「落ち着いた?」

濡らしてきたハンカチを少年に渡す。
いやでも、と曖昧な言葉だけで受け取らない少年に折角濡らしてきたんだからと無理矢理押し付ける。
少年は申し訳なさそうな笑みを見せ、有難うと言いながらそれで目を覆った。
実際私が泣かせたようなものだしな……。――何やってんだろう、私は。
小さく溜息をついた。

「あの、さ……」
「え?」

ぼーと天井を見ていると少年の声が聞こえ、首を捻る。
忙しなく視線を彷徨わせる少年に、なにと尋ねる。

「え、と……」
「…………」
「その……、……ありがとう……」
「……え?」

聞き間違えかと思った。眼を丸くしていると少年と眼が合い、少年はもう一度言った。有難う、と。
違う。私は礼を言われる様な事など何一つしてない。
恥ずかしそうにはにかむ少年を前に、酷く自分が汚い存在だと思った。
真っすぐ少年の目を見返す事ができず、別にと目を逸らす。

「俺は、多分……、ううん、俺は誰かに背中を押してもらいたかった」
「…………」
「ふふ、まさか逃げろなんて言われるとは思わなかったけどね」
「…………」
「でもスッとした」

どこか吹っ切れた様な、そんな口調で話す少年の言葉が耳に流れ込む。

「キミの言う通り逃げるのも有りかなって思う」
「…………」
「……でも、まだ大丈夫、まだ頑張れるって思える内は止めとくよ」

あっそ、と相槌をうつ。
視線を感じるが知らぬふりをし、おざなりに置かれたリュックに手を伸ばす。

「――でももし、逃げたくなったらキミが逃がしてくれるかい?」

何を今更と、首を捻り少年を見ればその顔は笑っていなかった。
真意を探る様に少年を見返すが、所詮そんなの少年しか分かりえないのだ。本気なのか、はたまた戯言なのか。
考えとくとだけ口にし、腰を上げる。

「そろそろ帰るね」
「えッ……、あ、ごごめん! 俺の所為で引きとめてしまって!!」
「いや」

今が何時か分からないが、六時さえ回っていなければそれでいい。むしろそれだけが気がかりだ。
一度帰りが六時過ぎたときに乗った電車がいつかのテレビ番組で見た満員電車というものだった。見事私の中にトラウマを植え付け、暫く夢で魘された。
それを思い返し、震えた身体を誤魔化す様にリュックを背負い直す。
それじゃと少年に背を向けると、またしても重力に逆らうように体が後ろに引っ張られた。そろそろいい加減にして欲しい。

「……途中まで一緒に行ってもいいかい?」

文句を言う為に開いた口を閉じ、代わりに勝手にすれば、とそのまま歩きだす。
背後からバタバタと駆け寄ってくる足音が聞こえ、今まで具合が悪かった奴が走るなと注意すれば少年は何故か顔を綻ばした。
その屈託のない少年の笑顔に完全に毒気を抜かた。はあ。

「……キ、ミはさ、……どうしてここに?」

上がってくるエレベーターのランプを目で追う。

「あ、言いたくないんだったら言わなくていいからね! ゴメンね、変なこと聞いて……」

まだ何も言っていないにも拘らず、勝手に落ち込む少年を横目に小さく溜息をはく。
チンと到着を知らせるベルが鳴ると共に扉が開いた。

「……ちょっとした怪我」
「え?」
「此処にいる理由」
「あ、ああ、そうなんだ! 大変だったね」
「ん、……まあ」

少年にそう言われ、無意識のうちに首筋に手を当てていた。他の傷は結構綺麗に治ったと言うのに、咬まれた其処だけは赤黒い痣のような痕が残り凄く不快だ。医者が言うには時間が経てば自ずと消えると言っていたが、どうだか分からない。
それにこの痕がまるでまたあの男と会うことを暗示している様で気味が悪い。

