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 兄さんは私の自慢で、憧れで、家族として少し疎ましい存在だった。

みどりのメメントモリ

 私は縁側に座って、池でゆらゆら泳ぐ鯉を数分ほど見つめていた。家の中で一番見つけやすい場所にいるというのに、いつまで経っても兄さんは謝りに来ない。腹を立てながら、このまま来てくれなかったらどうしようと不安になる。一人ぼっちでここにいるなんて寂しくて仕方がない。だからもう少しして誰も来なかったら泣いてしまおうと思った。そうすればお父さんが心配してくれる。兄さんだって謝るに違いない。泣くために悲しいことを思い出そうと思って、ふと、お母さんが死んでしまった時のことが浮かんできた。
 お母さんが病院で亡くなった朝、私は今よりずっと小さくて、意味がよくわからないまま赤ちゃんみたいに声を上げて大泣きした。お父さんはお母さんの病気のことを理解していたみたいで、驚いてはいなかったけど静かに泣いていた。その時兄さんは、緑色の目を潤ませていたけど、絶対に泣かなくて、黙って私の頭を撫でてくれていた。その時の目をよく覚えている。静かで力強い目をしていた。それは雨上がりの庭のように、きらきら光って佇んでいた。私はその目をみて、早く元気にならなくちゃいけないんだなと、いつまでも泣いてちゃいけないんだなと思ったのだった。
「瞳子」
 泣くのをこらえて鼻が痛くなってきた頃、兄さんがのんびりと歩いて来た。さっきまで泣いてしまおうと思っていたのに、私は今の顔を見られたくない。俯いてそっぽを向いたら、兄さんはわざわざ顔を向けた方に回って来た。兄さんは踏石の上に置いてあったサンダルを突っ掛けて、空を仰ぐように縁側に座ると、私の顔を見ないで、ははっと笑う。
「泣いてるの?」
「泣いてないもん」
「へぇ」
 興味がなさそうに相槌を打つ兄さんは相変わらずマイペースだ。私は兄さんのこういうところが嫌い。兄さんはいつだってそうだ。怒られていても、相手をすいとかわしてしまう。真正面からぶつかろうとしないで、はぐらかして事を丸め込む。それはサッカーに次ぐ兄さんの特技だ。
 ちらりと兄さんを見ると、緑色の目が私を見ていた。慌てて逸らしたら兄さんの吐息だけの笑い声が聞こえてきた。むっとしてふくらはぎを軽く蹴飛ばせば、兄さんはさらに笑うのだった。
「怒った?」
「もうずっと怒ってるよ!」
「しょうがないじゃないか。父さんがサッカーの試合観に来るって決めちゃってたんだから」
「でも前にお父さん、授業参観来てくれるって約束したのに……」
「また次にしなよ」
 首を傾げて笑う兄さんにどうしようもなく腹が立つ。兄さんがサッカーの試合の日程をお父さんにもう少し遅く伝えていたら、お父さんは私の授業参観に来てくれたはずなのに。それにお父さんはお仕事が忙しいから、また休みを取れるかわからない。
「お父さんが来てくれないなら授業参観休む」
 私の口からこんな言葉が出たのに、自分が本当に望んでいることが何なのかわからない。もしかしたら兄さんがお父さんに授業参観に行くよう言ってくれるかもしれないという期待なのかもしれないし、ただ優しく慰められたいだけなのかもしれない。子供っぽいなと思う。でも、今ここで子供の権利を使っておかないと私の気が収まらなかった。
「じゃあ休んじゃいな」
「えっ」
 思わぬ言葉にびっくりしていると、兄さんは肩口まで伸びた、お母さん譲りの赤い髪を耳に掛けて横目で私を見た。口元は弧を描いている。
「瞳子はさ、結構寂しがり屋だよね」
「そんなことない」
「いっそのことおれが試合休んで瞳子の授業参観に行っちゃおうか」
「それはだめ!」
 反射的に大声を出してしまった。私は自分で驚いているのに、兄さんは相変わらず微笑したままだった。きっと兄さんは私以上に私が望んでいることを知っている。
 兄さんには敵わない。友達の多さも、通信簿もテストの点数も、サッカーも。でも何より敵わないのは、お父さんの心を引き付けるその存在だった。
 兄さんという存在は大きすぎる。まるで太陽だ。手のひらで遮っても溢れる光を放つ。兄さんがサッカーグラウンドを走るたび、みんなが心を踊らせて兄さんのプレーを見逃さないように目を見開く。兄さんの光は周りの人たちも照らす。だから兄さんのサッカーは見ていて楽しいし、同じチームでも対戦相手でも、一緒にサッカーをしていると気持ちがいい。
 お父さんが兄さんのサッカーを見たがる気持ちが痛いほどわかっているのはこの私だ。だって、一番近くで兄さんのプレーを見て、練習の努力を知っているのは私で、応援するお父さんの隣で兄さんを見ているのは私なのだから。
「どうする、授業参観出る?」
「……出る」
「うん、そうしなよ」
 結局ペースに飲まれて丸め込まれてしまった。立ち回りの上手さは兄さんのずるい武器だ。
「そうだ、怒られついでにもう一つ」
「冷蔵庫のプリン食べたこと?」
「それもごめんだけど」
 兄さんがへらりと笑う。兄さんは今日、私を二回も怒らせていた。授業参観のことで頭がいっぱいになっていたからすっかり忘れていたけど、お父さんの秘書さんがくれた有名なお店のプリンを兄さんに食べられたのだ。思い出したらむかむかしてきて、じろりと兄さんを睨みつける。
 兄さんは視線から逃げるように縁側から立ち上がった。私の足を置いている場所よりも一段低くなっている踏石から下り、肩越しに笑って、言った。
「ちょっとサッカー留学してくるから、よろしく」
 河川敷でサッカーしてくる。そんな口調で、兄さんは言ったのだ。



