あなたがいない世界で

アリス、と名を呼ぶ。
この名前を万が一にでも忘れてしまわないように。
時間に埋もれて、消えてしまわないように。
「何じゃホワイト。さっきからぶつぶつ呟きおって。何かあるならはっきり言え」
「……いえ、なんでも」
女王は大きくため息をついた。
「仕事はやめじゃ。やる気が出ぬ」
彼女はそう言って席を立ち、執務室を後にする。
それをただ見つめ、自らもため息をつく。
「アリス」
綺麗な夕焼けを窓から眺めながら、その赤い瞳には何も映ってはいない。
彼女が城から弾かれ、別の国――夢魔によると、軸までも違う――に飛ばされてから、めっきり城の業務は落ち込んだ。
騎士はいつもの通り迷ってばかりいるのだが、女王も夕方の時間すら動こうとはしない。
そしてそれを咎めだてるはずの宰相は、形だけ自分の仕事をするのみとなっていた。
ハートの城の宰相の白ウサギ、ペーター=ホワイトは、手に持っていた書類をデスクに置くと、執務室から出た。
(アリス)
(アリス、アリス)
廊下を歩きながら、思うのはただ一人の少女の名前。
どうして、弾かれてしまったのか。考えれば考えるほど苦しくなっていく。
自分と彼女との関係は、この世界ではこれほどに脆弱なものであると思い知らされたようであった。
彼女のいない日常が、これほどまで苦痛に満ちたものであることを、彼は初めて知ったのであった。
(彼女がいない時間のほうが、遥かに長かったのに……)
もう、愛を知らなかったあの頃には戻れない。
(この世界では時間は巻き戻せるものなのに、皮肉なものです)
一度眠ろう。夢魔に会わなくては。
白ウサギは自室へと急いだ。


「……あれから、彼女のところには?」
「何度も言っただろうが、そう何度も軸を行き来することはできない」
夢魔は白ウサギの前へと降り立った。
軸を違えてしまった彼女の近況は、特殊な存在である夢魔の力を借りないと知ることが出来ない。
「ルールには従わなくてはならない。君も知っている通り」
「あなたの受けるペナルティなど、どうでもいいんですよ」
白ウサギは、他人を頼るしかない自分にまた、腹が立つ。
「ジョーカーはどの国でも変わりません。エイプリルシーズンで、ジョーカーが彼女に目を付けたのなら、軸が違ったとしてもあまりに危険だ」
「ああ、それに彼は彼女のジョーカーだ。心配の種は尽きないな、白ウサギ」
うっすらと笑いを浮かべる夢魔。何にも執着しない彼らしい、傍観者としての余裕が垣間見られる。
「笑い事ではないんですよ。わかっているならもっと頻繁に……!」
(『ルール』を破ってはいけないんでしょう?)
一種の契約のような二人だけの『ルール』を持ち出すと、夢魔はまたふわりと浮き上がり、紫煙を噴く。忌々しいほどにゆったりとした動きだ。
「ちゃんと役目は果たしているさ。常に警戒はしている」
それに彼女は分岐が始まってしまった、とつぶやく。そのとたんに、ざらつく心。
彼女の幸せとは、という答えの出ない問いに頭が支配されていく。
「……」
夢魔は乾いた笑いと共に、
「君がそんなことで悩む時が来るなんてね。やはり余所者は面白い」
(ふざけないでください)
「心外だな。ふざけてなんかいないさ。ただ、君ほど盲目的になれないだけだよ、白ウサギ」
この白ウサギらしからぬ、黒い感情でいっぱいの心を覗かれていると思うと、気分が悪かった。
(けど現状では、芋虫に頼むしかないんです。本当に忌々しい)
夢魔を見上げると、肩を少しすくめてみせた。
白ウサギは苛立ちを抑え、口を開く。このために今回は会いたくもない夢魔と会ったのだ――『お願い』をするために。
「もし本当に彼女の身に危険が降りかかったら……、僕を、彼女のもとにやって下さい。責任はすべて僕が負います」
「軸をこえるつもりか? どうなっても知らないぞ」
「ええ、構いません。彼女のためなら何だって我慢できます」
ペナルティも、何も怖くはない。たとえこの世界から自身が消えてしまっても、彼女の幸せが得られるなら喜んで犠牲になろう。
「僕のすべてを失ってもいい。アリスを、助けに行きます」
夢魔は目を細めて、承諾の意を表した。


体が浮く感覚がして夢が覚める。
静寂が包む自室を、眼鏡をかけないぼんやりとした視界のまま見渡す。
「助けに行きますから。どんな手を使っても、必ず」
呟きは誰にも届かず空間に溶ける。
彼女のいない世界、けれど、彼女を救うために白ウサギは生き続ける。

「僕はあなたの、案内人なんです。最後までお供しますから」

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