時間は全ての感情を包み込む

『アリス』
微かに、声が聞こえた気がした。

でも、そこに誰もいないことを知っているから、私は目を開けない。頬に薔薇の香りがしない風を感じる。こうして誰もいない薔薇園で居ると、失ったものばかり思い浮かんだ。
例えばあの、決して裏を見せまいとする強い瞳。他の人と重ねることの無くなった顔、ソファで苛立たしげに組む足、派手で悪趣味な帽子と服装、名前を呼ぶ声。私を包みこむ、あの温かい腕。
好きだった、嬉しかった、愛おしかった。だから悲しい、寂しい、辛い、苦しい。
感情が堂々巡りを続け、私は風に吹かれて乾いた頬を再び濡らす。
「そろそろ……帰らなきゃ」
城での仕事が待っている。
「また来るわね」
誰にというわけでもないが、そう呟く。
薔薇園を出る直前、私は振り返りその場に少し佇んだ。
枯れて乾いた薔薇が、かさりかさりと風に飛んでいた。


薔薇園の主の死を告げられてから、一体何百時間帯たっただろうか。自らの滞在地であるハートの城との抗争で命を落としたと白ウサギから聞き、悪い冗談ね、と笑った事が懐かしい。事態を理解した後は、危険だからと外出を制限されている。私自身も、外に出て皆と交流を深める気にはならなかった。
(だって、その人がもし死んでしまったら?)
ワンダーランドを命を軽く扱う世界だと理解し、そしてそれに慣れてきていると自分では思っていた。しかし、親しい友人、それも一番死にそうにない人物が突然いなくなってしまったことのショックはあまりに大きすぎた。
(……怖い)
(失うことが、怖い)
もうこれ以上、大切なものが失われるのには耐えられない。


『それほどまで彼の事が気にかかるなら、僕がお手伝いして違う軸に……他の彼がいる時間軸に、あなたを飛ばしてあげることもできますよ』
白ウサギが何を言っているのかきちんと理解はできなかったが、これだけは言える。私は、彼でなくてはならないのだ。私と時を過ごしたただ一人の彼を想い、私はこうして泣いているのだ。
(私は……あの人が、好きだった)
気づくと、庭から薔薇園に続く道を通る自分がいた。
受け取りを辞退したはずの、誰もいない場所。
私は薔薇の世話などできない。管理する者がいなくなった秘密の場所は、時間が過ぎるごとに荒れていった。
私はそこで、何回も泣いた。一人でも泣いたし、彼の姉と共に涙に溺れることもあった。
『ああ、わらわのせいでお前は死んだのね』
美しい赤の瞳から、大粒の涙が溢れ出る。
『わらわが殺したの』
ごめんなさい、と繰り返す彼女を抱きしめたのも、今となっては遠い過去のことである。

「アリス」

自分を呼ぶ声にはっと我に返る。
「そんなに眉を強張らせて何を考えておるのじゃ」
「何でもないわ」
慌てて微笑み、香ばしい紅茶を飲む。
数少なくなってしまった友人とのお茶会。
「お前はわらわとお茶会をするといつも上の空よな。ああ、つまらぬ」
「ごめんなさい、気をつけるわ。何の話だったかしら」
彼女は小さくため息をついた。
けれど、薔薇園のせいで気がそぞろなのは確かである。思い切って、ねぇ、と声をかけた。
「最近あの場所には行かないのね」
あの場所。私と彼女と、彼の思い出が詰まった、大切な場所。
「行って何になる。過去に執着することは見苦しく愚かしい」
彼女が紅茶を一口すすり、湿気を含んだ空気を吐き出す。
「亡き者を想って泣く遊びには飽いたのじゃ」
思わず黙ってしまう私をちらりと見、女王は再度ため息をついた。
「お前にそこまで嘆かれるとは、あやつも死んだ甲斐があるというもの。疎ましくも羨ましい奴よの」
わらわも死んでみようか、と彼女は笑った。
想像すると、背筋が寒くなった。
「ビバルディまでいなくなってしまったら、私はきっと壊れちゃうわ」
「ほほ……可愛らしい事を言う」
カチリ、と硬い音をたててカップがソーサーに置かれる。彼女がわざと音を鳴らしたのは、真っ直ぐに見つめてくる瞳を見れば明らかだった。
「大切だからこそ置いていかなければならないことがある。わかっているね?」
「無理よ、私は捨てられない」
(忘れてしまうことなんて、私にはできない)
沈黙が続く。
「次、仕事の時間帯なの。ごちそうさま」
気まずい雰囲気に耐えられず、そう言って場を離れようとした。けれど、彼女にスカートをむんずと掴まれてテーブルへと引き戻される。とっさに女王の肩で体を支える。転ばずにすんだ。すぐに肩から手を離す。
「掴んじゃってごめんなさい……何?」
彼女の顔は、寂しそうだった。
「わらわは何も捨てろとは言っていないよ」
そっと伏せたまぶたが、夕方の赤い光に照らされた。長く黒々とした睫毛が微かに震えているのが見える。
「お前の想いは、あいつに向けられたものであろう? それならそれはあやつの持ち物。苦しみも嬉しさも全て押し付けてしまえばいい」
ビバルディの声が、優しく私を包んだ。
「あの人の、持ち物……?」
そう、と彼女は悪戯っぽく笑った。
「あやつへの感情はあやつに届けておやり。わらわが保証する。きっと泣いて喜ぶよ」
彼女は私を抱きしめた。


夜。彼が好きだった時間帯。
薔薇園の真ん中に立ち、そっと呟く。
「あなたの物だったの。ずっと持っていてごめんなさい」
(あなたが好きだった。この場所に入れてもらえて嬉しかった。あなたと過ごす時間が愛おしかった)
知らず、涙が頬を伝う。
(あなたともっと話したかった。もっと一緒にいたかった。もっと……もっと……)
私はもう一度、乾いた薔薇園の土を踏みしめた。
溢れる涙は拭わない。目が腫れてしまっては、またこの場所を思い出してしまうから。
「さよならを返しに来たの」
お前の感情をあやつに、と彼女が言ってくれた。私の親友であり、他でもない彼の姉が、私を許してくれた。
「でも、あなたのことは絶対に忘れないわ」
彼と交わした言葉、共有した時。
「忘れない」
想いを馳せるとその全てがあまりに愛おしく、胸が苦しくなるけれど。
「ありがとう、さようなら」
ずっと言えなかった別れの言葉に包んだ感情を、荒れ果てた薔薇園に残して、私は私の帰るべき場所へと歩き出した。

今度は前だけを見て、振り返らずに。

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