 兄さんは庭の植物に水を撒き始めた。ホースから噴き出す水が紫陽花の青紫色の花びらに落ちて玉になる。太陽の光を反射してきらきら光る雫が今はとても憎かった。

 兄さんの口から初めて留学という言葉が出たのは今から半年も前だという。日本にいても強豪チームでレベルの高いサッカーができるのに、海外に行きたいと言ったそうだ。お父さんとは話をつけていて、すでに手配も済んでいる。すぐにでも留学できる状態らしい。そして、私の授業参観の日が今のチームでする最後の公式戦になる。だからお父さんは兄さんの試合に行く。きっと私が先に授業参観のことを伝えていても、結局お父さんが私の授業参観に来ることはない。
 兄さんはまだ中学生なのに、一体何を考えているんだろう。留学なんて高校生や大学生になってもできる。急いで行く必要なんてない。
 私は兄さんに置いていかれる気がしていた。追いつけないほど前を走る兄さんとの距離がさらに遠くなってしまう。兄さんは私を待ってくれやしないのだ。いつだって一人で先頭にいる。それを孤独だと思っていない。自由で何にも捕らわれない生き方をする。それが私の大好きな兄さんの姿だ。

 水を撒き終えた兄さんはホースを巻き取ると、今度は池の方に行った。二回ほど手を叩けば、鯉が兄さんのいる場所に集まる。エサをあげるつもりはないようで、色とりどりの鯉をしゃがんで見つめているだけなのに、その顔はとても楽しそうだった。
 庭の一部となった兄さんを眺めることにも飽きて、縁側に寝転んで目を閉じた。怒りはとっくに通り越している。それよりもショックだった。私は今日まで留学について兄さんの口から一言も聞いていなかった。たった三人の家族なのに、私だけがのけ者にされていた。
 どうして何も言ってくれなかったんだろう。私がまだ小学生だから? それとも、話したところで邪魔になるだけだから、こんなギリギリまで黙っていたのだろうか。兄さんにとって、私とは何なんだろう。
「こんなところで寝てたら風邪引くよ」
「関係ないでしょ」
「機嫌直してよ。黙ってたことは悪かったと思ってる。言ったら瞳子は絶対反対するって思ったから」
 目を開けると兄さんの背中があった。謝る時は相手の目を見て謝りなさいと言っていた母さんの教えを破っている。
「でもこれだけは譲れない。おれの最後の我儘だからね」
 最後の我儘という言葉が頭の中で反復される。どういう意味なのかを訊こうと、起き上がって兄さんを見れば、緑色の目が飛び込んできた。
 あの日の目と同じだ。泣かなかった兄さんの、力強い目。私はその目に圧倒されて押し黙ってしまう。
「おれさ、よくすごいとか言われるけど、あんまりいい気持ちはしてないんだ。人の期待とか周りの目とかどうでもいいし、おれには関係ないって思ってる。だって他人に左右されるなんてつまらないだろ? でもおれは吉良財閥の長男だからずっとこんなことを言っていられない」
 兄さんは困り顔で続ける。
「おれの将来は社長さん。それも日本でトップクラスの財閥のね。やり甲斐があるだろうなぁ。でもその前にやりたいこと全部やっておきたいから、寂しいだろうけどちょっと待ってて」
 初めて兄さんの気持ちを知った。兄さんが吉良財閥を継ぐことはぼんやりとわかっていたけど、そのことに関してお父さんも兄さんも何も言っていなかったし、まだ先のことだと思っていたから気にも止めなかった。でも兄さんにとっては、すぐそこまで来ている問題なのだろう。私は自分の幼稚さを突きつけられて恥ずかしくなった。
「兄さん、ごめんなさい」
「何が?」
「だって私、何も知らないで……」
「いいよ。おれも瞳子のプリン食べたし、おあいこってことにしよう」
「それとこれとは話が別!」
「そうかなぁ」
「今から駅前のケーキ屋さんに売ってるプリン買ってきて。それで許す」
「はいはい」
「早く行ってきて!」
 はぐらかそうとした兄さんの計画を失敗に終わらせる。兄さんは廊下をとろとろ歩いて、私のためにプリンを買いに行った。でも本当はプリンのことなんてどうでもよかった。私は兄さんの中学最後の公式戦の応援に行けないことが悔しくて、泣き出しそうなのを兄さんに見られたくなかっただけだ。


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