「首、がどうかしたのかい?」
「……いや」

タイミング良く開いた扉から外に出る。
あの男のお陰で変な癖までつき、本当散々だ。爪を立てていた所為で微かに窪みができた其処をまた撫でていた。
受付だか清算待ちでごった返すロビーを横目に自動ドアから外に出る。一瞬少年はどうするのかと頭を過ったが、一緒になってそこを素通りした事だし余計なお世話かと思い何も聞かなかった。
すっかり日は落ち、微かにオレンジ色が残る空見上げながら携帯の電源を入れる。
時間を確認しホッとしたのも束の間、画面がたちまち不在着信と受信メールで埋まった。今日は病院行く日だと伝えたのに、だ。
――最悪。家に帰るのが嫌だ。
溜息を吐き、病院の敷地外に出た所で少年に振り返る。

「……こっちだから」
「……正反対だ、ね」

行く手を指し、そう告げると少年は真逆を指差した。

「そ、ならここでさよなら」

バイバイと手を振り、回れ右をする。
はあ憂鬱だ。携帯を持ち上げ、黒い画面を睨みつける。

「――あ、のさッ!」

少年の声が聞こえ反射的に後ろを振り返れば、少年がこちらに向かって歩いている。――今度は何だよ、おい。

「あの、……メールアドレス、を教えて欲しいんだ、けど……」
「…………」
「……駄目かい?」

そう言って小首を傾げる少年が一瞬女の子に見えた私は、大分疲れている。

「……別に構わない」

けど、と言い終える前に少年は嬉々とした表情でテニスバックに手を入れていた。
少年が取り出した携帯を胸の前に突き出したのを見て、同じように差し出す。

「あ、スマートフォンだ」
「…………」
「俺もコレが壊れたらスマートフォンにしようと思ってるんだよね」

手渡した私の携帯を羨ましそうに触る少年を黙って見守る。
親父が購入した携帯を使っているだけで、自分的には前のボタンの携帯の方が使いやすい。今では多少のアプリは利用しているが、基本電話とメールしか使わないから使用料が勿体無い。まあ払うのは親父だから文句は言わないが。
そして私は何故か少年のアドレスと電話番号を手に入れた。なんだこれ。

「――あッ!」

アドレス帳に増えた名前に目を通していると、突然声を出した少年に肩が跳ねた。

「そう言えば俺達自己紹介まだだったよね」
「…………」
「幸村精市です」
「……早川暁、です」

自己紹介する必要があるのか首を傾げたいが、あの笑顔で手を差し出す幸村君に自然と手が伸びていた。

「早川君って、何年生?」
「何年……? ……ああ、中学二年生だよ」
「本当!? 俺も中二なんだ」

学年を伝えると幸村君は更に笑顔になった。良く分からない。
それにいつまで握手をしているのだろう。いい加減離してくれないかなと、繋がれた手を見下ろす。

「早川君も何かスポーツやってるの?」
「え?」
「手が豆だらけだから、もしかしてと思って」
「……ああ、少しね」
「冗談ッ、この手が少しってレベルじゃない事くらい俺でも分かるよ」

ふふ、と笑った幸村君が少し怖かったのはここだけの秘密だ。
半ば無理やり手の奪還に成功し、若干暗さが増した空を仰ぎ見る。

「じゃあ、帰る、から。キミ、……幸村君も気をつけて帰って」
「あ、……うん」
「…………」
「…………」
「じゃ」
「――あのッ、さ……」

この子は私を帰らせたくないのだろうか。

「……メール」
「え?」
「メール、……してもいいかな?」

そんな捨てられた猫の様な眼で私を見るなと叫びたくなった。
勝手にしろと言いたい所をうん、と一言で済ませ、その場を後にする。
若干早歩き気味に先を進みながら携帯をタップし時間を確認すれば後十五分余りで六時だった。今居る場から走ったとしても最低七、八分はかかる。歩く速度を落とす。もう諦めた。

「――またねッ!!」

前を向いたまま、手を振った。
またが来るかは分からない。



今度とお化けは出たことないって言うけど

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