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 授業参観の日、私が授業に集中できるはずもなく、兄さんの試合はどうなっただろうとそわそわしていた。兄さんのチームは強いから最初から負けるだなんて思っていない。だけど試合に絶対という言葉はない。昨日、兄さんの最終調整を見たけどコンディションはよかったように思う。気合いが入っていたから空回りしないか心配だけど、兄さんは大抵冷静でいられるから、エースストライカーとしてここぞという時に決めてくれるはずだ。お父さんの秘書さんがビデオを撮るって言っていた。夜に兄さんと一緒に見て、プレーのダメ出しをしてやりたい。そうしたら兄さんは笑って「試合中に言ってほしかったよ」って言う。考えただけで楽しくなってきて、にやける口元を教科書で隠した。
 待ちに待った放課後が来て、私は一目散に走って帰った。帰っても兄さんは家にいないし、今からでは試合に間に合わない。それでも靴が地面を蹴るのをやめてくれない。兄さんがグラウンドで走っているんだと思ったらじっとしていられなかった。私も兄さんと一緒に走っていたい。本当は兄さんと同じチームでサッカーがしたかった。年齢的にも性別的にも叶わない夢だ。きっとこの夢が叶う日はずっと遠い。
 ランドセルを放り投げてお母さんにただいまを言う。そして庭に出て兄さんとお父さんの帰りを待つ。きっと車で帰ってくるだろうから、エンジンの音を聞き逃さないようにしないといけない。
 しばらく塀に寄り掛かってじっとしていたけど、私はいても立ってもいられなくて庭に転がっていたサッカーボールを蹴った。兄さんほどじゃないけど私だってそこそこ上手い。リフティングの回数だってクラブチームに入っている男の子に引けを取らないし、紅白戦でシュートを決めたこともある。練習相手があの兄さんなんだから、私が上手くなるのも当たり前だ。
 ボールを蹴ることに夢中になっていると、門の方から話し声が聞こえてきた。兄さんたちが帰ってきたらしい。私はボールを置いて急いで門に向かう。
「兄さん!」
「あ、瞳子。ただいま」
「試合どうだったの!? 優勝した?」
 興奮して訊けば、泥だらけの兄さんは歯を剥いて笑った。優勝したんだと思って、おめでとうを言う前に兄さんが口を開く。
「負けた!」
「ええっ!? うそ、何で」
「瞳子、落ち着きなさい」
「だってお父さん!」
 兄さんの後ろを歩いていたお父さんが苦笑する。
「決勝戦までいったんだよ。本当に惜しかった」
「そう、惜しかった。ごめん瞳子」
 私の期待がしょぼしょぼと萎んでいく。心のどこかで兄さんが負けるはずがないと思っていたから、言葉にできないほどがっかりした。
「スコアは?」
「二対三で負け」
「一ゴール一アシストだったね」
 兄さんが誇らしげに腰に手を当てた。全ての得点に絡んでいるだけマシだと自分に言い聞かせるけど、どうにも元気が出てこない。
「ロスタイムで一点入れられたのは痛かったなぁ。悔しいけど楽しかった! 試合には負けたけど、内容には満足してる」
「ふぅん……」
「やっぱりサッカーは最高だ」
 子供みたいにはしゃぐ兄さんは心底楽しそうだった。私には今の兄さんの気持ちがわからない。最後の試合なのに、どうして悔しさよりも楽しさが勝っているんだろう。兄さんは根っからのサッカーバカだ。ため息を一つ吐いて、お父さんと一緒に家の中に入る。
「ねぇ、お父さん」
「何だい瞳子」
「兄さんって本当にサッカーが好きなんだね。兄さんって頭はいいのに、サッカーのことになるとアレだもん」
「……そうですね」
 お父さんはそれ以上何も言わなかった。静かに廊下を歩く後ろ姿はどこか寂しそうだった。きっとお父さんも優勝できなかったことが悔しいのだろう。私はそっとしておこうと思って、お父さんの後には着いて行かずに自分の部屋に入った。



