間から入り込んだ月明かりが、湯葉のように掬い取れそうだった。
 ゆめは去年買った安物の靴を履いて、風で揺れる稲穂のように、群青色の街へと出た。そうすることで、安堵する自分がいるのだった。



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テーマ「人外ファンタジー」
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