 それからも兄さんはサッカーに明け暮れていた。もしかしたら以前よりもサッカーに打ち込んでいるかもしれない。あの試合に負けたことで、兄さんのサッカーへの情熱に火がついてしまったようだ。
 私はあの日の試合のビデオをまだ見ていない。あれだけ気になっていた試合だったのに見る気になれなかった。兄さんが満足したという試合の内容は今でも興味がある。でも、目の前で楽しそうにサッカーをする兄さんが全てのような気がして、受け取ったテープを机の引き出しに入れてしまった。
 兄さんは最近荷造りを始めた。留学する日が近づいている証拠だ。部屋に増えていく段ボールを見ると、やっぱり寂しくなってしまう。そのたびに私は兄さんの言葉を思い出して、応援しなくちゃいけないんだと強く唱えた。私に引き止める権利なんてどこにもない。それに、もし兄さんのサッカーが認められて、プロチームからオファーがきたら財閥を継がなくてもよくなるかもしれない。それは新しい兄さんの道だ。そうすれば兄さんはずっと大好きなサッカーができるし、私も毎日のように兄さんのプレーが見れる。私はそんな望みを込めて兄さんを送り出そうと決めていた。
「瞳子、ちょっといい?」
「兄さん。どうしたの?」
 部屋で宿題をしていると、兄さんがひょこっと顔を出した。鉛筆を置いて兄さんを見る。部屋に入ってきた兄さんは腕と腰の間にサッカーボールを挟んでいた。
「サッカーしようよ」
 唐突な誘いに目を丸くする。机の上の計算ドリルを横目でちらりと見て、また兄さんを見た。宿題はあと二ページ残っている。調子がいいから全部やりきってしまいたい。こんな時に来るなんて兄さんはなんてタイミングが悪いんだろう。でも、兄さんとサッカーをする機会はもう少ない。
「いいよ」
 私はドリルを閉じて椅子から下りた。兄さんは嬉しそうな顔をして私が部屋を出るのを待つ。
 兄さんが私をわざわざ誘うなんて珍しい。いつも練習している兄さんに混ざりに行ったり、その逆だったりするから、こうして一緒に家を出るなんて久しぶりのことだった。
「どこでやるの?」
「そうだなぁ、河川敷にでも行こうか」
「わかった」
 私は少し不思議な気持ちだった。家の近くには公園もあって、そこでもサッカーはできる。しかも試合をするわけではないから、グラウンドがある河川敷に行く必要はない。
「さっき荷物を全部まとめたよ。父さんが明日送ってくれるって」
「そっか」
「ついに留学だ。向こうにはどんなプレーをする選手がいるんだろう。考えただけでわくわくする。楽しみだなぁ」
 本当に兄さんは遠くへ行ってしまう。私とお父さんをあの広い家に残して、たった一人で日本を出て行ってしまう。私は兄さんについて行こうとしてはいけない。兄さんは兄さんの道を行くから、私も自分だけの道を歩かないとだめなのだ。
 河川敷は夕暮れに包まれている。川の水面に光が当たって、オレンジ色や紺色に揺らめいていた。私が階段を下りていると、兄さんは急にボールを地面に置いた。何だろうと思っていると、兄さんはそこからゴール目掛けてシュートを放った。ボールは緩やかなカーブを描いてゴールに吸い込まれた。
「ナイスシュート!」
「自分で言わないでよね」
 兄さんは私を追い越してボールを取りに行った。私も兄さんに続いてグラウンドに立つ。
「いくよ!」
 兄さんからのパスを受け止める。靴底からじん、と伝わる衝撃が、これが私と兄さんがする最後のサッカーであることを物語っていた。ボールを兄さんにパスする。狙ったところより少しずれてしまったけど、兄さんは当たり前のようにボールを止めた。
「瞳子」
「ん?」
 パスを繰り返していると、兄さんが私の名前を呼んだ。兄さんはボールを止めて、真っ直ぐに私を見た。夕日を背負った兄さんの表情はどこか寂しそうで、それなのに笑っているから、いつもの兄さんらしくない。兄さんはボールを弾ませると、2回ほどリフティングをして、またパスを出してきた。
「誰にも言ってないこと教えてあげる」
 強めの衝撃と、兄さんの言葉に驚いた。兄さんは私の知っている人の中でも、一際何を考えているのかわからない。実は兄さんは、自分を周りに見せることが少ない。もちろんサッカーが大好きで、マイペースだってことはわかる。でも、自分の考えをひけらかすことはしない。
 そこで私はようやく兄さんが私をサッカーに誘った理由を理解した。兄さんはきっと、この「誰にも言っていないこと」を私に聞いてほしかったのだ。
「母さんの葬式の日」
 兄さんに向かってボールを蹴る。
「瞳子も父さんも泣いてたから、おれが支えてあげなくちゃって思って、泣くのをこらえてた」
 兄さんが私に向かってボールを蹴る。
「でもね瞳子、実はおれ、二人に隠れて一人で泣いてた。それこそ涙が枯れるってくらいに」
 知らなかった。兄さんが泣いているところなんて、これまでに見たこともない。兄さんは一体どこで泣いていたんだろう。
「びっくりしただろ」
「うん……」
 兄さんは私たちを励ますために泣かないようにしてくれていた。実際に私はあの兄さんの目を見て、元気にならなくちゃと思ったのだ。
「それともう一つ。本当はおれ、」
 私からボールを受けた兄さんは、泣いているのかと錯覚するほど、きらきら輝く緑色の目を細くして、静かに、緩やかに笑っていた。
「プロのサッカー選手になりたかった」
 兄さんはそれが叶わないことを知っている。私の言う「もし」という魔法の言葉もはね除けて、ただ現実だけを見つめている。兄さんは強い。こんな兄さんに私が敵うわけがなかった。

 それからしばらくサッカーをして、暗くなってきたから二人で家に帰った。帰り道はだいたい無言だったけど、兄さんがとても晴れた表情をしていたから気まずさはなかった。私が「お腹すいたね」と言えば、兄さんは「今日の晩ごはんはでっかいジャガイモとニンジンが入ったカレーだといいな」と無邪気に笑って言っていた。


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